(前の記事の続きです)
Q : マルコによる福音書の9,22-23にこうあります。
ある父親が、>>「霊は息子を滅ぼそうとして、何度も息子を火の中や水の中に投げ込みました。もしできますなら、私どもを憐れんでお助けください。」<<とイエスに懇願すると、
>>イエスは言われた。「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる。」<<
A : 確かに、「不可能」なことも、信じる者にとっては「希望」する対象になります。 なぜなら、特定の者やことに関する不可能性は、神にとって不可能なことではないからです。けれども注意が必要です。人間の期待は神と共にある希望とは違います。旧約聖書の創世記16章にはアブラムとサライに子供が授からないので、解決策としてサライが女奴隷ハガルを夫に差し出して妊娠出産させたけれど、結局嫉妬に駆られて母子を追い出すという話があります。人間の知恵と思惑では、「期待」するものの成就は得られません。そう、私たちには不可能を希望することができますが、その解決は神のやり方に任せなければなりません。この願いとこの願いをこうしてかなえてほしい、というのではなく、神が与えてくれる時として思いもかけない道に従う心の持ち方が必要です。
Sekko : これは何となくわかる。「人事を尽くして天命を待つ」というのもあるけれど、まず「人事を尽くす」力を私にお与えください、というのがある。人事を尽くすというのはそう簡単ではないから。
そして「具体的な時間や場所や出来事」に関わる出来事について「祈る」のも、それが自分の思惑と違う展開になったら、「祈りが届かなかった」と思うかもしれない。でも、長い目で見たら、いい方向に向かっていたということはよくある。
絵馬などで「合格祈願」のようなものはたくさんあるけれど、「祈願」して合格できるなら試験などいらない。カトリックの巡礼地でも病の治癒を祈願して、治癒を得たら「お礼参り」に戻ってくるというのはあるけれど、祈願とその成就は「トレード」ではない。
よくよく自分の状況を見ると、すでに「感謝」することばかりだと分かる。
希望とその「成就」への道はすべて「無償」であり、感謝と信頼がすでに「恵み」だというのは年々実感している。