9/26の朝、フランス語版のヴァティカンニュースで、袴田巌さんの無罪判決を知った。
フランスは新内閣をめぐってのニュースや犯罪歴のある不法移民による女子学生殺害などの話題、国際ニュースとしてはもちろんレバノンとイスラエル、ウクライナとロシア、国連でのマクロンなどが占めているが、ヴァティカンニュースでは袴田さんのことが報道されているのが新鮮だった。
袴田さんは獄中でカトリックの洗礼を受けている。無実なのに死刑を宣告されたという不条理と絶望の中で、十字架で刑死した「神」を語るキリスト教の信仰にすがる思いだったのだろうか。
2019年に教皇が日本を訪れた時も、東京ドームでのミサに出席した。でも望んでいた教皇との対面は果たせなかったし、教皇が死刑反対のメッセージを発することもなかった。
とはいえ、もともとカトリックは、死刑反対がデフォルトだから、袴田さんの支援、救命運動には、カトリックのネットワークが少なからぬ役割を果たしたことだろう。
でも、キリスト教的には、たとえ「冤罪」でなくとも、死刑そのものが禁止なのだから、「冤罪」を覆して無罪だけを強調するのも微妙に注意しなくてはならない。
袴田さんの無罪は、警察や検察、司法の歪みがなければ、明らかだったと思われる。
彼の証言を、プロテスタント系の新教出版社が出していて、私は読んでいないけれど、大きなインパクトを与えるものだった。
今、検索してみたら、amazonの読者による長いコメントがあった。これを読むだけで胸につまされる。
袴田さんが釈放されてから、彼のために戦ってきたお姉さんのひで子さんのことがよく話題になっていた。今年91歳、弟の無実を勝ち取ることは、死刑判決を知って失意のうちに次々と世を去った両親の供養の絶対条件だった。
ひで子さんも洗礼を受けられていたのかどうかは知らない。
けれども、彼女の信念、どんな困難の前にも絶対にぶれない覚悟は、今はないご両親への思いとつながっているので、単なる「現世」のものでないことは確実だ。
ひで子さんの絶対の覚悟の前には不可能はあり得なかったのだろうけれど、傍目から見ると、「早く、早く、早くしないと、無罪を見届ける前にひで子さんが倒れてしまうかもしれない」と心配でならなかった。時間との闘いのような気がしていた。
だから、勝訴、無罪判決を聞いた時、ひで子さんが「やり遂げた」ことが嬉しくて涙がでた。人って、こんなすごいことができるんだ、ぎりぎりの逆転だってあるのだ、という希望と勇気をもらえて、感謝の気持ちでいっぱいだ。プロスポーツ選手が打ち立てた歴史的記録などとは別次元だ。
ひで子さんを応援したり支えたりした人たちにもさまざまな立場や動機があるのだろうけれど、ただ、彼女の確固として貫いた使命感が達成されたことを見ていただけの私のような人までも、無償の、けれども無限の価値のある何かを受け取ったと思う。
日本の検察や司法の問題や死刑制度の是非などとは別の次元で、愛と信念が果たすことのできる無限の可能性を実感させてもらった。
巌さん、ひで子さん、ありがとうございました。
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