L'art de croire             竹下節子ブログ

2018年 07月 13日 ( 1 )

主の平和と遠藤周作

先日「神の平和」という言葉をカトリック関係の雑誌に書こうとして、日本語チェックのためにネットで調べると、「主の平和」が圧倒的だった。

カトリック教会のミサでの「主の平和」タイムは、日本では近くの人と会釈し、フランスでは握手かハグだが、「キリストの平和」という。


「神の平和」と「主の平和」は少し違う。私の記事の文脈での「神の平和」は、神に祈りと願いを捧げ打ち明ければ「人知を超える神の平和」が心と考えを守ってくれる(フィリピの信徒への手紙4, 7)」という部分と関係がある。

一方、「キリストの平和」は、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。(ヨハネ14,27)」の文脈だろう。また受難の時に逃げていた弟子たちに復活のイエスが「あなたがたに平和があるように(ルカ24,36)」と赦した言葉もそれを補強した。


神を「主」と表現するようになったのは「蛮族世界」の領主を戴くヒエラルキーを使って分かりやすく布教する過程だったという。ラテン語のdominusは「支配」と同じ語源だし、フランス語のSeigneur(英語ならLord)は、もとはいわゆるシニアと同じ「年長者」から来ているが封建時代の領主であることが一番の含意だった。

もちろん、キリスト教の三位一体的には、父なる神だけが「主」でなく、「主イエス・キリスト」で問題ないのだけれど、今のフランスのカトリックなどでは、「主」という言葉は単独で使うとなんとなくアナクロな感じがする。司教の敬称としてのMonseigneurなどは普通だけど。

で、日本語のネットには、カトリックの信徒が手紙の初めや最後に十字のマークと共に「主の平和」と書くとあった。なるほど。

で、そういう「習慣」や表現について詳しく論じている信徒のブログなどをつい見ていると、なかなか真剣で時には深刻で驚かされる。そのうち、遠藤周作の本に影響を受けて受洗することの是非のようなテーマに入り込んでしまい、そこでも驚いた。

久松健一さんという人の『遠藤周作の秘密』という論文がネット上ですべて読めるのだ。

私は還俗して日本人と結婚した宣教師のことを書いた遠藤の『影法師』も読んだことがあるけれど、それがこんなにも遠藤のトラウマを形成している事件だとは知らなかった。

それにしても遠藤さんってトラウマで満身創痍みたいな人だったんだなあ。

まず、世代的にも、満州で育ったり、戦争中に青年時代を過ごしたり、戦後の混乱を体験した世代だし、当時には少ない離婚家庭で父を恨むシングルマザーに育てられ、厳しい母親に逆らえない形で軍国日本ではネガティヴでマイナーなキリスト教の共同体に所属し、高学歴エリートぞろいの家族の中では落ちこぼれ、戦後初のフランス留学をしても肺結核で吐血して途中で帰国など、どれをとっても、屈折しまくりそうだ。

しかも、一生カトリックとしての「アイデンティティ」に悩んで思索し続け、そのおかげでいろいろな作品も生まれたのだけれど、そのカトリック・アイデンティティの危機のルーツの一つが、自分の妻といとこの妻に公教要理を教えていた神父が、いとこの妻と結婚したことだったようだ。人妻、人妻の離婚、神父の還俗というトリプル・ショックだった。

その神父はかって母親のアイドルであり、完璧で高潔なキリスト者の手本として彼にプレッシャーを与え、強者に反発して弱者としての道を歩ませるきっかけとなった人だった。それでも、父の反対を押し切って妻にも洗礼を受けてもらい結婚式をその司祭に司式してもらった。『影法師』ではその元司祭が『沈黙』の転び宣教者のように孤独な姿で描写されている。

遠藤周作の生きた時代と家族関係が信仰への強迫的で苦渋に満ちたこだわりを醸成したのだろう。まるで、子供の頃からカルト宗教の中で育てられた人が引きずるトラウマみたいだ。

で、彼は「日本人にやさしい」自然宗教っぽいキリスト教にたどり着いたようだが、そこまで苦労してもカトリックから離れなかったのはやはり母親への思いだったのかもしれない。そんな遠藤周作は間違ったキリスト教観を人に与えるといって一部から厳しく批判されたこともあった。

なんだか、タイプがまったく違うあるカトリックのカリスマ司祭のことを思い浮かべてしまう。「あなたは救われている」と自信に満ちて福音を振りまいている人だ。キリスト教と言うと「悔い改めよ、罪深い人は地獄に堕ちる」的な先入観もある日本の社会でひたすら「もうだいじょうぶ、だってイエスと出会ったのだから」と宣言しまくるので、遠藤周作とは別の形で「ハードルを下げている」ことに眉を顰める人々がいるのだ。

おどけても、湿っぽくしても、汎神論風に風呂敷を広げても、和のテイストを強調しても、自信満々で輝きと歓びを伝染させても、どこかで必ず「間違っている」と言われるのだなあ、日本のキリスト教コミュニティ。

浄土真宗の人がお釈迦さまだの阿弥陀如来だの親鸞のことを自己流解釈して声高に語ってもそれこそ「公序良俗」に反しない限り注意をひかない。

フランスではカトリックがちょうどそういうスタンスなので、日本との落差は大きい。

それにしても、インターネット上のヴァーチャルな「フィールドワーク」が可能な時代になって、いろいろと驚かされると同時に、多様性の底にひそかに流れる「一致への切実な思い」のさざ波をそれでも感知してしまうのは、はたして希望的錯覚なのだろうか。


遠藤周作さんが「主の平和」のうちにあることを祈る。


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by mariastella | 2018-07-13 00:05 | 宗教



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