「La Vie No 4138-39, 12/19-26 合併号」のインタビュー記事を読んでいく第二弾。(問いと答えの要約です)
ベネディクト会士 ダヴィッド=マルク・ダモンヴィル(David-Marc d'Hamonville)が神のイマージュについて答える。
Q : 創世記1,26に
>>神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。(聖書協会共同訳)<<
とあるが、神の姿が我々のうちにあるとはどう理解すべきか?
A : 私が書いた賛歌の歌詞は、「始まりの時、主よ、あなたは私を見た。それ以来あなたの目は光だと知った。あなたは私の奥深く、闇を貫いてあなたの姿という真の輝きを灯してくれる」というものだ。イマージュとは我々の中にある不変の命の息吹きだ。この命を欲する深い心、起き上がり、変化し、絶えず進んでいく力は、我々の中にある神やキリストのについて何かを語っている。
sekko : 創世記1,26の別の訳をみよう。
新共同訳)我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。
口語訳)われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、
文語訳)神いひ給ひけるは我儕に象りて我儕の像の如くに我儕人を造り
(「象りて」は「かたどりて」、「我儕の像」は「われらのかたち」)
「我々」って誰? 一神教なのに神々がいるのか?と思われそうだが、キリスト教では「神とイエスのこと」だと解釈されている。つまり、宇宙や人間を創造する前に子としてのイエスが造られていた。その根拠は多分パウロの「コロサイの信徒への手紙/ 1,15-17」にある。
>>御子は、見えない神のかたちであり/すべてのものが造られる前に/最初に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも/見えるものも見えないものも/王座も主権も/支配も権威も/万物は御子において造られたからです。/万物は御子によって、御子のために造られたのです。
御子は万物よりも先におられ/万物は御子にあって成り立っています。<<
三位一体とかイエスが天地創造以前にいたとか、罪を重ねる民に業を煮やした神が人間の形に受肉したという初期のキリスト教と違うのでは、とか、旧約の神はそもそもユダヤの民族神から出発したのでは、とか、創世記が書き加えられたバビロン捕囚の時代にはまだ単一の神という観念は定着していなかったのでは、とかいろいろな疑問が出てくるかもしれないが、ひとまずスルーして次を見よう。(続く)