Q : エリートの過剰生産というものについて説明願えますか?
A : 私は音楽が止まったら椅子に座るという椅子取りゲームの例えを使います。
権力を行使できるポストの数よりも、それを狙うエリートの数の方が何倍も多くなると、競争は破壊的になります。ポストを得られなかったエリートたちは、勝ち組エリートに向かうカウンター・エリートになります。彼らは危険です。戦略的な能力があり、三種類の力を次々と繰り出すことができるからです。
イデオロギーの力、組織力、そして革命時の軍事力です。
レーニン、ロベスピエール、カストロの例を見てください。この三人は典型的な、負け組のエリートが勝ち組エリートを倒す革命勢力になった例です。彼らを見るだけで、エリートの過剰状態が大変革につながることを示しています。
フランスの「黄色いベスト」運動と対照的です。あれは民衆の怒りが爆発したものでしたが、、マリーヌ・ル・ペンやジャン=リュック・メランションのような政府でマイナーな位置にいるエリートの支援を受けていなかったから、制圧されてしまったのです。その反対に、アメリカのMAGA(Make America Great Again)は真に組織化されたカウンター・エリートの運動でした。
Sekko : これを読んでいて、1960年代末の日本の学生運動のことを考えてしまった。
東大全共闘のリーダーたちなどは、エリート予備軍でもあり、すでに未来の「椅子」も約束されているという意味ではエリートだった。それなのに、将来の仲間である権力や権威に抗議し、社会やアカデミーの変革を目指した。「祭り」が終ると、エリートの就職先に進んだ者もいれば本格的に「在野」に留まった者もいる。
エリート側の立場になって内部から変革をしようとしたのか、在野で声を挙げ続けることで信念を持ち続けたのか。あの頃、反対されていたアカデミズムの世界がビジネスと結びつくこと、「産学共同」など、今は、当たり前となって、問題にする人などいない。
日本って、ひょっとして、ターチンの理論に合致しないのかも。日本にはレーニンもロベスピエールもカストロも現れないし、極右や極左やポピュリズムのニュアンスも微妙に違うような気がする・・・
(続く)