Donner la langue au chat (舌を猫にやる)という表現は、「謎々」などの質問に対して、答えを出すのにあきらめる、降参するという意味だ。セヴィニエ夫人が最初に使ったとか、はじめは犬だったのがジョルジュ・サンド以来猫になったとかいろいろな説があるが、要するに、自分の舌をもう使わない、もう答えるのをあきらめる、ということだ。猫は犬より静かだから、秘密を託しても誰にも分らない、という意味もあるそうだ。で、直訳「私の舌を猫に」というタイトルは、50歳を過ぎた倦怠期の夫婦が、親戚や友達を招いてバカンスを過ごす間にヒロインの唯一の愛情の対象である猫がいなくなった、という物語。
映画に行く気力もモチヴェーションもなくうちに閉じこもっていた8月半ばに、「猫」に惹かれてテレビで視聴。コロナ禍での撮影で、出演者らがホテルを借り切っていたという。
50代のカップルの他に、28歳のインフルエンサーの女性もいる。彼女はいつもベッドの中にPCを持ちこんでいる。その他、失業問題、老親を失くした後での感情の問題、
閉経した女性が体調を崩し、仕事の上で生産的ではなくなる、男も精力に自信がなくなる、などのいろいろな問題が交差する。
ベルギー人女性監督のCécile Telermanも、主演のザブー・ブレトマン(ブライトマン)Zaboo Breitmanも他の出演者もあまりなじみがないのでまるで知らない他人の私生活をのぞいているような気分。
そのせいか、なんだかとてもリアルで感情移入できると共に、別世代、別世界の出来事だ。言葉の掛け合いや感情の食い違いなど細かいところまでよく理解できるのだけれど、私の周りの世界ではあり得ないことばかりだ。
彼らの世界は(ひと世代若いことを別にしても)、フランス人あるあるで、よく分かる。でも、私が半世紀生きている世界とはかけ離れている。
日本映画で家族の葛藤などを描いたものにはそれなりに没頭できるし、私自身のリアルとは別世界だという事実を特に想起しない。フランス人のフランス語による人間関係を描かれると、日本人ドラマよりも身近なのに、いや、身近だからこそ、距離を感じてしまう。この映画の登場人物はどちらかというとエリート、ブルジョワで私の周りにいそうなグループなので違和感がかえって強い。
「猫」の失踪をめぐってのドタバタということで「猫」に反応して視聴したのだけれど、「猫」はあまり出てこなかった。意外な展開もあり、ちょっとしたミステリーのような伏線(目撃証言など)もあって、飽きなかったことは事実だ。
おもしろいのは、全体として、男と女がいると、女の方が「強い」ということだ。社会的な権力勾配のないところでは、男は女の機嫌をうかがって生きている。その感じがとてもリアルだ。
それにしても、あらためて、フランスでの私の半世紀にわたる暮らし方は、あまり世間に例をみないやり方で、幸いそれに呼応するような人ばかりが周りに集まっていたというような気がしてきた。
これまで運よく、世間の目を気にしたり、「普通」を目指したり、承認を必要としたりなどという必要もなかった。その幸運を、「生き難さ」を抱える人の役に少しでも立てるように活かすことができればいいのだけれど。

生かすことがつために可能な限り活かしたいものだ。