普通の日本人はbeau というと「美しい」という形容詞(の男性形で女性形はbelle)で、la beauté というと「美しさ」とか「美」という名詞だと理解している。
la belle というと、「美女と野獣」のように「美女」となる。
でもこの他に「le beau」というのもある。これは別に「美男」le bel hommeではなく「美」なのだが、では、la beauté とle beau の違いは何かというと、それを明確に言える人は少ない。
でも、この使いわけは、例えば、私が音楽仲間と演奏している時に出てくる言葉は必ず「le beau」であって「la beauté 」ではない。
la beauté は主観的で、「見た目」が主で、言葉で言い表せないし、見ることもできない「超越的なもの」につながるもの、与えられているものに、le beau が現れる。
すると最近、テレビでおもしろいことを言っていた。
AIにla beauté を検索させて、それに当てはまる人間の姿を映してもらったら、「美女」の姿が出てきた。もちろんステレオタイプの美女で、髪は金髪で長く、顔立ちはコーカソイド(白人)、胸が大きく、ウェストが細く、腰がはっているというキム・カーダシアン型。AIはネット内の「美」に関する映像をすべて検索して最大公約的美女の姿を出したのがそれだった。
その時の解説が、la beauté とは le rapport de force である、というものだった。つまり、力関係で、それは、時代や場所によって変わる。多く検索される、多くの金を稼ぐ、多くの人の憧れの対象になる、商売道具になる、スタンダードになる、ランク付けの対象になる、などだ。
いい得て妙だと思った。
ある音楽や絵画や建築や衣服が「美しい」という時、それは時代の基準、社会での位置づけに関連しているかもしれない。それは la beauté のレベルなのだ。
Le Beau は存在する。
朝日の光かもしれないし、雲の動きかもしれない。
le beau に参入したりつながったり存在の根を揺さぶられたりすることはなんという「恵み」だろう。
パワーバランスとは無縁の世界がそこにある。