(前の記事の続きです)
Q : 「排除」、自己否定が兄弟抹殺につながるまでにはどういう過程を経るのですか?
A : Forclusion(排除)とは、すでに狂気です。私はアダムの息子のアベルが兄の下院に殺されるという創世記のエピソードについて深く考察しました。創世記は人間の根源的な衝動について語っています。それはライバルを殺すということ、邪魔になる者を消してしまいたいという傾向です。兄弟とは身近で最初のライバルなのです。創世記で世代を超えて長々と語られる話の中で兄弟間の激しい対立を含まないものはありません。その頂点がヨセフとその兄弟の話です。その中では、最終的に「犠牲者」が報復を拒否します。聖書はこの兄弟間の憎悪という悪を克服し、それを愛に変えること、少なくとも平和の関係を築くことを教えているのです。神の律法はそのことを何度も喚起しています。「殺すなかれ」と十戒の六番目にあり、「兄弟は共に暮らす」とレビ記にあります。「殺す」には複数の方法があります。相手の望みを破壊することもそうです。
イスラエル政府は、自由を求めるパレスチナ人の望みを破壊しているのです。
Sekko : 父親ヤコブに可愛がられていた末弟ヨセフを嫉妬した兄たちがヨセフを殺そうとし、結局隊商に売り飛ばしたのに、エジプトでのヨセフはファラオのもとで「出世」して、後にカナンの地が飢饉に陥った時に、父や兄たちを迎え入れて救ったという話は旧約でも重要な転回点だ。創世記の37章から45章にかけてくわしく叙述されている。
「赦す」というのは永遠のテーマだが、その前提としての争いや嫉妬による攻撃がある。それを「兄弟間」に見るのはある種の普遍性があるのかもしれない。
家父長制の中に見る「男だけ」の「悪」というジェンダーの問題も考えたくなる。
(続く)