ワシーリー(ヴァシーリという表記もある)・グロスマンについての本を読んでいるうちに、善と悪の関係について「目から鱗」の考え方に出会った。
グロスマンはウクライナ生まれのユダヤ人で、ナチスの悪にもスターリンの悪にも遭遇した。ソ連の強制収容所を最初に告発したのもグロスマンだ。
そのグロスマンが生きた世界を観察して達観した「善と悪の実態」がある。
この世には善と悪というか、二元論ではなく、相対的な強者と弱者があって、弱者を痛めつける強者が悪だと言える。
で、そもそもこの世は「善」が「悪」を征伐するようにはできていない。桃太郎が鬼ヶ島に乗り込んで「鬼退治」をするような世界はないのだ。
初期設定としてあるのは、大きな悪が善を抑圧し痛めつける構図であり、「善」のできることはそれにいかに「抵抗する」かに尽きるというのだ。
つまり、「善」は「悪」と対等に戦うことなどできない。できるのは抵抗すること、耐えて生き抜くことだ。人の心の中だって、善と悪が拮抗して戦っているのではなく、絶対強者である悪をどの程度押し返して持ちこたえるかというのが良心「善」の戦いだというわけだ。
これを前提として世界を見ると、いろいろな理不尽がなんだか腑に落ちる。
善と悪は拮抗していない。悪の前でぎりぎり踏ん張っているのが善で、だからこそ神仏にすがることもある。無力感に押しつぶされて自滅するのを避けるためだ。
なんだか肩の力が抜けるような気がする。
これを前提にして、レジスタンス(抵抗)の力を温存しながら生きていくのが善と悪との実態なのだ。それでも、「抵抗」には善の存在意義がある。
降りかかる理不尽な状況を前にしてどのように持ちこたえるか、圧されている側にいる者同士で連帯して押し返すことができるか、という見方がある。
「敵を打ち負かす」という発想ではない。
そもそも「悪」を負かそうとか一掃しようとするのは「無理」。
(相手が「悪」だと言い募って殲滅を目指す、というレトリックそのものが「悪」なのだから。)