科学ドキュメンタリー番組で、人間の運動能力の限界についてやっていたのをたまたま視聴した。スポーツ競技の記録更新についてだ。どんなに速く走っても、猫科動物のようには走れない。
(猫は跳躍力も半端じゃないから、猫を飼っていると自然に謙虚になる。)
さまざまなドラッグを使うことで可能性は広がり、いわゆるドーピングが半ば公然と行われていた時代もあった。名前は忘れたけれど、冬季オリンピックのスキーで1960
年代かに二度優勝した人の記録はあまりにもずば抜けていたので、後から、きっと何かの薬やホルモンを補充していたのだろうと推測されるようになったけれど、後に、特殊な遺伝子を持っていたことが分かった。特別変異のような能力を持っている人もいるのだ。
で、そうやって競技する人にとって、結果については、
才能 70%
継続(努力) 20%
メンタル(精神力) 10%
なのだそうだ。
私はどんなスポーツでも、才能もないし努力もしないし、メンタルだけはある程度コントロールできるかなと言ったところ。
音楽やダンスも同じ。でも、5歳の頃からやっているので「継続は力なり」というのが少しはあって、人前で披露する時のメンタルの調整もまあまあ。
「才能」のある人は、身近でもたくさん見てきた。
才能のほとんどはやはり遺伝というか、持って生まれたものだとつくづく思う。
いわゆる「学校のお勉強」は、昔は記憶力があればたいてい楽にこなせたので、努力はゼロに近かった。(だからあれこれお稽古ごとに明け暮れたのだ。)
でも、「才能」があって、努力しないでも楽に一定の結果を出せる普通の人って、喜びがないかもしれない。才能によって社会的な承認欲求を満たされたり、いろいろな利益に結びついたりすればまた別だろうけれど。
「努力」することそのものが喜びという人はいるのだろうか。
聖母マリアに関する歌の歌詞に、マリアが私たちを導き、共に歩いてくれる、というのがあって、最後のリフレインで、私たちを「港」に連れて行ってくれる、というのがあった。
なるほど、天国に連れて行ってくれるというより、イメージが広がる。
「目的地」に向かって歩くのではなく、港に着いたら、新しい船出があるのだ。
もう「道」ではなく、大海原、もう歩かなくてもいい船出。
才能や努力やメンタルが、単に「前人未到の新記録」を目指すために使われるのではなくて、未知の世界に誘ってもらえることもあるのだろう。
そういえばエジソンの有名な言葉に「天才は1%のひらめきと99%の努力」とか言うのがあった。確か原文はひらめきがインスピレーションだったかもしれない。だとしたら聖霊の働きかも。でもこれは発見についてで、身体能力の天才はイメージされていないだろう。ひらめきではなくて1%の「遺伝子ガチャ」で有利な上に99%の努力を重ねてくれた先人たちに、私たちは多くを負っている。