これは、オスマントルコのスルタンであったスレイマン一世のサインだ。こういう装飾の銘をトゥグラという。
フランスの国立図書館には、スレイマンのこのトゥグラが描かれた手紙が残っている。
イタリアに領土の野心を持っていたフランス王フランソワ一世が、1525年2/24、イタリアのパヴィーアで顔と脚を負傷してスペイン王カール大帝軍の捕虜になった。
摂政となった母親のアングレーム伯妃が、スレイマン一世にフランス軍と共に戦ってくれるように依頼する手紙を出した。スレイマン一世はハンガリーやウィーンにまで兵を送った最盛期のスルタンだ。
西ローマ帝国の皇帝の称号も得たカール五世のハプスブルグ家はカトリックだが、同じカトリックのフランスが、イスラム教のスルタンやプロテスタントのイギリス国王と同盟を組んでハプスブルク家と対抗しようとしたのだ。
フランソワ一世はイタリアからスペインに各地に移送され、翌1526/1/14のマドリード条約で解放された。イタリア進出の野心は砕かれた。
スレイマン一世からの返信がフランスに届いたのは1/26のことだった。1,6メートルもの巻物に、トプカピ宮殿の書記が金の文字で書かれた後に、トゥグラが描かれている。金やラピスラズリでスルタンの名や家系や称号が配されている。
スルタンからフランス王への最初の手紙だった。

以来、両国は一種の友情で結ばれ、外交的にも文化的にも商業的にも深い縁が結ばれた。
この後、有名なレパントの海戦で、カトリックの連合軍がトルコに勝利するのだが、フランスは、ヴェネチア(基本的に商人の国で、地中海でのトルコ軍の進出を阻みたかった)や領土拡張の野心を持ったスペイン王のような野心はなかった。でも表向きはローマ教皇がイスラム教国と戦うという十字軍のような名目でカトリック圏(プロテスタントの登場で弱体化していた)に招集をかけたので加わったというところだった。
ちなみに、歴代のフランス王の署名や印璽を調べてみたら、いたって平凡だった。
アラブ世界のカリグラフィのすばらしさにあらためて感嘆する。
トルコがNATOに加わり、EUにも加わろうとしていたのもなるほどと思う。
だからこそ、今のエルドアンの「オスマントルコ帝国」回復の強気を見ていると、複雑な思いを禁じ得ない。