ultracrépidarianisme ウルトラクレピダリアニスム。
これもラテン語経由だけれど、英語から来た造語だ。
英語経由の日本語訳を検索するとこういうのが出てきた。
専門外の無責任な助言や意見を述べたてるという意味だ。
この言葉をきくと、コロナ禍でのさまざまな「専門家」の所見や警告や忠告や脅しのことを思い出す。
今の世の中、信条、信仰、信念などを持つ人は少なくなったけれど、同時に「疑う」人も少なくなった。
デジタル環境で簡単に手に入るさまざまな情報の洪水を前にして、「大きい声」「権威ありそうな声」をその都度、刹那的に信じて感情を動かされるけれど、それを検証するという流れは提示されない。
ニーチェは、信仰を持つことができずに疑い抜いた。デカルトは信仰を持っていたが、疑いによってそれをさらに深めていった。信じることと疑うことをうまく拮抗させて向かうべき道を常に探り、判断の是非を検証し、必要なら過ちを認めたり後戻りしたりすることが「生きる」ということだ。
安易な言葉、無責任な言葉、情動につけこんだ言葉、「つかみ」さえよければ中身がなくても広まる情報、そういうものと距離を置くのは難しい。
専門家よりもウルトラクレピダリアンの声の方が大きい。
「信じる」croireという言葉にはいろいろなニュアンスがあって、「神を信じる」といっても、「神の存在を信じる」という時と、「神を信頼する、信を置く」というのでは目的語の使い方が違う。また、オピニオンとしての「信じる」もあるし、「来年の今頃は・・になっているだろう」という希望的?観測の「信じる」もある。
信仰とは、「信頼」に基づいたアンガージュマンが伴うものだとも言われる。
「信頼」は「愛」のひとつの形だともいう。
でも、信じる、頼る、というのと違って、「愛」って漢語で、「愛する」って音読みで、「愛でる」とか「愛しい」と訓読みすると意味が違ってくる。慈しむとか大切にするというのも方向性が少しずれてくるし、「信愛」って、カトリック系の言葉だ。
言葉の表層で分析していると、翻訳なんてとても不可能な気がしてくるけれど、実は、本質的なものは非言語領域で伝わっている、とも思う。
逆に、「表層」しかない言葉もたくさんある。
ウルトラクレピダリアンが滔々と語る言葉も典型的だ。
コロナ禍であふれていた言説、政治や社会を饒舌に「解説」する「識者?」たちの言葉、信じたり疑ったりしてきた試行錯誤を検証することを怠ってはならないと自戒する。