(前の記事の続きです)
埋葬を終えてモンパルナス墓地から教会に戻った後で、別室でおやつ、というかアペリティフ、軽食が振舞われた。もう18時を過ぎていた。
聖堂や墓地では行儀よく振舞っていた子供たちが歓声を上げて走り回っていた。
私はいつも通りただ一人の「非西洋人」だ。でも100歳の記念ミサの時にオディールが特別に招待した人物だとみなが知っている。
思えば、もう一族が100人近くに増えた曾祖母は、一族のシンボルであり、完全に「別格」だったろうけれど、私は彼女が晩年に望んで知り合って、対等に議論し合った「友人」だった。
幸い、フランス人の「日本好き」日本ブームは、少なくとも、ひ孫らの若い世代には浸透しているので助かる。おやつに私の持っていった「抹茶ラングドシャ」も大人気だった。
オディールの末娘のシスターといろいろ話した時に思いがけない話題に驚いた。
彼女は、日本のカトリックが、今の世界の状況について、アメリカ人教皇の存在も含めてどう考えているか、というようなことを知りたがった。私は、日本人のキリスト教徒は人口の1%くらいで、カトリックはそのまた半分以下だから、カトリックとしての反応が世論に影響を与えるということはまずない、と答えた。
彼女は、「えっ、そんなにマイノリティなのですか?」「迫害されていませんか?」と質問した。
カトリック、マイノリティ、迫害…。
確かに、アルジェリア、シリア、中国やインドでも、マイノリティのキリスト教の教会がテロの標的になったりキリスト教徒が迫害されていることは周知の事実だ。今の世界で最も多くの「殉教者」を出しているのはキリスト教なのだ。
確かに、16世紀末から17世紀初めのキリスト教弾圧、そして幕末の「隠れキリシタン」弾圧などはあったけれど、明治以降の宣教会の活動は盛んになったし、無教会キリスト教もできたし、「西洋文化」としてのキリスト教は、クリスマスのように根づいて長くなる。多くの宣教会が「戦後」の日本を支えたし、教育機関は社会的に広くステイタスを獲得している。
私は、日本にはもともと自然神や多神教的ベースがあり、大方の日本人にとって仏教や神道は公衆の前で信仰告白をする一神教とは違う「冠婚葬祭」宗教だから、特定宗派への帰属感は薄い、と説明した。神仏の加護を祈願するために、寺社にお詣りすることは一般的で、教会もモスクも閉鎖的ではない。
一神教世界は「近代」を牽引してきたけれど、そうではない世界はもっと広いし、メンタリティにもいろいろあるのだ、と。
シスターはなるほど、と言ってくれた。
日本のカトリック司祭も、中南米やアジア、アフリカ出身の人が増えているし、第二ヴァティカン公会議以来、キリスト教は宣教地の文化と対立することはないという趣旨も、日本でほどうまく行っているところはないかもしれない。
20世紀末にテロに走ったカルト宗教が存在したけれど、「宗教的マイノリティが迫害される」というのは、今の日本では考えられないと思う。
日本人としてはあたりまえだと思っているから意識していなかったけれど、「無関心」を一歩進めて、世界の宗教的寛容や共存のために何か寄与することができないか積極的に考えなくては、と思わされた。