愛読している秋葉忠利さんのブログにこういうのがあった。
確かに、日本では、混んでいる車内で、優先席を探そうとしても、もうすでに高齢者で埋まっているし、さすがに高齢化社会なのだなあと思うことがある。
フランスではダンスの帰りに通勤帰宅時間のパリのメトロに乗るのだけれど、ほとんど必ず誰かが「マダム」と言って席を譲ってくれる。黒人、白人、アラブ系、男、女、自由業風、サラリーマン風、いろいろだ。ダンスの帰りだからさらによれよれに見えるのだろうか。でもありがたい。
昔、まだ高齢者でない頃、マドリードのメトロに昼間乗った時、すぐに席を譲られたことがある。驚いたけれど、女性に席を譲るのはごく普通だということだった。(今は知らない)
見た目が相対的に弱い、小さい、筋肉質でなさそう、などの相手を目にした時に、自分の持っている快適さを「譲る」という原則がいたるところで機能していれば、権力争いや戦争など起こらないのに。
でも、パリのメトロでアジア系の人に席を譲られたことはない。
なぜだろう。
儒教文化では、年長者は敬われていて、年長者の言葉には従わなくてはならない、というイメージがある。「権威」の体系と、肉体の「弱さ」とにギャップがある。
嫁姑問題というのがフランスにないことを知った時も驚いた。フランスにあるのは婿姑問題で、男たちが妻の母を恐れている様子のカリカチュアやジョークがあふれていた。妻の母が来る、「ドキドキ、緊張」という場面だ。年齢的にも肉体的にも「弱い」側には抵抗できない、という原則が、「家庭内」では自然に生きているようだった。
日本でも赤ん坊を連れた母子には席を譲るというのを見かける。
赤ん坊は「分りやすい弱者」だからだろう。儒教的な「長幼の序列」を期待できる年齢でもない、純粋の弱者だ。メトロに乗れるような元気な「高齢者」を「弱者」と見なして助けるのとは少し違う。
どちらがいいとかは分からない。
でも日本にいる「外国人観光客」が、周りの日本人に無視されている高齢者に気軽に席を譲るというのが彼らにとってごく「自然」だということは分かる。そんな文化が浸透すればいいな、と思った。