聖霊降臨祭のミサにはめったに行くことがない。フランスでは必ず連休で、学年末も近いので、いつも他のことにとらわれているからだ。
でも、今年、5/24は特別だった。
5/14のイエスの昇天(復活祭から40日姿を現したイエスが、昇天する時に弟子たちに、ユダヤ人の枠を超えた世界中に福音を伝えるように言い残した)から10日目、まだ、不安に駆られて集まっていた弟子たちのもとに、炎のように聖霊が降りて来て、イエスの伝えた言葉をすらすらと言い表すことができるようになったのだ。
オディールは昇天祭の翌日に帰天した。
昇天したイエスに招かれている気がして安心して旅立ったのだろう。
でも、いつもながら、私は、魂の友人たちが帰天した後、そのまま神のもとで永遠の安息を味わっているとは思えない。
私を日本のカトリックに橋渡ししてくれたK師、「友だち」と認め合ったO師、ベルギー人のS師らは、私をいつも助けてくれている。
すっかり弱っていたオディールが亡くなってすぐに、彼女が自由になって私を助けてくれる側に回ったことを感じるできごとがあった。
その後、聖霊降臨祭に、確実に寄り添いに来てくれることを予感したので、ミサに出たのだ。
すると、オディールだけでなく、K師、O師、S師からの支えも感じることができた。
この日のミサで読み上げられる聖書の箇所は、聖霊降臨の場面だけでなく、パウロの「コリントの信徒への手紙一/ 12章」がある。
>>体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です。
なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。<<
という部分だ。
当該箇所の後に、さらにこう続く。
>>実際、体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
足が、「私は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこで嗅ぎますか。
そこで神は、御心のままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
すべてが一つの部分であったら、体はどこにあるのでしょう。
しかし実際は、多くの部分があっても、体は一つなのです。<<
多様な在り方の中で「一致」して「協働」することは可能だし、必要でもある。
「キリスト教」や「聖書」を掲げる世界の指導者たちは、この箇所を読んでいるのだろうか。それとも、聖霊は自分の上にだけ降臨すしている、とでも思っているのだろうか。
