ヴィオラとギターのコンサートを月末と2/8に控えていて、じっくり本を読むひまがないのに、三本の興味深いインタビュー記事を見つけた。
一問一答で、直訳ではなく意訳でメモしていく。
すべて LA VIE No 4136 (2024/12/19-26号)より。
まず、L'art chrétien n'apparaît pas EX NIHILO
東方キリスト教の研究者ラファエル・ジダエ(Raphhaëlle Ziadé)がキリスト教のイコノグラフィについて語るもの。(プチパレのビザンチンコレクション責任者)
EX NIHIROの意味はこれ。
つまり、神が宇宙を虚無から創造したとしてもキリスト教の芸術そのものは虚無から生まれたわけではないというテーマだ。
初期に禁止されていたキリストの図像は、その後、キリスト教にとって重要な役割を果たすことになる。容認され、奨励され、また禁止され、最終的に許可されたキリスト教の画像は、伝統と革新のどちらにも軸足を置くという。
Q : 初期教会ではイエスはどのように表現されていましたか?
A : キリスト教の最初の200年間、画像のない宗教だった。(最新の考古学に依拠)
パウロは当初、ユダヤ人にキリスト教を伝えた。ユダヤの神は図像を禁止している。
出エジプト記/ 20章 04節
あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。
これは旧約世界に浸透し、神を見ることは死につながるとさえ思われた。
実際、神の栄光を見たかったモーセに神はこう答えていた。
出エジプト記/ 33章 20節
さらに言われた。「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。」
シナイ山でも、モーセが出会った神は「姿」ではなく、光であり声だった。
(続く)