(前の記事の続きです)
Q : では、闇の中にいる人になんと声をかけるのですか?
A : キリスト者は、往々にして、闇の中で終末論的希望に走ってしまうことがあります。世界の終わりとかここではない彼方の「天の国」へ望みをかけるのです。けれども私たちがいま必要としているのは「最後の望み」でなく「最後に至る前の希望」です。神の約束に基づき、父なる神へのとりなしをキリストが保証してくれているという希望ですがそれは「今ここで」である必要があります。
現在を生き抜くためには絶望的状況への抵抗、言葉、関係性、アクションが必要です。トマス・アクィナスが「希望は言葉だけでなくアクションであらわさなければならない」と強調しています。言い換えると、「希望」とは、それに向かってアクションを起こさなくてもかまわない安易な幻想ではないということです。強く希望する人々はより具体的に行動に表わしている人です。彼らは、腕まくりをして、同時代人を助けるために人間の絶望の荒野を歩いています。
Sekko : 「闇」にも種類がある。「鬱」状態になって活動停止している人がそこから抜け出すことの助けになりたいと努力したことが何度かあるけれど、ほんとうに「鬱」の「闇」にいる人は、世界の終わりや自分の終わり(自殺願望)すらなく、すでに「埋葬」されて地中に埋められているかのような気分でいる場合もある。
言葉も、関係性も、アクションも届かないことがある。
ホルモン剤や抗鬱剤の投与で少しずつ抜け出た人も知っているけれど、そんな時は、それまであんなに励ましてきた自分の無力感に苛まれた。
具体的に何かのプランが挫折するとか、努力が報われないとか、大切なものを失うとか、とか、競争に負けるとかなどの「失望」の後での「闇」なら、言葉やアクションによって見方を変えたり、気づきがあったりして抜け出すことができたり、抜け出すことを手伝うことができたりもする。
でも本格的な「鬱」の闇に落ち込んだ人には、こちらからのアクションに反応してもらえない。
で、「抗鬱剤」? フランスはヨーロッパで一番抗鬱剤か処方されている国だという。
知り合いが抗鬱剤を服用するのを見るたびに、なぜか敗北感に捕らえられる。