Q : 現代社会において1905年のライシテ法はまだ有効だと思いますか?
A : 1905年法は私たちに、いくつかの絶対的な自由の原則を残しました。最重なのは「信教の自由」です。けれどもそれを、1905年以降の社会に適応させる必要があります。多極化し分裂する世界で政教分離をどのように実現するかということです。
ひとつの方法は、社会が失った道徳と文化の合意を再認識するための秩序を再興することです。
もうひとつは、モラルの一致など不可能だという認識のもとに、世俗的立場に立つ政治を「対話の政治」に置き換えることです。ポール・リクールが「対決のライシテ」と呼んだメソードに近く、異論のある側に、それを表明することを許可すること、しかし、それを可能にする憲法の表現の自由をリスペクトすることが条件であると認識させることです。公の場で意見を述べるためには、前提として市民としての義務に応えることが条件です。1905年法を進めたアリスティッド・ブリアンもそこに賭けていました。
Sekko : 対話による対決、異なる立場、異なる意見の者同士が「話し合う」こと、その大切さは、いろいろなレベルで多くの人が認め、実感もしていると思う。
もちろんそれが公平に行われるというのは難しい。社会の大筋に対して異論を唱える側が、相手の歴史や文化を熟知した上で、対等の土俵で向かい合えるのか、知識、レトリック、背後にスポンサーやロビーがあるかなど、いろいろな要素が「話し合い」による「対決」の行方を決める。政教分離の国で、あるいは国教のある国で、いろいろな政策をめぐって本当に「話し合える」ハードルは高い。
同国内はもちろん、国同士の対話による「対立の解決」はさらに難しい。
もっとも卑近なところでは、家族や世代間の対立でも、「一致」が不可能でも、相手をリスペクトしながら自分の立場を擁護できるか、というのは難しい。でも、「決裂」「実力行使」「戦争」などの二極化を避けるには様々な対話の形を模索することが必要だ。
その上で、権力勾配のあるところではやはり「より強い」側が「より弱い」側に寄り添って「助ける」という原則を忘れないようにしよう。
補足: 2026/1/9、レオ14世は、「信教の自由」について、
信教の自由とは「特権」であるとか「譲歩」だとか思われているが、「人間の基本的権利」であると言っている。
政教分離の「分離」とは「引き離し」ではなく「区別」することだと言えるだろう。
(このシリーズはこれで終わりです)