講談社選書メチエの中で『フリーメイスン ーー もう一つの近代史』を書いたことがある。その第一章の「フリーメイスンとカトリックのあいだ」というところで、カトリック教会がフリーメイスンを「破門」してきたことの歴史や変遷について述べている。
キリスト教が「救いは全ての人に開かれている」としたのに対して、フリーメイスナリーでは「秘密」のイニシエーションという限られたメンバーを対象にしていることで両立しない、というベースがあった。けれども、フリーメイスンの「起源」のシンボルはソロモン神殿を建てた石工たちで、それがカトリックの「カテドラル」の建設にあたった職工組合に続くという流れになったので、近代フリーメイスンさえ、フランスのカテドラル内で聖職者を含めてむしろ自由にグループを作っていという事情があった。
それなのに、ローマ教会からは今に至るまで一貫して「両立しない」と判断されているのは、神学上だけでなくさまざまな政治的判断もある。
で、そのことについて、最近いろいろな歴史書や神学書を見ていく中で、シンプルな動機が言語化されていることに拙著では触れていなかったことに気づいた。忘れないうちにここに覚書。
フランスの場合だが、宮廷からもカトリック教会からも受け入れられていたフリーメイスンがローマ教会から嫌われたのは、その「相対主義」relativismeのせいだというものだ。
フリーメイスンが広まった頃のフランスは啓蒙の時代で、カトリック教会はローマではなく王権と結びついていた。ナショナリズムはあったけれど、貴族たちもメイスンの精神を通してアメリカの独立戦争を助けたり、フランス革命に加わったりと、ユニヴァーサリズムを志向していた。
で、フランスの「カテドラル」内に「巣くう」メイスンの間でも、カトリックだけでなく、プロテスタントも無神論者、不可知論者も混在していた。
後の第二ヴァティカン公会議や現在の教会一致、諸宗教の対話という志向を先取りしていたともいえる。
でも近世のローマ教会にとっては、この混在こそが嫌われたわけで、それが、20世紀初めの教会法での名指しの破門や、今に至るまでの断罪の原因の一つになったわけだ。
言い方を変えるなら、「カトリック信者」オンリーの結社なら容認できるけれど、プロテスタントや反教権主義者までが集まることのできる結社は容認できない、ということになる。
フリーメイスンが、「教祖」を崇拝するようなカルト宗教とは真逆で、信仰を相対化した広い視野で社会参加するタイプのものであるなら、むしろ今のカトリックやエキュメニズムの流れと矛盾しないともいえる。
以上、覚書。
参考 (このブログ内でのフリーメイスン関連記事)