私の書斎には過去に読んだ日本語の本がたくさん積まれている。全集などは本棚に並べているが、文庫本などはほこりを被っている。
年明けに、そんな文庫本の一冊が、何かの拍子で落ちてきた。表紙を見ると『パリ遺言特急』とありカバー絵も印象的だ。ニースからパリへ向かうミストラル特急の中で大富豪が遺言を残す、とある。
まったく記憶がない。タイトルにもインパクトがあるし、ミストラルにも郷愁をそそられて、新年最初に読む小説に決めた。
見ると、私が最初に読んだのは1984年版(初版は1979年)で、小説の舞台は1973年、第四次中東戦争が勃発して石油危機が起こった時代、アラブ産油国諸国とイスラエルが敵対し、諜報機関が暗躍するという設定だ。ストーリーはまったく記憶にない。
読み返して分かったのは、これがいわゆる本格推理小説ではなく、「意外な結末」などもないサスペンス小説(民事法廷部分の描写はそれなりに興味深いが)なので私の「ミステリー小説」の記憶に取り込まれなかったらしいということだ。(読んだ本は必ず感想をどこかにメモしていたはずだけれど、もうどこに何があるか分からない。検索できるブログはやはりありがたい。)
でも、2025年の今読むと、まさに中東でイスラエルとアラブ諸国が戦火を交えているところだし、専制国家の秘密組織による誘拐や暗殺なども普通に報道される時代になっているので、「臨場感あふれる」と感じてしまった。
第四次中東戦争のきっかけは1973/10/6のエジプト軍によるイスラエルへの奇襲攻撃とそれに対する大規模な報復だから、ちょうど半世紀後の2023/10/7以来のガザ戦争を連想してしまうのだ。「石油危機」でのパニックの描写も、ウクライナ戦争でロシアのガス輸入が止まった欧州での電力節約パニックが記憶に新しいのであらためて納得がいく。(1973年は東京にいて、トイレットペーパーが買い占められたニュースも覚えているが個人的に困った覚えはない。)
もちろん、時代の差も感じられ、懐かしい思いにも駆られる。
ニースに初めて行ったのは1970年代だし、ネグレスコ・ホテルに泊まったのは90年代だった。1970年代の「特急」にみな6席の個室コンパーティメントがついていて、はじめて利用した時は新鮮だったことも覚えている。その中に鏡があって、「フランスの列車の個室にいる自分」を見て感慨深かった記憶がある。(ミストラルは1982年まであったそうだが、70年代にニースに行った時は車だった。)
小説の中で、主人公の弁護士が西ドイツの日本大使館と電話で話し合い、遺言書のコピーを見てもらうためにすぐに郵送するから、というシーンを読むと、文書をスキャンしたり撮影したりしてメールで送ることができないばかりか、FAXさえ使われていなかったのだなあ、と隔世の感だ。日欧ハーフのヒロインを「混血」と書いたり、髪や髭の色が黒いことをユダヤ人の見分け方のひとつにしていたりという部分も20世紀だなあと思った。パリの一流ホテルの鍵の形の描写もなつかしい。
ヨーロッパのすばらしい観光地としてドブロヴニクが勧められているのも珍しいチョイスだと思った。私がドブロヴニクに行ったのは21世紀だけれど。
遺言書を残した大富豪父娘が、神戸在住というのも、神戸に多くのユダヤ人亡命者が受けいれられてきた歴史を思い出させる。このカウフマンや、東京裁判以来日本に残って日本の弁護士資格を持っているマシューズのモデルになるような人が当時の日本にいたのかどうかは知らない。
和久俊三の他の小説もひょっとして読んでいるかもしれないが記憶にない。弁護士をしながら何百冊も小説を書いているなんて神業だ。
昨年秋の日本では楽器と仲間が一緒で新年の読書用ミステリーなど買えなかったので、これで満足した。