Q : キリスト教徒については、カトリック教会の機関の外側でも聖職者の姿が見られるようになってきました。十字架やクレッシュ(イエス誕生シーンの「馬小屋」)などについてはいろいろな地方でまだ物議をかもしています。文化としてのキリスト教を肯定する側と、ライシテの名のもとにそれを拒絶する側が争うさまはカリカチュラルでもあります。
A : その通り、我々の社会は二極化しています。「世俗化推進の必要性」を断言する側は、すべての宗教的表象に懐疑的である道徳的文化的リベラリズムに強い影響を受けています。それに反対する側は、消滅に向かっていると考えられていた宗教的信念を更新しながら表明しています。後者は有形無形の国家資産を守るという運動の形をとることが多く、フランスのキリスト教文化を守るという名目でイスラム教と対抗しています。けれどもこの二極を結ぶ道もあります。不可知論的世俗化とキリスト教文化はどちらもスピリチュアルなものを受け入れる思想を共有できます。我々の社会は主観主義が浸透しているので、「意味」を探求するあらゆる道を許容することができます。
Sekko : 確かに、社会的経済的に成功するメソードなどにもほとんどスピリチュアルな語彙を使ったり、意味を授けたりする言説がある。しかも、そういうメソードの指導者で「成功」する人は一種のカリスマとなり、メソードは一種の聖典となり、「信者」のスピリチュアルな欲求も満たしてくれる「宗教」の様相を呈することがある。誰もが自分の理想は何かを探し、それを体現してくれるリーダーを求めているのかもしれない。
それはしばしば「全能の神」のオーラをまとっているかもしれないけれど、キリスト教の根源に遡ってみれば、「全能」どころか、馬小屋で生まれたばかりでなく、長じて裏切られ、不当にとらえられて裁かれた「神の子」を図像化して、「徹底的な奉仕」を推奨している。マザー・テレサのような存在はそのモデルを継承していたわけで、多くの人が、宗教的シンボルの「見える化」の是非などとは関係のないところでも人間としての共感を覚えた。
(アベ・ピエールもそのようなカリスマだったが性的スキャンダルが暴かれるようになった。それを思うと、男性のカリスマにはそういうリスクがあるわけで、マザー・テレサやシスター・エマニュエルのような「年配の女性」が一番「安心」感のあるカリスマなのかもしれない)