先日、サンシュルピスのカトリック書店でBDを買ったことを書いた。
https://spinou.exblog.jp/33960674/
その本は、若手のBD作家が、神と出会った神秘体験を教会博士でもあるカルメル会の「十字架のヨハネ」の体験と重ねて描いたものだ。今のフランスの若者がどのようにカトリクに回帰したのかの一例として興味深い。

このサブタイトルのピロリーズ(Pyrolyse)という言葉だが、直訳すると熱分解。
日本語でオーブンのパイロライズ機能というと、自動清掃機能ということで熱が分子を分解する化学反応だ。
ここでは神、聖霊との出会いが「火」ということだ。(pyroの語源は「火」でpyromanieというと放火魔。)
聖霊降臨の日にも、炎の舌のようなものが分かれて降りてきたという描写がある。
キリスト教というと「洗礼」のイメージで水による清めのような印象の方が強いかも
しれないが、イエスの言葉としての「火」の根拠はここにある。
「ルカによる福音書 12,49」
「私が来たのは、地上に火を投じるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか。」
(年末にスイスのクラブで年末に祝い用の花火から火花が燃え移って火事となり40人以上の死者が出る事故が起こった。犠牲者の冥福を祈るミサがあちこちで挙げられたけれど、福音書のこのくだりは絶対に想起してはならないな、と、勝手に馬鹿なことを連想してしまった)
もともとイエスの言葉には、時として激越なものもある。
もちろんすべては「比喩」や「たとえ話」であるのだけれど、「火」の喩えは強烈で、聖霊の火に打たれて自分の中で熱反応を起こして神と一体化して燃え続けるという神秘体験をするキリスト者がいるわけだ。
もちろん火傷するわけではなく、空から降ってくるのでもなく、目の前に突然、火が現れる。
十字架のヨハネの本から火が出るかのような体験をした様子。


イエスの言葉には時として激越なものもある。
聖霊の「火」と化学反応を起こすには、受け取る藁や薪やらが湿っていたり、夾雑物が混ざっていたり、乾燥しすぎていたりしてはいけない、などと例えられる。
このBDの終りには、家庭をもったBD作家が実際にオーブンのパイロライズボタンを押すシーンが出てくる。神も人の心を温めることでしがらみを解いてゆっくりと清めてくれる、というのだ。

洗剤などでごしごし洗わなくても、熱だけできれいになるという身近な例で神の火が心の中に灯るという実感で使った言葉なのだろうけれど、実感がわかない。
せめて道を照らしてくれる小さな「火」が、欲しい。