(前の記事の続きです)
Q : 具体的に、どうやったら「希望」を持ち続けることを学べるのでしょう?
A : 信仰や慈しみと同じで、「希望」というのは私たちより前に与えられ、私たち全員を導く賜物なのです。私が受けた洗礼の恵みで与えられた信仰は、私の信仰、私の両親の信仰など個別のものを超えたものです。同じように、洗礼と共に与えられた「希望」も、私や両親などを超えたはるかに大きいものです。そして私はこの賜物を体験の中でたえず更新するのです。喪失や行き止まり、崩壊など、ぎりぎりの状況で希望を必要とする時にこそ、学ばなければなりません。私が自分の「紅海」を渡らなくてはならなかった時、記憶をたどることで力を得ました。それまで絶対に解決できないと思っていた状況の中でも、見方をまったく変えることが合理的に可能でした。
見方を変えれば、それほど絶望的状況ではなく、自力で抜け出すことができました。主の聖霊の働きを受け取って、さまざまな例を想起しながら、記憶をたどり、記憶に刻むことです。聖霊がどのように働いてきたかということを識別することが決定的です。それによって次に私を襲うかもしれない試練に対しても聖霊の働きを感知できるでしょう。
(「自分の紅海を渡る」というのはモーセがユダヤ人を率いてエジプトから逃れた時のエピソードを指している。不可能が可能になった。)
Sekko : なるほど。「希望の神学」だから、当然、「信仰と希望」という聖霊の働きに収束していくのは理解できる。
どんな絶望的な状況にあっても、視野を広げ、視座を変えることで確かに別の見方ができるのも分かる。
早い話が、今の世界情勢や政治の無力や気候変動の深刻さなどばかり見ていると、絶望的、悲観的になるし、自分の体の痛いところなどに視点を向けると、地球の未来よりも今夜自分が安眠できるかの方が希望と絶望を分ける。でも、秋の花が咲き始め、鳥が鳴き、猫を愛撫していると、感謝の念でいっぱいになる。
とりあえず、飢えや寒さに苦しむことなく、戦争や天災にも巻き込まれていないことだけでも、すでに、圧倒的に「救われている」。
「闇」の中にいる人に、その光が届くように、私たちは本当は同じ太陽の恵みを受けているのだと気づくように、声をかけていきたい。
自分がいつか「闇」に入っても、「光の記憶」や「光を分け合った記憶」を想起する「意志の力」を忘れないようにしたい。
このインタビュー記事では充分理解できなかったことは、このドミニコ会士の著書を読むことで明らかになるのかもしれない。(このシリーズは終わりです。)