最近この本で、マリー・アントワネットの姉の波乱万丈の一生についていろいろ考えた。
マリア・カロリーナ・ダスブルゴ(イタリア語: Maria Carolina d'Asburgo, 1752年8月13日 - 1814年9月8日)は、「女帝」マリア・テレジア(1790 没)と神聖ローマ皇帝フランツ1世の十女で、ナポリとシチリアの王フェルディナンド4世および3世の王妃となった。娘の1人はいとこにあたる神聖ローマ帝国皇帝フランツ二世と結婚している。
マリア・テレジアの兄は神聖ローマ帝国皇帝となったレオポルト二世(マリーアントワネットが嫌いだった)で、その娘がナポレオン妃となったマリアルイーズだ。
(この結婚で、ナポレオンはスペイン王カルル三世の義理の孫になったのだっけ。
閨閥が複雑すぎて何度確認しても分からなくなる。ヨーロッパの王族はミルフィーユだと言われる)
カルル三世は王立慈善種痘遠征隊(スペイン語:Real Expedición Filantrópica de la Vacuna)を、スペインの医師バルミスに託してスペイン帝国全土に、出来たばかりの天然痘ワクチンを派遣したことで有名だ。この時代の王家や貴族の妻たちは子だくさんだ(マリア・カロリーナは18人)が、その多くが天然痘で夭折している。
ワクチンを全土に広めようとした王家は確かに進取、啓明の気風だったし、フリーメイスンのネットワークが役立ったのかもしれない。
ナポリ王国はハプスブルク家が来てもブルボン家が来ても、ナポリ・アイデンティティは変わらなかったというのがおもしろい。
さて、マリア・カロリーナの父、マリア・テレジアの夫であるフランツ一世は 1732年にロンドンのフリーメイスンでマスターの資格を授与されている。フリーメイスナリーは、ヨーロッパ大陸のカトリック貴族王族の間では「啓明」の場所だった。
マリア・カロリーナが、ナポリ王妃となった時フリーメイスンのパトロンとなったのは当然の成り行きだった。だから、彼女はフランス革命もむしろ好意的に見ていた。しかし、妹のマリー・アントワネットが断頭台の露と消えるとすべては変わる。
革命軍にナポリを追われ、ナポレオン軍にシチリアからも追われてウィーンに戻ったが、兄であるレオポルド二世の娘マリー・メルイーズがナポレオンの皇妃となっていた。
ナポレオンの最初の妻ジョゼフィーヌや彼女の最初の夫もフリーメイスンだった。
ナポレオンとフリーメイスンの関係については『フリーメイスン』(選書メチエ)でも『ナポレオンと神』(青土社)でも触れている。フリーメイスンがフランス革命前後の混乱を整理する受け入れ皿になったのは確かだ。
革命の年1789年にはフランスに320のロッジがあった。恐怖政治の1793年にはゼロ。1804年のナポレオン戴冠の年には300に復活、ナポレオンがエルバ島に流された1814年には1219ものロッジがあった。兄のヨセフをパリのグラントリアンのグランドマスターにしたように、政治的な役職とは別に兄弟をフリーメイスンの要職に配したのだ。フリーメイスナリーの再興はカトリック教会のネットワークへの牽制でもあった。
本人はどうかというと、フリーメイスンは啓蒙の時代の平等な「きょうだい」だから互いを二人称の「親称」で呼び合うのだが、自らをローマ教皇よりも上に置こうとしたナポレオンは誰からも「親称」で呼ばれることをよしとしなかった。皇帝になる前に属していたと思われるロッジのメンバーで「親称」で話しかける者がいたので遠くへ赴任させ、戻って来た時には敬称になっていた、というエピソードもある。
以上、マリア・カロリーナについて興味を持ったのでここにメモしておく。