フランスのユダヤ教を代表する大ラビが著書について語るインタビューで、おもしろいことを言っていた。
ヘブライ語には現在形がないというのだ。なぜなら、ユダヤ人にとって「現在」は存在しないから。今、現在と思っても、それはすでに過去となる。現在を切り取ることはできない。だから、過去と未来しかない。
それについて小話まで披露してくれた。
>> ナチスのユダヤ人狩りに怯えていたあるユダヤ人家族がいた。ある日、ついに、ナチスが進入してきて一家は連行され、収容所送りになることになった。
その時、父親が家族にこう言った。
「今までは、いつか捕らえられる日が来ることを恐れながら生きてきた。これからはいつか解放される日が来ることを期待しながら生きていけるだろう。」と。<<
小話だけれどなかなか含蓄がある。
確かに、いつか来るかもしれない病気や災害、事故、戦争、いつ来るかは分からない死や別れなどの不安をいつも抱えて生きているのはナンセンスだし、いつか来るかもしれない平和な世界を目指して生きる方がいいなあと思う。
今は知らないけれどパリ大学の東洋語学校の日本語科では、半世紀ほど前には「日本語の動詞には現在形も未来形もない」と教えられていたのを思い出した。
確かに、英語やフランス語の感覚では、動詞には「原形」というものがあって、それが現在形、過去形、未来形などという「活用形」になる。
でも、いわれてみれば確かに日本語動詞には未来形がない。「今日はxxする。明日もxxする。」と言えるし、「するでしょう」というのは推測だ。
で、フランス語の現在形も未来形も、日本語では同じ「原形」を使うので、東洋語学校ではそれを「atemporel」(非時間、非時制)と呼んでいた。
この呼称に、日本人としては驚いたのを覚えている。
では、ヘブライ語の解説風にいうなら、日本語には「過去しかない」のだろうか。
現在も未来も、確かなものでない、とらえられないものだから「非時間」なのだろうか、と考えてしまう。
もちろんこの時制名はインド=ヨーロッパ系言語を基準にした呼び名だから、セム語族のヘブライ語やアルタイ語族(といっても特殊な)の日本語に当てはめられないだろう。
でも、英語が世界共通語になっている現代世界で、言語を通じて世界観の違いに思いをはせてみるのも楽しい。