Kintzler女史の説には、いつも、もっともだと思う。
フランスの18世紀においてオペラは古典演劇の隠れた部分に注目して、それを表に出した。
「隠れた部分」というのは、超現実的ディメンションの出来事だったりする。
たとえば、古典劇では戦争があった、とセリフでは言っても、戦闘シーンは見せない。死後の冥界なんかも見せない。オペラでは全部見せる。
言葉による魅惑の美学から、大掛かりな機械仕掛けのけれんの美学になったと言う。
大掛かりに、全て見せるが、深さはなく、ヴァーチャルである。
まあ、古典劇の詩想の要求にはしたがっていたので、アナロジーの法則があるらしい。
それって、パロディとはどう違うんだろう。
たとえば、能でシンボリックに表現するものを歌舞伎では全部見せる、って言うのがある。見せれば見せるほど、深さはなくなりヴァーチャルで人工的になるのも同じ。
しかし、能で見せないものを別の見せ方で見せたら、狂言になる。
フランス古典劇にも、「リリック悲劇」と呼ばれたバロック・オペラにいく前に、本流の「古典悲劇」と違って「喜劇」もあった。古典悲劇と古典喜劇の関係が、能と狂言の関係に近いんだろうか。
隠すところが多いと深くなる、または深く見えるというのは、洋の東西を問わない感覚らしい。
全部見せるというやり方には、笑いたくなるやり方と、存在の重みを消してしまうやり方と2種類あるらしい。