ラ・フォンテーヌ・ド・マルスで食事した後は、いつも通り、グロカイユー教会に寄る。
この教会はいつも開放されていて敷居が低い。
午後の光が美しかった。

聖体の入っている聖堂には、静かに祈っている人たちがいつも数名いる。
3€で蠟燭を供えた。前には十字架のイエス像があるし、横には無原罪聖母マリアの像があるのだけれど、今回は「イエスのおばあさん」「マリアのお母さん」である聖アンナに呼びかけることにした。
この数日前、ウクライナの女性がジャーナリストに答えていたのを聞いた。召集されて前線に行った息子からの連絡が途絶えた、どうなったのか、どこにいるのか、どうしても知りたい。怪我をしているのか病気なのか、それとも殺されたのか、誰に、どんな風に、どんな状況で? とにかく知りたい、息子のことを、と声を詰まらせているのを聞いて、ショックを受けた。
もちろん、この女性に対して私のできることはゼロだ。そしてこの世界には、戦争や災害で子どもを失ったり探したりしている人はたくさんいる。でも、一人の女性のこの声を聞いた時に、まっさきに思いついたのが、聖アンナに祈ることだった。最近のブルターニュのサンタンヌ巡礼で、聖アンナへの崇敬が身近になっていたからだ。
ウクライナの女性のためにフランスにいる日本人の私が2000年以上前にパレスティナで生きていた聖アンナに祈ったところで、何かが起こるなどと考えたわけではない。
でも、まさに、理不尽な悲しみを前にして「何もできない」時に、「祈る」ということで、「祈り」とはまさにそのためにあるのだなあと思った。
父や母が亡くなったすぐ後に、彼らにいろんなことをお願いしたこともある。
現実にはどうすることもできない時に、同じ時空には存在しない誰かにすがる、というのは精神衛生的にごく有効で、何か重荷を下ろした気分になる。
親から不当に叱られた子供が「でも神さまは知っている」と思えるのはいいことだ。
私は神仏や祖先に普通に祈る母の姿を見てきたし、日本もフランス(キリスト教は一神教だけれどカトリックは取り次ぎの聖人が山のようにいる)もそういう姿勢がずっとあった国だから抵抗はない。自分について具体的な何かを祈願するという一種のディールは信じていないので(というかもう充分に恵みをもらっていると思うので、欲張りは封印している)、聖地とされている場所で多くの人が真剣に祈っているのを見ても促される感じはない。(初詣やなんかはまた別だけど。)
で、最近は、イエスやマリアの像を前にしても、おかあさんやおばあさんである聖アンナについ声をかけるようになった。
パリの普通の教会では聖アンナの影は薄いから、突然母や祖母の名を耳にするイエスやマリアの注意をひくかも。