昨日の記事に続いて、内田さんの本の巻末に載っていた、新書用に付け加えられた最近の記事やブログからの文章についての覚書。
本文で懐かしさがわき起こったのは、1970年の駒場の空気についてだった。
彼の専門が「フランス語」に関係していることも親近感が持ててもよさそうだ。
都会の公立進学校の出身(彼は中退したわけだが)で、同時代に駒場の文Ⅲキャンパスということで他にももっと共通点があっても不思議ではないはずだけれど、違うなあ、と思うこともいろいろある。
「修行者にはストレスがない」というのもそうだ。
競争に勝つことを求めて修行するのではない、というのは同感だけれど、他者との優劣とは別に、パフォーマンスの質を磨き、あれこれの模索を続け、道に迷うことも含めて、私には「ストレス」がいつもある。(私の場合、特に音楽やダンスのことだけれど)
若者のエゴサーチ、ネットで中傷されて自殺、などというケースについて、今の若者の多くは、自分の程度に確信が持てず、子供の時から評価や査定に制度的にさらされてきた、「格付けに基づいて資源が傾斜配分されるということが社会的公正だと教えられて育ってきた」、と内田さんは語る。
この分析はショッキングだった。
フランスの若者とも生徒たちを通して半世紀付き合ってきたけれど、「格付けに基づいて資源が傾斜配分される」という「圧」が自明に行き渡っているとは思えないからだ。むしろ、テクノロジーの時代、学歴と直接の関係がない独創性で一攫千金というようなケースも可視化されているし、貧富の差は広がっているにしても、「格付け」の種類も多様化しているので、日本の若者の生きづらさとはどこか本質的なところで異なっていると思う。
その他、少数のプラットフォーマーが市場と思考を支配する「テクノ封建制」からどうやって離脱して民主制とコモンを再生させることができるか、という問題意識は、今まさに、アメリカ人教皇レオ14世が鼓舞しているものだと思った。この問題の解決に、霊的な普遍性という概念なしにたどりつけるものだろうか。
最後、「敗戦の記憶」について、「庶民の回想」が戦争とは「馬鹿な野郎が威張る」時代だったという話だ。
それに付して、養老孟司さんの、「ヨーロッパの町の劇場と教会はみなこけおどしの額縁で、その中で話されているのはみな嘘だ」という教えを引用している。
戦中派から学んだ「戦争の時に大声で語られる言葉は全部嘘だ」という「常識」を、戦後生まれの世代は若者に伝えていかねばならない、ということだ。
「ヨーロッパの劇場と教会」という比喩は、それらが「権威の場」として利用されてきた歴史に注目すると分からないではない。けれども、それらは、また、「別世界」で「別の権威」に支えられているからこそ、「抵抗の場」でもあった。
最近、バイオリニストのメニューインと指揮者フルトベングラーの友情について読む機会があった。フルトベングラーと言えばヒトラーに迎合した親ナチスとして弾劾もされたけれど、メニューインは、ドイツを訪れ、フルトベングラーと共演し、「ヒトラーのとドイツは終わった」としたことで、アメリカのユダヤ人アーティストから攻撃されてイギリスに渡った。
アートとイデオロギーは別の次元にある。
教会や劇場は「霊性」に開かれた窓があるところだ。
「馬鹿な野郎が威張る」権威付けのために使われることがあったとしても、それはいわゆる「パンとサーカス」による民衆支配とは別の文脈だったと言える。
このことをもっと深く分析することがあると思うのでここに覚書。