(前の記事の続きです)
Q : 特に、私たちが「闇」の中にいる時には…
A : 確かに、試練が長く続いている時に「希望」を持ち続ける力がなくなってしまうことはあります。そのような絶望的状況の中で絶望している場合は他者と関係を持てるかどうかが決定的になります。私のために希望を持ち続けてくれる親しい人たちと結びついていなければ私も希望を保つことができません。闇の中にいる時、心が折れないようにする選択があります。それはヨブのしたことです。つまり、自分のつらさ、苦しさ、怒り、人生への嫌悪感などを誰かに思うままに訴えることです。キリスト者の場合は神に向かって訴えます。それが闇を覆す転機になるのです。
自分以外の人のために希望して祈るのはキリスト者としての義務のひとつです。
でもその使命は簡単ではありません。絶望している人、閉じこもり壁にぶつかっている人を支えるのはたやすくない。その人の苦しさが伝わってくるからです。解決法を提供できるわけではないし、その人の救いが具体的にどういう形をとるのかわからないからです。それこそが、この暗闇の世界で「希望」することはまさに一つの「挑戦」なのです。
Sekko : 旧約聖書の中で『ヨブ記』の位置づけは独特だが、「絶望」をどう乗り越えるかという時に常に必要とされてきた。
ヨブに降りかかるあまりにも理不尽な不幸に、妻でさえ「神を呪って死になさい」などと言ったのに、ヨプは神を呪うことはせず、その代わりに自分が生まれたことを呪った。神に対しては一貫して、「なぜ? 」「私がいったい何をした?」と問い続ける。
死に至る病の宣告を受けた人が悲しみや受容の前に「どうして私が?」と「不当」な運命を呪い、怒りの感情を持つことはよく知られている。
「希望」を持ち続けることが難しくても、まず「怒り」を抑えないで表明することで、「表明する」相手との「関係性」を生きることができる。
全部抱え込むと押しつぶされるかもしれない。
いじめを受けて自殺してしまう人のことを思ってしまう。
(続く)