コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum という言葉は誰でも耳にしたことがあるだろう。「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの言葉だ。
ちなみに日本語のwikiを検索してみた。
いろいろ解説されているが、アルファベットの文化圏での使われ方の広がりは想像を絶する。
日本語のwikiにあるように、cogito ergo sum というのは実は「方法序説」では使われていない。普通にフランいういうものだ。「je pense, donc je suis」と書かれていたのが、衒学的にラテン語で使いまわされるようになり、さらに広がりすぎて滑稽の域に達している。フランス語の文も、さまざまなジョークや宣伝文になっている。
ラテン語からのジョークで最近の傑作だと思うのは、
「Covido ergo Zoom 」というもの。
新型コロナはフランス語ではCovid-19。
「コヴィド・エルゴ・ズーム」、つまり、コロナ禍の外出規制でZoomを使うようになった、というものだ
哲学者ドニ・モローによるこの本がとてもユニークだ。
(このリンクでは、最初の部分がネットで読める。)
そこに書かれているように、プラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲル、ベルグソン、らの「哲学者の名言」というのがいろいろあっても、デカルトのこの言葉ほど、ビストロの会話から家庭の食卓まで使いまわされるものはない。この言葉の一人歩きがなければ今日のデカルトのポピュラーさは存在しなかっただろう。
といっても、この辺は、ラテン語はもちろん、訳が「我思う、ゆえに我あり」という文語で定着している日本語の世界では想像できない。
フランス語の「je suis」のsuisは一人称のいわゆる「be動詞」だ。
デカルトは別のところ(「省察」)ではラテン語で“ego sum, egoexisto”(我あり、我存在す)と書いているわけだが、日本語では、そもそも、存在する、ある、有る、在る、などの言葉はあっても、be動詞はない。
日本では人が個人として「存在する」というより、共同体の中での関係性として存在していたし、それはルネサンス以前のフランスでも一般的には同様だった。「我」が考えたり、存在したりすることが哲学的命題につながるのは、ルネサンスを経てまさにデカルト的な発想の転換を経た上のことだった。だからデカルトは当時の感覚では無神論者だと見なされたわけだし、以降も無神論者のレッテルはついて回った。(それが逆にフランス革命後も彼の思想的価値を担保したともいえる。)
日本では、「哲学者たちと一神教との関係」のインパクトが伝わらないから、なかなか想像できない。
それでも、あらゆる場所で、あらゆる時代に、人は、考え、疑い、生き続ける。