Q : 本当に生きるために?
A : 本当に生きることは、自分自身という重荷を軽くすることで、幸福の一部だと思う。自分以外の誰かが船をこいで良き港へと向かってくれるなら、自分の悩みは少なくなる。
Q : (このインタビュー記事は2024年のクリスマス前のものだったので)
か弱い幼子の姿のイエスを飼い葉桶に観る時、我々は何を促されるのでしょう?
A : 「キリストのまねび」の最初の部分に、我々はみなか弱いけれども、キリストは誰よりもか弱いとある。この世に生まれたキリストの生死がマリアとヨセフの好意にのみかかっているのは驚きだ。その後の「教育」も大変な道だ。神の子がとったリスクはあまりにも大きい。強い者が弱い者として現れる。その形をとるのが神の選択であり、人としてこの世を生きる場所であり道であった。(終わり)
sekko : 一問ずつ読んでメモしてきて、なんだかイエスの画像の話と関係がないなあ、と思っていたら、答えているのが70歳のベネディクト会修道士David-Marc d'Hamonvilleだということに気づいた。彼は「マルコによる福音書」の解説「マルコ-衝撃の物語」の著者だ。この本は私が一番信頼している本。
この先キリスト教について書く本での第一参考文献になると思っているくらいだ。
付箋がたくさんついている。今見たら、表紙の水彩画は著者自身の手になるもので、修道士になる前は画家だった。
つまり、この一連の答えは、画家であり修道士である人が神の似姿について話しているわけで、そう思って読み返してみると、あらためてその深い意味に気づく。
この世にあらわれる「姿」って何だろう。「姿」を通して生きるって何だろう。
読み返してから考えてみたい。
今の時点でふと連想したのは「承認を開く」という暉峻淑子さんの本だ。
ネットで「はじめに」を読むと、次のような文があった。
>>>人間は自分で自分を見ることができないので、他者という鏡に映して自分を見ます。その結果、自分の姿が他者から肯定的に評価されれば、自信が出てやる気も湧くでしょう。……他者から承認されることは、自分が客観的に認められていることの証明でもあり、社会に必要な人間としての普遍性に一歩近づくことにもなります。何よりも、自分が生きていることの意味を自覚させてくれます。<<<
「キリストのまねび」の話を延々と読んだ後では衝撃的なくらい逆方向だ。
ダヴィド=マルク・ダモンヴィルは、このシリーズの前回の「その9」の中で、鏡で自分を見ることで都合の良い外見の自分を承認することさえ生きることの矮小化だと言っている。それなのに、暉峻淑子さんは、他者からの承認によって社会に必要な人間の普遍性に近づいて、生きていることの意味を自覚できるというのが一般的だと言っている。これでは社会的弱者、あるいは生物学的弱者の「か弱さ」など、どこにも居場所がない。
自分を捨てることで「弱さ」が「強さ」に代わるという「神の似姿」って、ある意味、過激で鮮烈な考えだなあ、と思えてきたので、このシリーズ、じっくり読みなおすことにする。