ナチス政権下のドイツで、子供たちは学校の宗教の時間(ドイツは政教分離がないから公立学校でも宗教の時間が設けられる)で、新約聖書のある部分に線を引いて消すようにと言われたそうだ。(聖書学者トマス・ロメールの母親の証言)
それはこの部分。イエスがサマリアの女に言ったという言葉。サマリア人はユダヤ人と敵対していると考えられていた。
ヨハネによる福音書4 ,21-23
イエスは言われた。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。<<<
聖パウロも、ユダヤ人の神の救いの業がイエスによって実現したという福音を「異邦人」に宣教して回った時に、「いやあ、あなたたちが生まれながらのユダヤ人でなくても、福音を信じるならユダヤ人なんですよ、ユダヤ人かどうかは生まれではなく内面なんですよ」という形で、「救われるのはユダヤ人」という言い方をしている。
内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。そのような人は、人からではなく、神から誉れを受けるのです。(ローマの信徒への手紙 2,29)
この辺のことはまた別のところでゆっくり展開するけれど、何となく、戦後日本の「教科書黒塗り」を連想してしまった。
差別思想を正当化するための聖書の部分否定と、自由民主主義に反する思想を否定すること、逆のベクトルではあるけれど、「教室で子供にそれをさせる」というのは、教師の側にも生徒の側にも、その関係性を傷つける要因となったのではないだろうか。
ドイツでの「聖書」のウェイトは「教育勅語」よりも大きかった。
聖書の翻訳によって、標準ドイツ語が生まれ、ドイツのアイデンティティが生まれた。それを始めたルターだが、最初は「イエスもユダヤ人として生まれた」(1523)と言っていたのに、20年後には≪ユダヤ人とその嘘」で、ユダヤ人は悪魔の子、シナゴーグを燃やせ、などと言っていて、400年後にはナチスが従う形になってしまった。
皮肉なことに、ユダヤ教の伝統では「聖典」を徹底的に読み尽くし、あらゆる読み方の試行錯誤が伝統となっている。(もとのヘブライ語に母音表記がないので、口頭伝承と書物の解読は別物なのだ。)
ユダヤの聖典(モーセ五書)をギリシャ語訳した時点で定着してキリスト教世界に伝えられたバイアスも少なくない。「70人訳」などと言われているのは70人で手分けしたのではなく70人に別々に訳させたものを照らし合わせて一致したところを採用したのだとか。
翻訳って難しい、とつくづく思う。