10月1日、グリーンランドのフィヨルドが溶けだして落下した氷塊をレオ14世がカステル・ガンドルフォで祝福するというイベントがあった。フランスシスコ前教皇が「ラウダート・シ」で地球を守るエコロジーを訴える回勅を出してから10年の節目でもある。
氷塊は2万年前からのものだそうだ。
教皇は、氷に手を当てた後、
「この水が我々の心を目覚まし(…)希望を新たにしてくれますように」
と言っている。
私がすぐ思ったのは、この氷、こうしている間にも溶けているのではないだろうか、この後どうするのだろう、冷凍庫で保管するならエネルギーの浪費でエコロジーの精神に反するだろうし、どこでどうやって溶けるままにするのだろう、Olafur Eliasson がローマに持ってきた時は冷凍していたのか、12の氷塊がパリで溶けるのをインスタレーションとしたアーティストの意図は? etc.etc...
で、少しネットを検索すると、英語のカトリック系サイトに、「この氷が解けた後は聖水となるのですか?」という質問があった。
そんな質問は思いつかなかった。
で、答えは、「祝福」「祝別」には「聖別」とそうでないものがある。たとえば、教会での結婚式で司祭が結婚指輪を祝福するのはそれに聖なる意味を持たせることだけれど、乗用車や時計を祝福してもらっても、それらが聖なる意味を持つわけではない。
儀式に使われる「聖水」には塩が入っていてその塩も聖別されたものである。
だから、祝福された氷塊が聖水となるわけではない。
プロテスタントからは、この氷塊の祝福の後で歌や振り付けが続くのは異教的だという批判もあった。そのサイトに加わったプロテスタントの若者が、若者が、プロテスタントの聖餐で拝領する聖体パンはシンボリックであって、カトリックのようにイエスの体そのものの変容したものではないということをはじめて知った、と書いていたのも印象的だった。彼は普通に聖体パンをイエスの体だと認識していたのだそうだ。
アメリカの若者がプロテスタントもカトリックもレオ14世のニュースにすぐ反応するのはやはりレオ14世がアメリカ人だからなのだろうな、と思うと興味深い。