ピエール・ド・ポンカロが、ドレスデンの工場での労働に応じて病に倒れたという話について調べていたすぐ後で、フランスのTVで、STOについてのドキュメンタリーを視聴した。STOとは徴用労働のことだ。(service de travail obligatoire)
ナチス・ドイツはフランスだけでなく占領したすべての国から労働者を調達していた。
オランダ、ベルギー、イタリアなどの他、ロシア、ポーランド、ウクライナ人もいて、東欧からの労働者は劣等民族でどれ手のように扱われていたという。
重労働とはいえ、最初の頃は、ドイツで稼いだ金をフランスの家族に送金していたものもいた。戦況が悪くなると、強制徴用となった。ヴィシー政府は積極的に対応した。
フランス軍の捕虜1人の返還に付き、3人の手に職のある若者を工場に派遣するという話もあったが、返されたのは労働力にならない傷病兵ばかりだった。
末期にはドイツ軍による労働力の要請はますますひどくなり、ヴィシー政府はアルメニアやアルジェリアの移民を送り込んだ。
ドイツでレジスタンスに加わる者もいた。工場作業のサボタージュや逃走がばれると収容所送りになった。
悲劇なのは、1944年にフランスが連合軍と共に自由を取り戻した後だ。ドゴールがパリに凱旋し、パリの若者たちは自由を謳歌し、GIの若者たちと興じ合ったほどなのに、ドイツから出られなかった徴用工たちは、飢えと病だけでなく連合軍の爆撃によっても命を落とし続けたことだった。65万人のうち、10万人は帰ることがなく、遺体も特定できないままだった。第二世界大戦のヨーロッパで故国を離れざるをえなかった若者は3千万人にのぼるという。
最後は飢えと病でかなり悲惨だった。
1945/4/15にアメリカ軍によって解放されたが、ドイツの軍需工場などで働いていたのだからドイツ軍の協力者と見られる場合もあって、何ヶ月も留め置かれる場合もあった。特に、ソ連軍にとっては、ドイツにいた徴用工たちは奴隷と同じだったという。
その後フランスに帰って家族と再会しても、ナチス協力者のような目で見られたり、死者も戦没者とは認定されなかったりした。「祖国のために戦った(あるいは)英雄」というステイタスは得られない。
共産党書記長として大統領選にいつも立候補していたジョルジュ・マルシェも「元徴用工」という出自が批判の種になったことがある。
彼らが戦争の被害者だと正式に認められ、強制移送された者、抑留者という立場を正式に認められたのは1992年の2月で、国から賠償金を受け取るようになったのは2008年になってからだ。
ポンカロの話を読んだ後でこのドキュメンタリーを視聴して、はじめて日本の「徴用工」の問題に思いを馳せた。日本においても徴兵は「もちろん学徒動員などもあったわけだが、いわゆる徴用、労働力の動員には三種類あったという。
朝鮮総督府による官斡旋や令状などがヴィシイ政権によるナチスへのコラボに相当するわけだ。
ドイツとフランスの関係と、日本と朝鮮との関係や、戦後の展開は別物だが、いつまでも続くような保障問題の機微が少しわかったような気がする。
過去に学ぶ、歴史に学ぶ、ということが本当にできているだろうか。
「戦争」におけるさまざまな理不尽が今も、この瞬間も、繰り返されていることは衝撃的だ。