昨日の続き。
Gouguenheim についての論考を読み続け、Alain de Libera の意見に共感した。
あらためて、フランスのような環境でのキリスト教(それを補完するものとしての無神論も含めて)を思考の枠組みとする人たちが、「理性」とか「ギリシャ」とかについて発言することの含意の深さを知らされた。
キリスト教を「ギリシャ化」することは、宗教改革の痛みや啓蒙の世紀の痛み、フランス革命にまつわるルサンチマンを「忘れる」こと
でもあるのだ。
それは、たとえば、日本で、「江戸文化」を称揚することが、日清日露や第二次大戦の痛みを忘れることに利用されることがあるのとも似ている。
アヴィセンナはアリストテレスを読んだし、マイモニデスはアヴィセンナを読み、メンデルスゾーンはマイモニデスを読んだ、ヨーロッパの知の継承の中では、アテネもローマもパリもベルリンもつながっているし、どこかで何かを「なかったことにすること」はできない。
今の世界では、それがさらに複雑に有機的につながっている。
昨日、ムアタジラ派という言葉を書こうとしたとき、Motazilisme というフランス語を読んでいたので、それが普通カタカナでなんと書くのか分からなかった。
日本語のWebにアルファベットを入力して探ろうとしたが分からなかった。
そこで思い出したのは、アンリ・コルバンの『イスラーム哲学史』の訳本がどこかにあるはずだということだ。
あった。岩波書店。1974年。当時の定価で3000円である。
それで、ムアタジラ派というカタカナ表記を見つけた。
ここに書くのに説明が必要かと思ったが、今度は「ムアタジラ派」で検索すると、日本語でもたくさん出てきた。これなら、これを読んでる人はだれでも簡単に調べられる。
1974年の訳には、日本のイスラム学はまだ端緒に着いたばかりだとある。
今は誰でもネットでチェックできる。
情報は、歴史や文化や情報技術の新しい文脈の中で新しい形で現れる。
時々、私が日本人でしかも女性でよかったと思う時がある。
「トマス神学は12世紀トレドのイスラム文化抜きでも成立した」
なんていう言辞は、別の言い方をすれば、
「トマス神学はアフリカの黒人なしでも成立した」
とか、
「日本人なしでも成立した」
とか、
「障害者なしでも成立した」
とか、
「女性なしでも成立した」
とか言える。
カトリックで女性が司祭に叙階されないのは、
「イエスが選んだ十二使徒がみな男だったから」
という伝統があるからだという人がいる。
それを敷衍したら、十二使徒には黒人も日本人も、いや、コーカソイドもいなかった。
障害者もいなかったし病人もいなかった。
「普遍」の適用範囲はどんどん変わる。
イエスは使徒を1人ずつ、固有の名で呼び出したのであり、男とか、ユダヤ人を呼び出したのではない。
トマス神学は「この私」なしで成立した。
でも、今の私は、トマス神学なしでも、もちろんアリストテレスなしでも、宗教改革や無神論論議やフランス革命なしでも、成立しない。ラモーなしでも。
もし私がたとえば「伝統的フランス人の男のインテリ」だったりしたら、なんだか似非「正統性」がすっきりして、「日本人は単一民族」とかいうのと同じで、マジョリティの権力的な単純化の無意識な操作が自分の中でたえずおこるかもしれない。
それを思うと、周縁にいながら、多様性をしっかり骨肉にしている感覚があることは思索者として幸運である。