エルンスト・ブロッホの『キリスト教の中の無神論 ―脱出と御国との宗教のため』が、日本でも訳されているのを最近知った。法政大学出版局から1970 年代後半のものだ。
「マルクス主義とキリスト教の結節点に立ち,『共産党宣言』の眼で聖書を読み,その中に革命の起爆剤を見出すと共に宗教自体の変革を促す。」
「聖書の〈非神政化〉の大胆不敵な試みを敢行」とある>
考えてみれば、世界中のほとんどの民族は、太陽や月や天候、災害、疫病が運命を握っていることを知っているから、いろいろなところに「神」を見て、祈願したり貢物をしたりしている。
そんな世界に一神教が突然現れたというより、しばしば他の文化によって奴隷化されたり離散を余儀なくされたユダヤ人が、他文化の神々を否定したという見方もできる。
たとえば旧約聖書の『エステル記』には、ペルシャ王の支配下にある各地のユダヤ人が抹殺されようとした時に、それを救って逆にユダヤ人に敵対する人々を殺すよう、王に命令させた顛末が書かれている。それを画策したのがペルシャ王の妃となったユダヤ人エステルとそのおじのモルデカイなのだが、その二人の名はメソポタミアの神の名をもじったものだと考えられる。つまり、神ではなく人間の知恵によって運命を変えることができる、という一種の無神論だというわけだ。
実際、旧約聖書のこの書には「ユダヤ人の神」という言葉はない。
艱難の中で、「神々に依り恃む」「偶像を拝む」ことから距離を置いたからこそユダヤ人が名もなく姿も見えない普遍的な神に行きついた、というわけだ。キリスト教はその後で神が人間に受肉してその「子なる神」は十字架では処刑された。
これらの経緯を見ていると、確かに、「一神教」の特異さはむしろ「無神論」の特異さに通ずるようにも思える。
これらの歴史的展開を見ていくことで、今の世界の対立構造における「宗教」的言辞を分析していきたい。