遅きに失するとはいえ、昨年8月に荒井献先生がご逝去されたことを知ってご冥福をいのります。
下にリンクされたブログを読んで、専制のメッセージがちゃんと伝わっていることに感激した。
これまで多くの先生方の薫陶を受けてきたけれど、荒井先生は、おうちに招いてくださった数少ない先生で、大学時代に限ると唯一の先生だった。
しかも、ゼミなどで普段親しくしてもらっているという関係ではなく、教養学部で週一回の第三外国語の枠の年度末試験のためにご自宅に招いてくださったのだ。
古代ギリシャ語の講義で、確かに、最初は十数名くらいはいた学生が、最後は私を含めた3人にまで減っていた(その後で「新約聖書のギリシャ語」というゼミに誘ってもらえた)。もともと古典専攻志望の学生さんは別として、私は生まれて初めて「予習復習」をしたのに、単語の活用が複雑すぎて、がんばっても辞書すら満足にひけないという劣等生ぶりだった。
でも、最後までやめなかったことを祝福してくださったのか、最終試験はプラトンの「ソクラテスの弁明」の一部分を3人がそれぞれ翻訳しながら分析するという口頭試験で、範囲が分かっているから、十分準備もできた。
で、お招きされたのが、当時1970年代はじめ住んでいらっしゃった郊外のいわゆる「団地」だった。「大学でギリシャ語を教えている先生が学生を招くご自宅」というイメージとはかけ離れている。リビングのような場所の長椅子に向かい合ってプラトンを無事に読み終えると、お嬢さんがお茶とお菓子を運んできてくださった。
アパートは狭く、廊下を含めてあらゆるところに本が積んであった。
すべてが非現実的な気がした。
でもその飾り気のなさと家族ぐるみのご親切によって、「お人柄」とは何かと言うことに気づくことができたように思う。
荒井先生は私の兄にラテン語を教えていたそうで妹がギリシャ語(私はラテン語はアテネ・フランセで習った)というのは珍しいと言われたことがある。(その兄は後にイスラム思想の教授になって、兄のうちにもいたるところに本があふれている。)
荒井先生や、やはり当時教えを受けた八木誠一先生は、今思うと、「信仰」における「宗派」バイアスのない方で、研究におけるそのスタンスが、宗教からも宗派からも一歩引いたところから内的な「霊性の比較」をするというやり方を導いてくれたように思う。
もちろん、先生の著作はその後も貴重なものとして、フランスに住んでからも購入してずっと参考にさせてもらっている。
すばらしい先生方に出会えたことが、学生生活で培った最大の宝となった。