先日、偶然、youtubeにアップされていたレジス・ドブレとジャック・デリダの対談番組を視聴した。レジス・ドブレは映像でもラジオでも写真でも「顔」や「話し方」の流出率が高いから、「馴染み」にしか思えないけれど、デリダの「顔」を意識したのは初めてだった。「脱構築」の旗手だから学生時代から翻訳を読んでいるから写真を見たことがあるかもしれないけれど、インパクトの大きいドブレと違って特徴のない上品な顔なので記憶にない。対談の中で、自分はできるだけ写真を避けてきた、とはっきり言っている。デリダはドブレが1964年にエコール・ノルマルに戻った時の教授であり、すでに南米帰りの「政治的ヒーロー」であったドブレに注目せざるを得なかった。
その時に学生に出した課題の一つが「笑い」というテーマで、ドブレがニーチェを多く引用しながら全体のトーンが挑発的だったのを記憶している、と語っていた。
デリダ(1930-2004)が70歳くらいの番組だけれど、まったく記憶にないから見たことがないのだと思う。youtubeにアップされたのは割合最近のようで、とても感慨深かった。
学生の頃、構造主義、脱構築などフランスのポストモダン思想は人気だったからよく読んだだけれど、どれも翻訳だった。フランス語が自由に読めるようになっても、昔翻訳で読んだものを原著で買いなおして読み直すということはほぼしなかった。未翻訳の読むべき本がたくさんあったからだ。
フランスに住むようになってから、テレビなどでドゴール大統領の演説などを見たり聞いたりすると印象的だった。フランス語が分かるからだ。サルトルやボーヴォワールなどの言葉も新鮮だった。いずれも、翻訳または字幕ばかりで知っていたものが、脳内翻訳をしないでもそのまま理解できることでまったく印象が変わることさえあった。
さて、そのyoutubeでのデリダの話し方があまりにも謙虚で印象的だったので、ふと、ラカンのビデオを検索してみた。このブログの直近の記事でシオニズムの解説にラカンの言葉が出てきていたからだ。
デリダと同じ「ジャック」つながりでもある。
ラカンはデリダよりひと世代上だから見つけるのは難しいかも、と思ったけれど、なんと1時間半の語りがアップされていた。
驚いた。堂々として、間合いの取り方といい、まるで劇場で展開される雄弁術のようだ。続けて視聴してしまったので、ラカンのこの自信とデリダの謙遜ぶりの対比は衝撃的だった。
ラカンに影響を受けた人というのは直接の教えを受けたというのが多く、デリダはその書物を通して、というのが多かったような印象もうなづけるほどだ。
デリダはフランスの植民地だったアルジェリア生まれのユダヤ人で多感な年ごろに第二次世界大戦を体験しているから「トラウマ」があったとしたら半端ではなかっただろう。
ラカンの方は、ばりばりのパリのブルジョワ家庭の生まれだ。カトリック信者の家庭で、弟はベネディクト会の修道士になっている。ラカンの最大のトラウマは父親が出征した第一次世界大戦だろう。ラカンは同世代のフランスのブルジョワ出身の知識人の多くがたどった「無神論」への「回心」を遂げる。
それにしても、ビデオを視聴しているだけですばらしいカリスマが伝わってくる。
youtubeってタイムマシンのようだ。
今は市井の人でもいろいろな映像記録を残し拡散する時代である上に、AIによる精巧なフェイク作成も出回っているようだから、これからの時代における「記憶」とか「思い出」とか「記録」さえも、その意味も実態も変わっていくのだろう。
ラカンのディスクール。