今日はルルドでの教皇ミサをTVでちょっと見た。
昨日のアンヴァリッドの野外ミサの方がよかったな。
国際色豊かなところがルルドっぽいし、水が潤沢にふるまわれるところもルルドっぽいが、各国から枢機卿とか偉い人がたくさんいるのが、ルルドとそぐわない。
ルルドは弱い人が主役のところだから、偉い人が並ぶと変だ。
最晩年のJP2がぼろぼろになった体で巡礼したのは似合ってたけど。
『理性の限界』(講談社現代新書)で、ハイゼンベルクの不確定理論とかについて読み返してたら、聖なるものって、光子とか電子みたいに存在してるのかなあ、と思った。つまり、あるべきところ全体に波のように広がっていて、見神者という観察者が現れると御出現みたいに、粒子的ににキャッチされるという感じ? 御出現は聖なる電子の波の収縮。しかし、聖なるものはどこかでキャッチされても、収束した残りが消えるわけじゃない。比喩はぴったりこないかな。
もっとも、波とか粒子とかいう概念そのものがニュートン物理学的概念だから、パラダイムを変えれば、電子のありようだって別に奇妙じゃないのかもしれない。神のありようだって、実はすごく自然で、人間の体の原子の中で電子が「奇妙な形」で存在してるように、内的でミクロなところにも充満してるのかも。
それに、「神は存在する」というのは、実は、真偽性と関係ないのかもしれない。
つまり、「神は存在する」というのは、命題ではなく、感嘆文なのである!!
だとしたら、 「神は存在しない」というのは必死の「命令文」かも。
そして、有神論と無神論は電子の波と粒子みたいに相補的な共存の仕方をしているのかもしれないな。
こう考える方が、不完全定理による神の非存在論よりもずっとおもしろい。
道元なんかは、「佛性があるとかないとかいう言い方についての限界や例外が本当にあり得ないのか」を問うたそうである。それは、「佛性があるかないか」という言い方が自壊するほどに問いを強靭にすることらしい(by宮川敬之)。
これも、存在するとかしないとかを命題にすることの拒否だろう。
道元って、すごく弁証法的だし、近代的だなあ。空海がスコラ哲学的なのとは大分違う。