無神論的表現と詩作について、19世紀において文学者が信仰を失うということについて考えようとして、ジュール・ラフォルグの詩集『月聖母のまねび』なんかどうだろうと思い立った。
象徴派の詩は昔、若い頃にたくさん訳詩を読んだけど、また、訳詩を原詩と照らし合わせるというような作業は何度もしたけれど、そう、今は、すっかりフランス語も自家薬籠のものになってるから、ラフォルグを訳さずに直接読んだらさぞやインスピレーションを受けることだろう・・・・と思った。
今は便利な時代。ラフォルグの詩なんてすぐネットで拾える。
http://www.laforgue.org/laforgue.htm
さっそく『月聖母のまねび』を選んで、インスピレーションの得られそうなタイトルを次々に開く。
おや、『ギター』なんてのもあるではないか。
しかし・・・
難しいよ。
昔の日本の仏文学者って、すごいなあ。
彼らはたとえばマラルメやユイスマンスがラフォルグを読んで愛したようにラフォルグを愛したんだろうか。
それとも、「マラルメやユイスマンスがラフォルグを愛した」と知って、ラフォルグに挑み、一つ一つの言葉を日本語に置き換えて、それを研磨して、きらめくような日本語の詩を創り上げたんだろうか。
アラン・ポーの詩の英語はそんなに難しいものではない。
でも、あれが日夏耿之介の訳詩になるにはどんな錬金術があったのやら。
その秘密はポーの側にあるんじゃなくて明らかに日夏耿之介の側にあるなあ。
哲学関係の本や思想書なら、昔、翻訳で読んでえらく難解そうだったものが、今フランス語で読むとすごく分かりやすいということがよくある。
詩や歌詞もフランス語のほうがしっくり分かりやすいし綺麗だと思うことがよくある。
でも、ラフォルグを前にして、詩作表現に見る無神論の不安の分析をやる気力が萎えた。
絵画表現や音楽表現はうまく行ったんだけど。
言語の壁って独特だ。それともラフォルグの壁なのか・・・
結局、評論においてもそれが問題だ。
言語が介在しない分野では、誰でも評論家気どりができる。
この音楽は気に入らないとか、この絵は分からない、とかね。
説明できなくても平気だ。感性の問題だから、とか言える。
でも、言語で表現されてるものはね・・・
わかんなければ頭が悪いんじゃないかとか、語学力がないんじゃないかとか悩んでしまう。
一読しただけでラフォルグがわかんないとは、思わなかったよ。