今の世界のネオリベや市場原理にのみ支配される際限のない「開発」に意義を唱えたり、歯止めをかけようという傾向や運動の言葉で代表的なのが三つある。
1 Développement durable
2 Décroissance soutenable
3 Sobrieté heureuse
日本語でどういう訳が定訳なのか分からない。
1は、持続可能な発展で、これは1987年の国際合意というから手垢がつき、まあ、「地球に優しい開発」みたいなスローガンが金権主義の隠れ蓑や免罪符になっていたりする。
2は、もっと積極的に、エコな生き方を提唱するので、低成長というより、マイナス成長、というか、生活の仕方を変えようという感じだ。しかし、いたずらに「昔にかえろう」、「原始時代がいい」とか「江戸時代が理想」というのではなく、余剰を削ろうという感じである。リヨンに発行元がある 『La Décroissance-le journalde la joie de vivre』という月刊新聞は個性的でおもしろい。でも過激で理想主義的過ぎると思われている。広告やブランドの攻勢を洗脳として戦う姿勢はもっともだと思う。エコ原理主義に傾くリスクは確かにある。
3は、フランスではすごくインパクトがあるNicolat Hulot が2005年に唱えたもので、必要を自制しながら、ものよりも人とのつながりを楽しもうというちょっと楽隠居みたいなニュアンスの言葉だ。これが1と3の間で、現実的でよろしいんじゃないか、という話だ。
何かをする時のネーミングはフランス人にとって特に大事な気がする。
スローフードという運動があるが、あれを唱えだしたイタリア人は、1986年にフランスの農業従事者の運動を見てインスピレーションを得たそうだ。でも、今は国際的に広がっているのに、フランスではあまり流行っていない。というか、言葉の知名度がない。スローフードが英語ってこともあるが、文化的にアルプスの向こうの国にコンプレックスやらライヴァル意識があるので、イタリア発のものは、なんとなく抵抗があるらしい。
自分ちで、自分たちの考えた言葉を掲げて行こうという姿勢は共感がもてるが・・・
今から、Andre Paul の『クムランとエッセネ派-あるドグマの崩壊』(Cerf)という本を買いに行く。1947年の死海文書発見以来、エッセネ派の僧院跡だとされてきたクムランだが、実は全然確かじゃないのだそうだ。この説はあまりにも常識化してたので、私も『知の教科書 キリスト教』(講談社選書メチエ)にトピックとして書いているから、責任を感じてしまう。
イデオロギーから自由で、とても良心的でかつ刺激的な本だそうだ。楽しみ。