今朝のラジオで猫論議をやっていた。
猫マンガとか猫事典とか書いてる人たちの座談会だ。猫好きな人ばかりだから、聞くほうも馴れ合いの安心感がある。
猫がヨーロッパに入ってきたのは、ネズミとともに、なんだそうだ。ネズミとペストが一緒に入ってきて、その解決策として猫が導入されたんだそうだ。
黒猫が魔女とともに焼かれたのは、そもそも猫が尻尾を掲げて、尻を見せることが、性的だと見なされたので、娼婦や魔女と結びつけられたとか。
猫を飼う人は自分の生活に「予見不可能性」を引き入れている。
猫を飼う人は「自由」の価値を主張する人である。
ふんふん、まあ、この辺は、猫好きのお約束の自己評価である。
で、室内飼いの猫について。
猫を室内飼いする人は、猫の安全を求めている、と言う。
で、猫を放し飼いにしないで、家に閉じ込めることは「自由」の謳歌に反しないか。
すると、
「自由は安全を含む」
から当然だという。
うちには室内飼いの3匹の猫がいる。
彼らのせいで家も家具もぼろぼろだ。
しかも、猫は自由、独立のシンボルみたいなイメージがあるから、それを妨げているのではという罪悪感がいつもあった。去勢しただけでうしろめたく、一生の借りを作ったような気もした。
でも、ずっと彼らとうまくやっていて、彼らが「いい感じ」なのは分かる。
最初の猫は車に轢かれて即死した。
次の猫はどこかで毒を撒かれて死んだ。
喧嘩の傷がもとで死んだのもいる。
3年以上生きたのはいなかった。
いろいろあって、ついに、完全室内飼いに踏みきった。
それ以来、一匹も死なない。
13歳が1匹に、8歳が2匹である。
家具は傷だらけで私の手や腕や肩や背中も傷だらけだが、彼らには傷一つない。
毛並みはつやつやのぴかぴかで、肉球も赤ちゃんのようにぷよぷよ。
だから私の選択が「間違ってない」とは思ってた。
しかしいつも罪悪感がはりついていた。
「自由は安全を含む」(La liberte inclut la securite.)
と言われて、10年来の罪悪感が霧消した。
彼らの自由をリスペクトするには、安全を提供してやらなければならない。
危険があると分かっているところに、自由に、勝手に、さあ、どうぞ、と送り出すのは本当の自由のリスペクトではないのだ。
自由と安全はセット。
自由のために安全を目指し、安全のために自由を行使できなくてはならない。
子供の教育とか国の安全保障とかについても、いろいろ考えさせられる。