「無償の専制」(Le tyrannie et la grâce)という書物には、「王政」とは一神教の母胎であると書いてある。
このgrâce というのは、無償、恵み、恩寵、優美などといろいろなニュアンスがある。
「タダより高い物はない」などという言葉もあるように、純粋な恵みなどはない、必ず感謝を返さなくてはならないからそれは一種の専制だというのだ。
大国が小国を守ってやるから見返りをよこせ、親が教育費をかけて育てたからいい職業について自立しろ、神仏に祈ったことが成就したからにはお礼詣でに行って感謝の奉納…。
憐れみを持つ王が人民を救済したり、全能の神がすべての人に無償の愛を注いだりというのは同じモデルで、そこには必ず権力勾配があるというのだ。
確かに、「見返り」を視野に入れずに与えたり努力したりしたはずなのに、結局、期待通りにことが運ばなければ、多くの人は「失望」し、裏切られたような気分になる。
何かを一方的に「与える」側にいる「強者」は、与えられた者たちと「対等」ではない。
与えられた側が感謝しない、服従しない等であれば、彼らを見捨てる、「罰する」というオプションもある。
実際に自分の周りの人間関係や社会に対して正直に観察してみれば、確かに、純粋の善意や奉仕の心で尽くしたり与えたりしたモノやコトや時間に対して、実は何らかの見返りだの承認だのを求めていたかもしれない。
しょうがないよなあ、人間だもの…というところで、いつもほっとするのは人間でない猫との関係だ。
たとえば、うずくまっているうちの猫の背中にそっと顔をうずめる。うずめさせてもらっているだけで幸せをもらう。気持ちがいいだけでなくて、そうされても警戒しないという信頼感を感じるだけで幸せだ。すると、喉をごろごろと鳴らす音が聞こえてくる。こうなると、ああ、猫も満足しているんだ、と思えて幸福感がさらに高まる。
猫のトイレの掃除をし、吐瀉物を掃除し、落とされたものを拾い、壊されたものを捨て、いろいろなことを「無償」でしているが、その「見返り」も求めないし、いや、「無償」の中にすでに「見返り」が入っている。恵みは全て「互恵」なのだ。
この状態を意識化すると、「愛することしかできない神」という存在もあり得るのだと実感できる気がする。
性格も違う複数の猫と暮らしていると本当の「無償の愛」を生きることは可能だ、と思えて安心する。「一神教の神」との関係がそのように生きられるのも不可能ではないのかもしれない。