以前から違和感のあった「自己実現」という言葉。
年齢を重ねるにしたがってますます信じられなくなる。
まあ、人生の前半で「世間並み」に暮らしていてどこか不全感を持っている人向きのものなのだろう。
このマズローによって創られたのがヨナ・コンプレックスというシンドロームだ。説明するのは面倒なので日本語の検索結果を紹介する。
昔は「アベル症候群」というのが気になったことがある。いつも恵まれた条件で生きていることに罪悪感を感じるみたいなこと。
でも兄から嫉妬されて殺されるほどアベルが優遇されていたとも思えない。
>>>ヨナ書1,1-3
主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。
「立って、あの大いなる都ニネベに行き、人々に向かって呼びかけよ。彼らの悪が私の前に上って来たからだ。」
しかし、ヨナは立ち上がると、主の御顔を避け、タルシシュに向けて逃亡を図った。彼がヤッファに下ると、タルシシュ行きの船が見つかったので、主の御顔を避けてタルシシュへ行こうと、船賃を払って人々と共に船に乗り込んだ。<<<
dマガジンを読んでいたら、佐々木蔵之介という役者によるひとり芝居『ヨナ-Jonah』についての記事があった。ルーマニアのマリン・ソレスクによる戯曲だ。1968 年の原作だから、共産圏だったルーマニア人が自由を求める気持ちが込められているらしい。ルーマニアやハンガリーで字幕付きの日本語で上演して大成功だったとか。
聖書では、ヨナと彼を乗せた船の人々とのやり取りも考えさせられる場面なのだけれど、この戯曲ではヨナという漁師が魚に呑み込まれていかに生き延びるかというストーリーのようだ。
聖書を読むと、ヨナが神の命令にすぐ従わなかったことについても、自信がなかったとかなどのためらいでなく単にニネベ(アッシリア。イスラエルの北王国を滅ぼした)に行きたくなかったからかもしれない。「やればできる」などという文脈とは関係なさそうだ。
それでも、心理学の言葉に聖書由来の名前がいろいろ使われているのは典型的な恣意的な切り取りだろう。そもそもすべての「聖書」とはすでに口承伝承の「解釈」であり、中身も時として矛盾している。翻訳によっても矛盾しているものがある。いわゆる生の「神の言葉」などではなくて書き伝えた人、聞き伝えた人、翻訳した人の時代と条件と文脈の中で考えなくてはならない。それにはまず手元で読める聖書から受ける「第一印象」から距離をおかなくてはならない。
現代に世界のスタンダードとして通用している多くの「科学」は全て「西洋」由来のもので、それは「聖書」とそのキリスト教解釈の展開に基盤を持つ。
科学の用語だけでなく、先日書いた「目から鱗」の話もそうだけれど、日本語としても普通に通用している聖書の言葉も少なくない。(「豚に真珠」など、今の子供なら「猫に小判」より分かりやすいかもしれない。)
でも、今は、ネットでいろいろ検索できるから、それらの言い回しが定着してきた際に加えられ続けたバイアスのことをだれでも観察することができる。興味深い。
付録)ヨナ記について日本語で検索していたらキリスト教の文脈でこういう説教があった。なかなかすてきだったのでリンク。