「アリアドネの声」と「ミツバチと遠雷」
今回の日本では、アトラクションでパスしたものが多くて待ち時間がいろいろ発生したので、駅で買った文庫本を3冊も読んでしまった。仕事と関係のない本を短い滞在中に3冊も読むなんて初めてで、しかも、おもしろかったので、細切れの時間なのにあっという間に読めてしまった。
対照的なテーマだ。一つは救助用の高性能ドローンを使ったミステリーで、ドローンの操作など私には遠い世界の「アリアドネの声」。 もう一つは以前から「絶対に気に入るよ、お勧め」と言われていた「蜜蜂と遠雷」で、こちらの方は、ピアノの先生と生徒の関係やらコンクールの様子など、確かに身近なテーマで経験知もある。これが分厚い文庫本の全二巻で、計3冊というわけだ。 井上真偽の「アリアドネの声」は巨大地震に襲われた地下都市に閉じ込められた三重障害の女性を制限時間内にいかに救うか、というストーリーで、そこに、主人公が少年時代に救えなかった兄の残した「無理だと思ったらそこが限界」という言葉がジレンマのように付きまとう。 ドローンの運転技術など私は門外漢だが、墜落したことでドローンも「目が見えなくなった」こと、赤外線センサーによって温度をキャッチして赤く見えることを頼りに誘導するなどという経緯は理解できたし、それがまさにミステリーの根本になる。 「無理だと思ったらそこが限界」という言葉の縛りをどう乗り越えるかという人生ドラマにすらなっている上に、あっと思わせる結末で、大満足だった。
さて、恩田陸の「蜜蜂と遠雷」だが、この本ではじめて、日本の「ピアノ業界」のことをいろいろ知った。まず、いわゆる団塊ジュニアの世代にピアノ教室ブームが起こったということ。 ピアニストを目指す子供の親の組み合わせは父が医者で母がピアノの先生というのが多いという。で、ピアノコンクールが一大産業になっていたこと、コンクール戦国時代とも言われたことなど、私が日本を離れた半世紀の間にすごいことになっていたらしい。 私がピアノやバレエを習い始めたのは1950年代半ばだから、今思うと、特別感があったのだろう。隔世の感がある。
コンクールの審査員が、同じような曲を、技術をチェックして聴き続けていると澱がたまってくる、染みが耳にこびりつくという表現もおもしろかった。 登場人物の中で複雑な文化的ルーツを持っているマサルは、ヨーロッパの伝統的な響き、ラテンの光と影、オリエンタルな詩情、アメリカの闊達さ、などの多面性が同居して統合されている(P241)、という表現は、安易なステレオタイプだなあと思った。 マサルがクリスチャンでない、おばあさんはクリスチャンだったけれど、という設定で、演奏における精神性みたいなものを宗教と切り離そうという感じも必要なかったと思う。 演奏技術が完璧なのがゼロ地点で、音楽はそこから始まるというのは同感。 ただただ演奏の名人芸を見せるのは聴衆への「アトラクション」であり、ポピュラリティは獲得できるけれど、クリエートではない。完璧な技術のジェニファー・チャンが落とされたというのは「あるある」だ。 フランスでフルートのコンクールの本選を聴いたことがあるが、完璧な演奏をした中国人女性が落とされて、テクニックを感じさせずに全員を森の中に連れ出したような少年が優勝し、みんなが納得したことを思い出す。こういう場合、何度も挑戦して、完璧さを磨く奏者が、完璧さのとりこになっていることを自覚していないこともよく分かる。
もう一つ、主人公の1人の世話をしているヴァイオリニストが、ヴィオラに転向するタイミングを迷っていると出てくる。でも20歳くらいまではヴァイオリンをみっちり学んでから転向した方がいいというらしい。 私はギターとの兼ね合いで、ト音記号を使いたくなかったので最初からハ音記号のヴィオラを始めたのだけれど、ヴィオラのヒューマンなところが最初から気に入った。 「佇まい」というのはいい形容だと思った。 後、上巻のP373にある、曲には「寝かせる時間が必要」というのも実感がある。曲と距離を置いて理解を深める時間が必要だというわけだが、私たちのトリオも、ある曲を弾き尽くしても壁に当たる時があり、そういう場合はいったん練習をやめておいておくと「熟成」すると表現する。実際、別の曲を弾きこんでいるうちに、寝かせておいた曲に戻ると、前にいろいろ行き詰っていた部分が解消しているというのが常だ。 こういう風に、演奏者としても「あるある」という表現がここかしこに見られるのは楽しいし、演奏を文章で形容する語彙の豊かさや新鮮さ、書き分けの見事さにも驚嘆できた。 何年もかけた連載小説で、浜松の国際コンクールに何度も足を運び、本人もピアノを弾くという作者だからこれほどの長編を書き込めたのだろう。 機会があれば映画化作品も視聴してみたいものだ。
by mariastella
| 2025-11-19 00:05
| 本
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