L'art de croire             竹下節子ブログ

マルモッタン美術館の男と女  マネとモリゾー

(これはマルモッタン美術館シリーズの続きです)


 マルモッタン美術館では、コロ―から印象派にかけての時代の作品だけではなく、彼らの交流の歴史が実感を持って繰り広げられている。


彼ら同志が肖像画も描き合っている。

 

例えばこれはルノワールが描いた「新聞を読むモネ」の肖像画。

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なんといっても、この美術館の「顔」ともなっている出色の肖像画はエドゥアール・マネによるベルト・モリゾーの肖像画だ。

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ベルトはコロ―の弟子だった女流画家だ。

マネの兄と結婚した。娘も絵を描いた。

彼女の姉も画家で、マネの親友と結婚した。


この時代で意外なのは、女性たちが男性画家のアトリエで弟子として「修行」することが流行っていたことだ。熱心に師匠の作品を模写する者もいれば、単なる「お稽古事」気分の者もいたようだ。そんなアトリエ風景を描いた絵もある。中央にいるのが師匠で、女性たちはまじめに聞いている者もいれば窓の外を眺めている者もいる。

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ベルト・モリゾーは、姉と二人でルーヴル美術館でルーベンスの絵を模写している時にマネと出会った。

その時すでにマネは結婚していた。

『草の上の昼食』の裸の絵がスキャンダルになっていた頃だ。マネを評価していたボードレールが死んで2年後である。

マネはもともと「女性」が好きで話もうまかった。カリスマ性もあった。

ベルトはマネにすぐ惹かれるけれど、その他大勢の一人でなくマネのミューズでありたいと思う。

二人の恋はそれなりのスキャンダルにもなったらしい。

ベルトが姉に書き送った書簡をもとにしたマネとベルトの物語をマンガ化した大判のコミック(BD)まで出版されているのには驚いた。

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このコミックを見ていると、フランスのアート・シーンと知識人サークル(文学者、哲学者など)におけるギャラントリーとエレガンスにおける男女の協働関係の伝統がよく分かる。

17世紀から続くサロン文化から日本でも有名だったサルトルとボーヴォワールの内縁関係、#Metoo に向けたカトリーヌ・ドヌーヴらの違和感にまで通底している流れだ。

「エリート」「アッパークラス」にだけ通用する話だと言われればそれまでだけれど、だからこそ、ひとつの独特の「文化」を形成してきた。


マルモッタン美術館には、ベルトの作品がたくさんある。

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それにしても、マネによるベルトの肖像画の表情や眼の光を見ていると、ベルトの性格や葛藤や挑発などがみな透けて見えてきて、「二人の関係」が知的にも芸術的にもいかに刺激に満ちたものであったかが容易に想像できる。



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# by mariastella | 2018-06-22 00:05 | フェミニズム

米朝首脳会談の後とシリアから戻った子供たち

 先ごろ、米朝首脳会談に関する日本のメディアの記事を読んでいるとなんだかネガティヴなものばかりで心もとなかったけれど、私がいつも読んでいるブログの三方は全員がポジティヴな見方をしていたので少しほっとした。


元広島市長による広島ブログ。


弁護士の澤藤さんのブログ

元外交官でレバノン大使だった天木さんのブログ


私は他のことに関して彼らの意見にすべて与するものではない。

彼らの間でも意見が異なるテーマがある。

でも、彼らはそれぞれ「ぶれない」ところが信頼できる。

家族会関係者のこの発言も興味深く読んだ。


なるほどだと思う。


40年も経っていれば、一方的に拉致被害者の返還などというより、日朝国交を回復して被害者が向こうで作ったかもしれない家族とも自由に行き来し、今の時点でそれぞれの当事者たちが最も望む形に沿えるように支援することが最善であるというのは分かる。

今のフランスで切実な問題は、ISに洗脳されてシリアに渡ったフランス国籍の女性たちが連れて行ったり、現地で生んだりした子供たちの「引き取り」だ。

子供たちはある意味で「拉致」されたと言える。

現在フランスに戻ってきた子供たちは70数名だそうで、シリアにはまだ300人以上残っているというが、現地で生まれた子供たちについては出生届とかがあるわけでないので正確な数字は把握されていない。

彼らは、テロ関係の犯罪容疑で裁かれる親たちと隔離される。

フランスによる再教育のプログラムを受ける年齢でない子供たちは、保護家庭に引き取られているが、ISの子供たち専門のオリエンテーションを受けた保護家庭ではない。

いろいろな問題が噴出しているようだ。

普通の移民や難民の子供たちを暫定的に引き受ける家庭に振り分けられるからだ。


ISから来た子供たちは多くの問題を抱えている。

もちろん、生まれた時から「戦闘地域」にいたというトラウマもあるが、みんな父親との関係がなく母親とだけ暮らしてきた。もちろん保育園や幼稚園や地域の「社会生活」というのも知らない母子隔離状態だ。だから子供たちは母親から引き離される時点でパニックに陥るという。


母親の中には積極的にテロリズムに参加した者から、洗脳の犠牲者、性暴力の被害者、最初から騙された者などいろいろなケースがあるが、それは裁判によって明らかになるまで「容疑者」として留置されている。(シリアで逮捕されて裁かれ、終身刑の判決を受けた女性もいる。)


どのケースであっても、子供たちはみな、被害者だ。


それを思う時、北朝鮮による拉致被害者に子供や孫がいる場合、彼らを一体どのように「保護」できるのか、というパースペクティヴをはたして日本政府が持っているのかどうかについての疑問が、頭を離れない。


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# by mariastella | 2018-06-21 00:05 | 雑感

ブラッド・アンダーソン『ベイルート』

ブラッド・アンダーソン監督の『ベイルート』

レバノンのベイルートにおける1972年のアメリカ大使館テロから内戦を経て1982年にやはりアメリカ大使館の高官がPLOに誘拐される事件を通して、「人質交換」をめぐるサスペンス映画。

主演はジョン・ハムという人で、最初のテロで外交官として勤務していたメイソン役。大使館で妻を殺され、養子にしようとしていたパレスティナの少年カリムとも別れる。

カリムの兄がばりばりのパレスティナ解放同盟の活動家だった。

メイソンはアメリカに帰り、アル中気味で、中小企業間のネゴシエーターをしていたが、レバノン時代の友人が誘拐され、PLOがメイソンを仲介役に指定したと知って10年ぶりに現地を訪れる。

撮影はモロッコだそうだが、内戦で荒廃したベイルートの町の悲惨な様子は、ついこの前「イスラム国」から奪還されたイラクやシリアの歴史的な美しい町の惨状と重なる。

この映画はアメリカ視線、白人視線で、実際のレバノン人は誰も起用されていない、アラブ人への偏見があるなどとも批判されたそうだが、当時の状況を内側の人間ドラマを通して実感できるという意味で貴重な情報提供だと思う。

前に『アルゴ』を見た時も、ホメイニ革命でのクライシスの裏側を観て興味深かった。この『ベイルート』はスリラーとしては『アルゴ』ほど成功していないのだけれど、イスラエルとパレスティナとアメリカのからみがよく分かる。

レバノンは元フランス語、フランス文化が浸透していた国(中東の多部族の抗争地域で土着のキリスト教徒を守るための緩衝地帯として創られた政治的な国)で、この映画にもフランス語のポスターがちらりと出てくる。でももちろんすべてはアメリカ視線だ。アメリカン・ユニヴァーシティも出てくる。


この期間のテヘランやレバノンやカイロというのは個人的に縁の深い場所なので、当時を回顧して内側から再構成するような映画はどうしても観たくなる。

パキスタン、アフガニスタン、イランやトルコや中近東のその後の展開、冷戦後の軍産コングロマリットのグローバル化と油田の利権、東欧の内戦、イスラエルとパレスティナの戦い、イスラム原理主義とテロリスト、米英軍のイラク派兵、アメリカやヨーロッパでの報復テロなど、この映画の終わった時点から35年以上の月日が経った。

ようやく今になって、自分にとって一番者が見えてくるのに適当な距離感と視座が決まって来た。

この映画は決して「昔の戦争の話」などではなく、エスカレートして再生産される愚行のプロトタイプの一つとして身につまされる。

傲慢と非人間性がいつもセットになっているのも分かる。


車で映画館に行ったのだが、信号待ちの道路の横に「シリアのファミリー」という紙を掲げてのぞき込む中東の男とそばにうずくまる母子がいた。

このような現実は、日本で映画を観る人には想像できないだろう。

こういう時に本当にするべきなのは、「当局」に知らせて家族を保護してもらうことだろう。彼らは本当のシリア難民かもしれない。明らかな未成年の難民なら必ず保護してもらえるはずだ。

フランスには、長い間、子供とセットにして物乞いをさせる組織的なロマ(ジプシー)のネットワークがある。子供は少し大きくなると今度は「ひったくり要員」として放たれる。

いや、中世からずっと、さまざまな「弱者のふり」をして喜捨で生きる人々のたまり場もあった。

メトロの中の物乞いにもさまざまなタイプがあり、当初、何もできないことに罪悪感を抱いていたら、「あれは商売なのだから相手にしてはいけない」と言って罪悪感を解消してくれたフランス人の司祭もいた。

そのような国に何十年も住んでいたら、「シリアのファミリー」と称する人が道路にうずくまっていても、とっさに懐疑と警戒の念が起こる。申し訳ない。


二十世紀のふたつの大戦後に「大国」の恣意的な世界地図の線引きによって起こった数々の悲劇は形を変えて続いている。私にとってはそれは1970年代からずっと身近にあるものだ。


それらのことをいつも考え続けるのはつらいけれど、いろいろなことを想起させてくれる「映画」との出会いには感謝する。


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# by mariastella | 2018-06-20 00:05 | 映画

G7の共同声明からのアメリカの撤退とヨーロッパ

先ごろのG7サミットでのアメリカ撤退劇と続く米朝会談を見て思ったこと。

G7で、我々共通の「警戒すべき敵」は中国だから、と水を向けられたトランプが「いや、アメリカの敵はヨーロッパだ」と答えたのだそうだ。

これにはヨーロッパがのけぞったようだ。

G7のヨーロッパと言えば、英独仏伊、第二次大戦では連合国と枢軸国に分かれるし、独仏は、一時ドイツに占領されたフランスが戦後ヨーロッパ共同体を呼びかけた仲だ。

で、このアメリカ、特に、あらゆる国際合意を蹴って、二国間の力比べに改宗しようとするトランプの前で、一国ずつでは「勝ち目」のないヨーロッパは、本気でアメリカから自立しなくてはならない、と覚悟を決めるそうだ。

戦後ずっとアメリカの核の傘に入って守ってもらっていた「被保護者」の習慣からいよいよ抜け出すべきだと。

ヨーロッパと言えば、移民国家アメリカのルーツの国々だから、なんとなくそれなりの「権威」を保っているのかと思っていた。しかも、第二次大戦の連合国側だった英仏の二ヵ国は「核兵器保有」を国際的に正当化している国だ。日本の立場とは根本的に違うと思っていた。

でも、考えたら、第二次大戦というより、その後40年以上続いた「冷戦」が今のヨーロッパのメンタリティを作ったらしい。

つまり戦争で荒廃したヨーロッパは、「復興」のために、軍備どころではなかった。国境を接する「共産主義陣営」に対する「防衛」の余裕はなかった。そこで結局、NATOの名のもとに、実質上アメリカの庇護地域となっていたし、冷戦後もその状況に慣れきっていたのだ。


考えてみると、アメリカもそうだが、今のヨーロッパの政治家たちはみな「戦後」生まれだ。「世界はアイゼンハワーのアメリカとフルシチョフのソ連の二大国のにらみ合いからできている」と思って育った人がマジョリティである。

アメリカは南北戦争以来、戦場となっていない。911を除いては、「攻められて」いない。

「共産主義陣営」から直接ミサイルを向けられていたヨーロッパ、中東とも地続きで難民が押し寄せるヨーロッパ、北朝鮮や中国に近くソ連(今はロシア)とも近かった日本などとは「脅威」の質が違う。

「鬼畜米英」などと言われてアメリカを憎悪させられていた日本人がいつのまにかアメリカ一辺倒になって日米同盟と軍事基地提供がデフォルトになっていることにあらためて驚いていたが、ヨーロッパも同じだったのだなあ、と今さらにして思う。

でも、結局、ヨーロッパの決意が、

《ではあらためて、アメリカからの庇護なしで「自力の軍事力」を高めよう》

という方向になるのでは何かが間違っている。

あれだけ争いの絶えなかったヨーロッパ内をせっかく恒久非戦ゾーンにしたのだから、自分たちの保身だけではなくその平和の理念を外に広げていく方向に行ってほしい。


現実は、ヨーロッパ内の理念の共有さえあやしくなって、押し寄せる難民の前にナショナリズム全開になりつつある国も出てきている。

ジョスパン政権時代の外務大臣ユベール・ヴェドリンヌは、そもそもヨーロッパがアメリカに追従してロシアを制裁したのがまずかった、ロシアを取り込むべきだった、と言っていた。結局ロシアは、中国、イラン、インドなど「非ヨーロッパ新興勢力」とのが新しい「勢力圏」を形成し、そちらの方が少なくとも表面上は明らかに「協力」体制が強固そうだ。


それでも、人がすべての同胞との平和を希求する時代はきっとやってくる、と、信じたい。


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# by mariastella | 2018-06-19 00:05 | 雑感

マルモッタン美術館の細密画とシューベルト

マルモッタン美術館の常設展示の「enluminure(中世写本の細密画)」の部屋は、すばらしい。

キリスト教世界の細密画はこれまでにも見たことがあるけれど、ここの薄暗い一室に並べられた絵の筆遣い、時代を超えて輝く金の色遣い、疫病も飢饉も戦乱も今では考えられないようなレベルで人々を襲っていた時代に天国や救いや宗教的昂揚を求めた人々の息遣いなどがたちこめている。雰囲気の再現まで何かにまでインスパイアされたかのようだ。

この細密画の「光」は写真ではすべて吹き飛んでしまう。
その前に立たないと伝わらないので載せない。

彫刻も少しあった。これは聖女アニエス。仔羊がシンボルで、犬か猫のように寄りすがっている。
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こういうのを見ると、ああ、中世ヨーロッパにキリスト教の写本文化があってよかったなあ、と、保存状態の良さと同時に感謝したくなる。その感動は、具体的な宗教的コンテキストや鑑賞者の文化的背景とは別のところにあると思う。
例えば私は過去に「源氏物語絵巻」の原本の展示を見たこともあるけれど、教養としての興味の方が大きかった。
中世ヨーロッパの細密画は、伝統的文化的なコンテキストを共有していないのに、もっと迫ってくる切実感がある。

6/13には、弦楽オーケストラで、三度目になるバッハのブランデンブルク3番の他に、モーツアルトの「AVE VERUM CORPUS(アヴェ・ヴェルム・コルプス)」の合唱の伴奏に参加した。「真の体」、つまり先日の聖体の祭日と同じ、カトリックのミサで聖体にキリストの真の体が化体するするという賛歌だ。だから歴史的にはばりばりのカトリック文化の遺産なのだけれど、弾いていて、合唱を聴いていて、どきどきする(宗教とは関係のない文化行事のコンサートだ)。

こういう時も、バッハやモーツアルトらが生きていた時と場所にキリスト教文化があってよかったなあと思う。

目に見える細密画や、耳に聴こえる聖歌が、私たちを現世と「あちらの世界」の境界領域に誘ってくれる。
特に図像は確固としてそこに「ある」けれど、音楽は、演奏する瞬間にしか現れない。
「インスピレーション」の現場により深く立ち会える。

源氏物語絵巻を見る時には物語の文脈を知りたい気がするが、細密画や宗教曲には、テキストの中身や教義を超える「人間」の訴えや心を直接キャッチするだけで多幸感をもたらせてくれる何かがある。



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# by mariastella | 2018-06-18 00:05 | アート

マルモッタン美術館の細密画とシューベルト

マルモッタン美術館の常設展示の「enluminure(中世写本の細密画)」の部屋は、すばらしい。

キリスト教世界の細密画はこれまでにも見たことがあるけれど、ここの薄暗い一室に並べられた絵の筆遣い、時代を超えて輝く金の色遣い、疫病も飢饉も戦乱も今では考えられないようなレベルで人々を襲っていた時代に天国や救いや宗教的昂揚を求めた人々の息遣いなどがたちこめている。雰囲気の再現まで何かにまでインスパイアされたかのようだ。

この細密画の「光」は写真ではすべて吹き飛んでしまう。
その前に立たないと伝わらないので載せない。

彫刻も少しあった。これは聖女アニエス。仔羊がシンボルで、犬か猫のように寄りすがっている。
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こういうのを見ると、ああ、中世ヨーロッパにキリスト教の写本文化があってよかったなあ、と、保存状態の良さと同時に感謝したくなる。その感動は、具体的な宗教的コンテキストや鑑賞者の文化的背景とは別のところにあると思う。
例えば私は過去に「源氏物語絵巻」の原本の展示を見たこともあるけれど、教養としての興味の方が大きかった。
中世ヨーロッパの細密画は、伝統的文化的なコンテキストを共有していないのに、もっと迫ってくる切実感がある。

6/13には、弦楽オーケストラで、三度目になるバッハのブランデンブルク3番の他に、シューベルトの「AVE VERUM CORPUS(アヴェ・ヴェルム・コルプス)」の合唱の伴奏に参加した。「真の体」、つまり先日の聖体の祭日と同じ、カトリックのミサで聖体にキリストの真の体が化体するするという賛歌だ。だから歴史的にはばりばりのカトリック文化の遺産なのだけれど、弾いていて、合唱を聴いていて、どきどきする(宗教とは関係のない文化行事のコンサートだ)。

こういう時も、バッハやシューベルトやモーツアルトらが生きていた時と場所にキリスト教文化があってよかったなあと思う。

目に見える細密画や、耳に聴こえる聖歌が、私たちを現世と「あちらの世界」の境界領域に誘ってくれる。
特に図像は確固としてそこに「ある」けれど、音楽は、演奏する瞬間にしか現れない。
「インスピレーション」の現場により深く立ち会える。

源氏物語絵巻を見る時には物語の文脈を知りたい気がするが、細密画や宗教曲には、テキストの中身や教義を超える「人間」の訴えや心を直接キャッチするだけで多幸感をもたらせてくれる何かがある。



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# by mariastella | 2018-06-18 00:05 | アート

シャルル・グノー『血まみれの修道女』(La Nonne sanglante)

6/10、オペラ・コミックにグノーの『血まみれの修道女』(1854)を観に行った。

普段なら、19世紀ロマン派オペラはスルーしているのだけれど、前の週にパリでポスターを見てそのインパクトに打たれて、ついチケットを買ってしまったのだ。

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このポスターはオペラ/コミックの外の壁のもの。

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中にもこうして貼られていて、左にある、今シーズン全体のプログラムそのもののポスターも同じテイストで怖い。

この話はルイスの『マンク』のエピソードをもとにしたゴシック・ロマンというかゴシック・ホラーで、ホフマンらも同時代。私は高校時代、ドイツの小ロマン派の小説が好きで大学ではドイツ語クラスを選択していた。

で、行ってよかった。

エンターテインメントとして最高だった。

もちろんバロック・オペラ愛好家にとっては、「別世界」だ。

挿入されるダンス曲が「ワルツ」なのが、完全な断絶だけれど、それでも、たった11回で打ち切られたという初上演の時は踊られていたと思う。今回は、唯一黒人のソロダンサーがダンス的な動きを見せるシーンの他は、すべてスローモーションのパントマイムみたいな演出だ。フランスのオペラ・バレエの伝統が好きな私としては残念だ。振付が自然に頭に浮かんでしまう。

けれども、そういうバロック頭の先入観なしに見れば、すばらしい演出だった。

ミニマリストでビデオなども駆使しているけれど、コーラスやダンサーの「群衆」像をすべて「絵」にしているのは見事だ。何よりも、歌手たちが役者として優れていて感動ものだった。

ばりばりのベル・カントにも圧倒される。

ホラーの効果も成功しているし、父と息子の確執(この話には「母」が見事に不在で、「父」の権威、「宗教者」の権威、「神」の権威が、女性だけでなく「息子」も完全に支配している)というテーマと意外に相性がいい。

父が20年前に過去の許嫁を殺したと言っているのだから、次男である主人公のテノール、ロドルフはどう計算しても18歳くらいのはずで、父と兄が死に、家長となる一種のイニシエーション・ストーリーだ。(父に殺された女性が血まみれの幽霊となって現れるわけだ。)

中世ボヘミアで互いに戦い殺し合う二人の領主を諫め、平和をもたらすために隠者ピエールという宗教者が、和解のために両家の婚姻を勧める。アニエスという娘は敵の家族の長兄と無理やり婚約させられる。

けれども弟のロドルフは、愛し合うアニエスを兄に奪われても兄と戦おうとはしない。

兄が死んだ後でもアニエスと結ばれるために「血まみれの修道女」の呪いを解くために父を殺すことも拒否してすべてを捨てて去ろうとする。

愛よりも、儒教風の「家族の長幼の義」を守る若者だというのがおもしろい。

それでも、物語はどろどろと展開していくので、音楽を抜きにしたら歌舞伎で「四谷怪談」と「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)・寺子屋」を一度に見たような強烈で「濃い」印象になる。

「血まみれの修道女」のメイクも歌舞伎風にすごいし、手も血まみれというより黒塗りされているのも怖いし、何よりも、メゾソプラノのマリオン・ルベーグがそれこそ歌舞伎の「寄り目」のように「白目」をむいているのが鬼気迫る。

「血まみれの修道女」のライトモチーフの半音階や打楽器の使い方、チェロ、トロンボーン、ハープなども効果的だ。音楽の豊かな色彩感はさすがにフランス音楽だと思う。

舞台がすべてモノクロで、村の婚約者カップルのブルーの服を除いて全員が黒い服、「血まみれの修道女」だけが幽霊らしく白い服(最初の登場シーンでは血まみれになっている)というモノトーンの世界で、音楽の色彩感がいっそう際立つ。

グノーの生誕200年とはいえ、よくこんな作品を復活上演したものだと思う。

女性指揮者のローランス・エキルベイは、コンテキストの理解のために、文学史も学び、ロドルフの心理を理解するためにラカン派の精神分析医のアドバイスまで受けたという

徹底ぶりだ。

アメリカのテノール歌手マイケル・スパイアーズはとにかく出ずっぱりの一人芝居で、歌手冥利、役者冥利に尽きるような力技だが、この人はオテロとかファウストとかドラマティックなものをよく演じている。どちらかというとずんぐりしていて舞台映えするような人ではないのだけれど、演技力あり過ぎ。

ゴシック・ホラーが説得力ある人間ドラマになっている。


グノーはアヴェ・マリアで有名な敬虔なカトリックだったが、この上演当時には、「復讐の悪魔に憑りつかれているいる修道女」などという描き方は不道徳だとか、幽霊は音楽だけで表現すべきで、歌わせる必要はなかったとか、いろいろな批判があった。テオフィル・ゴーチエや、ベルリオーズ(作曲しかけてやめた)からは称賛されている。

修道女役はやはり目を見開いてすごい形相だったようで、死体の動きのために解剖学を研究したのではないか、とまで言われていたようだ。


日本の幽霊は「あちらの世界」の動き方で、「屍」の動き、とは別だと思うが、夜の12時という「境界領域」に現れるこの修道女はやはりまだ「生と死」の境界にいるのだろう。

カーテンコールで、オーケストラの全員が舞台に上がってきたのも珍しい。

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チームの力が絶妙のバランスで感じられるのも快かった。



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# by mariastella | 2018-06-17 00:05 | 音楽

カトリック教会のペドフィリア・スキャンダル その2

(これは前の記事の続きです)

ペドフィリア対策担当司教と被害者の会の代表との「対決」。

意外だった。

フランスでカトリック司教団の対策委員会がトレランス・ゼロを受けて、すべての司祭や教会内で未成年と接する人々を対象にさまざまな「防止策」を徹底して、通達していることや、チリの司教団が全員で共同責任を取って引責辞任をヴァティカンに願い出たことについて、

私がなんとなく予想していたのは、被害者側が、

そんな「防止策」では足りない、全体の体質を変えるためにチリの司教団のように徹底的に責任を取るべきだ、

と言うか、

フランス司教団の現実認識と自主的な努力は評価する、

と言うかのどちらかだった。

ところが、被害者が言うのは、違っていた。


要約すると、 


「全司祭を対象にして彼らがまるで潜在的なペドフィリア予備軍であるかのようにするのはよくない」


「チリの司教団が全員辞職というのは、実際の加害者の責任を相対化してしまうのでよくない」

ということだった。

確かに、ペドフィリアは「権威や権力のある大人が子供とふたりきりになるような状況」でしか起きないだろう。でもだからといって、そのような状況自体をすべて禁じるのは意味がない。


しつこく小動物の例を挙げると、

小動物と共に一人でいる時にしか虐待は起きないだろうけれど、

ではひとりで小動物といる人には誰でも虐待の誘惑が起こるということはあり得ない。


人の眼がないとメロメロ、デレデレになって犬や猫に愛を注ぐ人の方が多いだろう(まあそれはそれで犬猫にとっては迷惑かもしれないが)。


「自分の欲望を満足させるために小さい者を虐待する」という行為は、遺伝的、環境的、何らかの理由ですでにそのような「嗜好」を持った者が、それが可能な状況に置かれた時に「誘惑」に負けて起こるのだ。


犬猫が虐待されるケースがあるからと言って全てのペットの飼い主を集めて、防止策をレクチャーする意味はない。ほとんどの人は、ペットを飼っていない人たちよりも、虐待に対してさらに怒っているのだから。


もちろん少数の「異常者」を徹底して糾弾することは、そのような「傾向」を潜在的に持っている人が「誘惑」を自制するためにも有効だろう。ペドフィリアは連帯責任で相対化することで済ませるような問題ではない。


で、被害者の会のリーダーが言うのは、

このペドフィリアのスキャンダルについて「教会」全体を糾弾することで、99%の普通の司祭が後ろ指をさされるようになり、罵倒されたり、スカウト運動や公教要理やらボランティア活動に子供を参加させている親たちを不安にさせたりする。

ひいては神に対する信頼もなくす。激減している司祭のなり手もますます少なくなる。

加害者を守って司教団全員が引責辞任するのでは「実行犯」の責任を曖昧にする。

ペドフィリアは上への「忖度」やら上からの「指示」やらでなされる犯罪などではない。

「聖霊によって叙階された」はずの一司祭が、元の「嗜好」を満足させる機会に遭遇して犯した重罪である。

教会は、賠償などとは別に、当該司祭を徹底的に糾弾し、職務停止し、時効が成立していないなら司法の手に渡し、成立していても隔離し、「悪」を「悪」と名指さなくてはならない。


彼のこの言葉を聞いて、なるほどと思わされた。


これは、チリはもちろん、アイルランドやニューヨークでもなく、ましてやカトリック信徒が人口の0.4% 未満とかいう日本の話ではない。


「共和国主義」が「宗教」となっている今のフランスの場合だ。

今どき、子供たちをスカウト活動に入れたり、公教要理や教会のボランティアに参加させたりするフランスの家庭のマジョリティは、保守的なブルジョワ家庭であって、カトリックということがアイデンティティの一部になっている人たちが多いという現実がある。

で、そういう家庭の子供たちが、そのような活動を通して、使命感を得たり召命を得たりして、教会活動を続ける。中には司祭になる者も出てくる。今のような新自由主義経済の金権社会で、すでに「勝ち組」の家庭に育って教育水準も高い若者たちが、独身で弱者のために尽くしている司祭たちに接して、使命感に目覚め自分もその後に続こうとするわけだ。そのような「今時めずらしい」若者たちが、司祭になったり司教に上り詰めたりする。

それなのに、運悪く、ペドフィリア倒錯者の司祭にあたって被害を受けた少年たちがいた。

彼らが告発し罰してほしいのは直接の加害者だ。

司教団に謝ってもらっても「再発防止」対策をしてもらっても大した意味がない。

被害者の少年たちも、もちろんそれから教会を離れ、恨みにも思ったろうが、ブルジョワ家庭で教育水準が高いこともあり、長じて社会的には「成功」するケースがある。

トラウマの本質を考える余裕も知的な能力もあり、被害者の会を立ち上げて、他の国の被害者と連帯し援助していくスキルもあった。


一方で、そのような被害者たちの「友人」たち、つまり同じような恵まれた環境にいた少年たちで、倒錯犯罪司祭に密室で遭遇しなかった多くの少年たちが存在する。

彼らの中には、教区司祭や修道士たちの献身をみて、自分たちも弱者の側に立たなくてはと思う者が出てくる。その中から、代替経済を考えたり雇用者の人権に配慮したりする企業経営者も生まれれば、ボランティア活動や人道支援団体への寄付を続ける者も出てくる。

そして少数の者は自分も司祭になることを選択するのだ。

で、被害者組織のリーダーの友人にも、司祭になった者がいる。

友情は変わらない。その友人たちが苦しんでいる。ペドフィリア・スキャンダルのせいで、心ない罵声を浴びせかけられたり教会に攻撃の落書きをされたりするからだ。

少年時代に同じようにカトリック教育の中で慈善や利他や謙遜を教えられながら、


そんなことはすっかり忘れて「普通のエゴイストになる」普通の人もいれば、


神と弱者に身を捧げる使命を全うしようとする少数の人もいれば、


ペドフィリアの司祭と2人きりになるという事態を経て癒えることのないトラウマを抱えた少数の人もいる。

被害者の中には、過去に自分たちが信頼していた司祭、今でも信頼に足ると思う多くの司祭たちと「連帯」しようとしている人たちがいるのだ。


被害者の会のリーダーは、ひょっとして、本当の意味で「キリストの教え」に従う「信徒」なのかもしれない。

弱者である少年たちを虐待した強者を弾劾することを絶対にあきらめず、黙って苦しんでいた他の被害者に手を差し伸べ寄り添うからだ。

「ある閉じられた組織内の犯罪」を思う時、「悪」にはみな保身や思考停止や欲望や利益追求などの共通点があるけれど、それぞれの被害者にはそれぞれの立場と生き方と戦いがあるのだなあ、とあらためて考えさせられた。


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# by mariastella | 2018-06-16 00:05 | 宗教

カトリック教会のペドフィリア・スキャンダル その1

6/11


今発売中のリベラル・カトリック週刊誌の表紙を見て驚いた。


カトリック教会のペドフィリア問題対策の責任者である司教と、リヨンの司祭を告発することで始まったペドフィリィア犠牲者の会の主催者である40代男性の二人が並んでいる。

この2人は別々にはいろいろなところでインタビューに答えてきたが、公式に同時にインタビューを受けるのは初めてだそうだ。

細かいことをいろいろ書くのはスルーするけれど、リヨンの某司祭がカトリックのボーイスカウトの指導をする中で少年たちに性的な虐待をしていたというスキャンダルだ。しかも、そのことが司教の耳に入った後、司教は、その司祭を別の教区に異動させ、司祭はまた別の教区で同じことをし続けたという。それが何度も繰り返され犠牲者の数が増えた。その間、この事件が公になることはなかった。その司祭は現在職務停止だが逮捕拘禁はされていず判決待ちである。

この犠牲者の一人が、仲間数人と犠牲者の会を立ち上げ、それがきっかけとなって、アイルランドやアメリカや中南米のカトリック教会のスキャンダルがどんどんと明らかになっていった。いや、すでに知られていたものもあるが、声が大きくなり、芋づる式に大スキャンダルに発展したのだ。いわば、どこにでも横行していたセクハラが「#Me Too」運動によってメディアを席巻した構図に似ている。

前にも書いたが、ペドフィリアという未成年(特に子供)に対する性的虐待とその「隠蔽」は、

「子供にとって権威的な立場にある大人(ほとんどが男)が子供(男も女もある)と密室で二人きりにる」

という情況で発生する。


だから一番多い現場は「家庭内」で、父、義父、母の連れ合い、兄、義兄などによるもの、また、学校や部活などでの教師、監督、コーチ、その他の指導者によるもので、「カトリック教会」の中で起こる率は実は少ない。

ボーイスカウト、告解、公教要理のクラスその他だ。

家庭内や学校などより率が低いのは、現代においては「司祭」になるためにすでに性的禁忌や禁欲についての了解事項や誓いが明快なので、ハードルが高いからだろう。

それでも「カトリック教会」内のスキャンダルが最もアグレッシヴに攻撃されるのはいくつかの理由がある。

まず、ハードルが高いことそのものにある。


「神」の名において禁欲やら貞潔やらを誓い、奉仕者を自称するのだから、親や子供たちからの信頼が高い。信頼度が高い分、それを裏切る罪は重い。

「家庭内」のペドフィリアの「責任」追求や罰は加害者個人に向かう。

学校や部活などでは、加害者はもちろんだが、その「上」にある校長や教育委員会などの「監督責任」まで問われることもある。

それらすべてに、そのような加害の温床となっている社会のメンタリティ全体について問いが投げかけられることもあるが、漠然としている。


それに対してカトリック教会というのは、プロテスタント諸派などとは違って、教区や司教会議、ヴァティカン、ローマ教皇と、ピラミッド型のビューロクラシーがはっきりしているので、「カトリック教会」という大きなくくりで「責任」を追及することができる。


また、キリスト教文化圏の国には、もともと、「反カトリック教会」というロビーや無神論イデオロギーが存在するので、プロパガンダ的にも「ペドフィリア」スキャンダルを追求するベースがあるし、報道価値もある。

「カトリック司祭は独身で性的に欲求不満」などという俗受けする攻撃もできる。


「どこそこに住む何某が再婚相手の連れ子を何年も虐待していた」などと言う「ニュース」よりも社会的な価値やニュース価値がある、と認識されるのかもしれない。

誤解のないように言っておくが、この記事では「カトリック教会」内のペドフィリアを相対化しようとしているのではない。

その反対で、カトリックの聖職者によるこの手の犯罪は、世俗社会において罰せられるべきであるだけではなく、職業倫理としてははるかに重大で、「情状酌量」は通用しない。

カトリックの司教たちは、そのスキャンダルを長年にわたって「隠してきた」ことを非難されている。


一つには、もちろん、メンタリティの変化がある。


ひと昔前までは、未成年に関わらず、性的被害にあった者は、「泣き寝入り」した方が害が少ないと思われてきた。その手の被害を公にすることは、相手を罰するメリットよりも被害者の被るマイナスの方が大きいと思われたからだ。それが結果的に加害者をのさばらすことになった。

けれども、「#Me Too」運動もそうだが、レイプが親告罪ではなくなったように、今は、「性的被害をなかったことにしておく。」というメンタリティは大きく変わりつつある。


ひと昔前の「カトリック教会」の司教たち(司祭の監督責任がある)が司祭のペドフィリアを「もみ消した」こと自体は理解できないでもない。もちろんこれも、決定的に「神」に背き、聖職者としての誓いを破ったのだから、本来、「普通の世間」のメンタリティにソマリアっている場合ではない。

しかもリヨンのケースは、その司祭を別の教区に異動させ、そこで「再犯」させていたのだから、司教の罪は重い。

ペドフィリアはもちろん、強い立場にある者が弱者の尊厳を「意図して踏みにじる」ことは、家庭内であれ、学校であれ、職場であれ、スポーツの場であれ、宗教の場であれ、絶対に許されてはならない。

命令系統の明快なカトリック教会であればなおさら、即刻「職務停止」と「隔離」を実行するのが「最低」線で、公の司法にゆだねるのも当然だ。今は、法律上は時効になっているケースにも判例に従って、賠償金を支払うことが検討されている。

で、今やフランスの司教団は、ボーイスカウトの指導者や公教要理の指導者、司祭全員を対象に、密室での告解をしてはならない、未成年と2人きりにならないなどのレクチャーをして「再発」を防ぐ対策をしているというわけだ。

又は、最近、やはりペドフィリアのスキャンダルを受けて、なんと、チリの司教団全員が辞職願をヴァティカンに提出するという事件が起きた。

これは、まるで、「トカゲの尻尾切り」ではなくて、「トカゲの頭」を差し出したわけだ。


一見すると、世界中の多くの「指導者」や「権力者」たちが、「不祥事」を前に自分たちの責任を認めずに、末端に罪を被せたり、嘘を重ねさせたり、辞職させたり、自分たちは給与の一部返上みたいなことでお茶を濁したりすることに比べると、「潔い」と見えなくもない。

もっとも、古いタイプの「カトリック教会」の体質を残している国とは違って、例えばフランスのように、政教分離が進んで知識人の間で不可知論者がデフォルトになっているような国では、「司教」や「枢機卿」などに「昇り詰める」ような人は、使命感に満ちた高潔な人がほとんどだ。生涯独身で、「選挙」の支援団体におもねる必要もないから、二世、三世議員やらが活躍する「政治家」などとはそれこそメンタリティが違う。

だからこそ、彼らには、「ペドフィリアという犯罪を犯す司祭」というものについての「想像力」が完全に欠落している。そう、彼らは、仲間だから、教会の恥だからという思いで「もみ消した」という意識より、「信じられなかった」ということが大きかったと思う。

多くの人はある種の「悪」への想像力がまったく欠如している。それが欠如しているDNAが自然選択されてきたからだともいえる。

自分自身を見ても、ペドフィリアはもちろん、例えば犬や猫を意図的に虐待する、などと言う発想は、まさに「信じられない」。

今はネットなどで、そういう人たちがいて、実際の虐待シーンを公開する人さえ存在することを知ったけれど、やはり想像を絶する蛮行だ。もしも自分の周囲に実はそんな人がいると言われても、茫然として、やはり「信じられない」、と思うだろう。

で、今回の、再発防止の対策担当司教と被害者の会のリーダーの「対決」。


まったく意外だった。 


(前置きが長くなったので続きは後はこの後で。)


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# by mariastella | 2018-06-15 00:05 | 宗教

閑話休題 不思議ヒールと夏の音楽フェスティヴァル

夏は音楽シーンがパリから地方に移る。

各地でフェスティバルが開催され、それぞれ工夫したポスターが散見される。

その中で気に入ったのがこれ。

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 バカンスと音楽フェスティバルのうきうきした雰囲気が伝わる。



もう一つ、最近一瞬驚いてつい写真を撮った靴。

教会で前の席に座っていた年配の黒人女性。

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 ヒールがかかとではなくつま先に近い方についていてしかもがっちり安定しているように見える。

はじめて見たのでネットで検索しても、オリジナルなヒールというのはたくさんあったけれどこれはなかった。

モードに詳しい友人に写真を送って問い合わせたら


>>>確かにこれみたいは靴は見たことがありますが(お店で売ってたことがある)でも、まず売れないだろうな〜と思っていました(笑)
こういうのはショーなどで使うことがほとんどだけど、(奇をてらったというか、)結構中国人とかは「流行の先端」と思うのか?実際にこういうのを買ったりするみたいですけどね、、。
でも、デザイン的にも綺麗じゃないし(かかとが取り外しできるのならともかく)意味ないものね〜<<<

という返事をもらった。はいている人の雰囲気から見て、ほとんど「医療用」じゃないかと思ったのだけれど、医療でわざわざこんな高いヒールをはく必要はないと思うからやはり「おしゃれ」なんだろうか。

私ってひょっとして、暇?


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# by mariastella | 2018-06-14 00:05 | 雑感

ラ・フォンテーヌの詩をめぐって

ひと昔前ならフランスの小学3,4年生が必ず暗唱させられたラ・フォンテーヌのこの詩。


フランス語なら意外に暗唱しやすいのは音節の他に、脚韻を踏んでいるからで、各行の終わりは4行ごとに、ABAB/ABBA/AABB/AABB/AA という脚韻だ。

Travaillez,prenez de la peine :

Cest le fonds qui manquele moins.ここまでが教訓

Unriche Laboureur, sentant sa mort prochaine,
Fit venir ses enfants, leur parla sans t
émoins.
Gardez-vous, leur dit-il, devendre lhéritage
Que nous ont laiss
é nos parents.
Un tr
ésor est caché dedans.
Je ne sais pas l
endroit ; mais un peu de courage
Vous le fera trouver, vous en viendrez
à bout.
Remuez votre champ d
ès quon aura fait lOût.
Creusez, fouiller, b
êchez ; ne laissez nulle place
O
ù la main ne passe etrepasse.
Le p
ère mort, les filsvous retournent le champ
De
çà, delà, partout ; si bien quau bout de lan
Il en rapporta davantage.
D
argent, point decaché. Mais le père fut sage
De leur montrer avant sa mort
Que le travail est un tr
ésor.


Jean de La Fontaine

だから日本語なら8ビートの五七調で訳すと雰囲気が近くなるだろうが、大要はこういうものだ。

代々の土地を耕してきた裕福な農耕者が死期が近いことを悟って息子たちを集めて、実はこの土地には財宝が隠されているのだけれど自分は見つけられなかった、だから、土地を売ることなく、隅々まで掘り返して宝を見つけるようにと言い残す。息子たちは隅々まで掘り返すが宝は見つからない。でも、よく耕したので豊作になった。宝とは「働くこと」だったのだ。教訓は「努力することが一番確かだ」という感じ。

で、勤勉の勧めであると同時に、「働かざるもの食うべからず」のヴァリエーションのように読まれることもある。

「働かざるもの食うべからず」と言うと聖書の文句やらスターリン憲法も想起してしまって、近頃では「自助努力」至上主義などにもつながって微妙でもある。生活保護バッシングなんていうのもあるし。

まあ、「怠けるのはよくないよ」という基本線は分かるし、フランスでヴォルテールの『キャンディード』にある「我々の庭を耕さなければならない」(リンク先のVoltaireのテキストの終わりから4行目の《il faut cultiver notre jardin.》その後に、人はエデンの園に置かれた時から働くために造られた。何も考えないで働くことが人生を我慢する唯一の方法だ、とある)というのともセットにされて語られることもある。


バカロレアの筆記試験の一つの典型だ。

例題解説をリンクしておく。

ラ・フォンテーヌとヴォルテールと他のふたつのテキストを読み比べて、「労働が人間を築くのか」について意見を述べよ、という問題だ。労働観の変遷について述べる必要があると示唆されている。

でも、ラファエル・エントヴェンが最近のラジオで面白いことを言っていた。

この人は哲学者でなくソフィストだと言われるくらいもはや「哲学芸人」的存在になっている。

でも彼のそのスタンス自体がすごくフランス的でもある。

で、彼は、このラ・フォンテーヌの寓話は、「労働が大切」と読むのでなく、「良い結果を得るには嘘も方便だ」とも読めるというのだ。

息子たちは父の嘘を信じて自分たちで汗を流して必死に働いた。そのことで実りが得られ、達成感、自分自身に信頼、自信を持てた。嘘は自己肯定感に至る道となることもある。

同時に、自己への信頼とは獲得し「所有」するものではなく、常に「求める」ものである。

この話は私が前に書いたように、神だの超越だのを感じるには「ファクト」は必ずしも必要でないし、さまざまな典礼や神話から小説や芝居まで、「真実」に至るためには必ずしも「事実」を必要としない、という話と通じる。

真偽とは別の次元で何かを「信じる」「信じ込む」ことが新しい視界を開いてくれることがある。


逆に「信じる」ことが内向きになり、窓や扉を次々と閉めるような方向に行くのでは「真理」に向かわない。内的な自由の希求につながらないものは「仮置きの真理」ですらない、ということだ。


でもこの頃考えているのは、信じることと合意することとは別だなあということだ。


ネットのアプリなどで、煩雑そうな「規約」をろくに読まずに「合意する」をクリックすることはよくある。

それは「信じる」ことと関係がないが、まさに、「合意する」「受け入れる」ということで、それをクリックしてはじめて開けて参入できる世界がある。


そう思うと、「アーメン」はまさに合意する、受け入れるという部分なのかもしれない。


まあ、この世には、じっくり読んでから「合意する」にクリックしないと面倒になる罠が仕掛けてある「お誘い」も少なくないだろうから、どこに向かいたいのか、何に対して扉を開けておくのかという基本的な方向性について自分の中で納得できるか、を先に考えておかなくては、と自戒する。



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# by mariastella | 2018-06-13 00:05 | 哲学

仏法僧 

少し前の記事で、鳴き声から「ブッポウソウ」という名をつけられた(実はその鳴き声は別の鳥コノハズクだそうだが)鳥に触れた。


「仏・法・僧」という仏教の三宝を鳥の声にも聴くという敬虔な?日本人、というイメージを持っていたが、その三宝についての興味ある解説を曹洞宗のお坊さんのブログで読んだ。

現在「読誦経典」として機能している『修証義』という経典についての話だ。


>>>『修証義』はほぼ、読誦経典としての機能のみが取り沙汰されている。無論、ここに至る経緯は、『修証義』成立問題や安心問題、曹洞教会の問題、そして、1990年代以降は人権問題との関連もあって、一筋縄では論じられないものである。<<<(ブログ『つらつら日暮らし』より)


読誦経典という分類も、例えばカトリックの祈りなどでは何に当たるのだろうかと考える。


日本の仏教のお経を唱えるのは、般若心経など有名なものは別として、信者ではなくてもっぱらお坊さんのイメージだ。


普通の人は「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」や「南無大師遍照金剛」のような短い呼びかけを唱える。


カトリックでも、もちろん「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。」のような短いものもあるけれど、ロザリオのアヴェ・マリアの祈りとかかなり長いものも一般的だし、教会では主の祈りとか使徒信条とか「教義」にそのままつながるものが全員で歌われたり唱えられたりする。

特に、ラテン語ではなく各国語で祈られるようになってからは、基本的に「口語」なので意味を把握せずに「読誦経典」としてだけ機能している祈りなどないような気がする。


で、『修証義』で「合掌し低頭して」唱えられる「三法帰依」とは

南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す、僧は勝友なるが故に帰依す、仏弟子となること必ず三帰に依る、何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、然あれば則ち三帰に依りて得戒あるなり。

ということなのだそうだ。


仏は是れ大師なるが故に帰依す、

法は良薬なるが故に帰依す、

僧は勝友なるが故に帰依す、


と、それぞれ帰依する「理由」を述べているのが新鮮だ。

簡潔でなんだか合理的で説得力がある。

この三つへの帰依を経てはじめて仏教徒となる「戒」を受けることができる。


戒は、三聚浄戒(律儀戒、善法戒、衆生戒)と

十重禁戒(不殺生戒、不偸盗戒、不邪婬戒、不妄語戒、不酒戒、不説過戒、不自讃毀他戒、不慳法財戒、不瞋恚戒、不謗三宝戒)


となり、三宝を謗ることの禁止も最後にある。


旧約聖書のモーセの十戒だとか、キリスト教の七つの大罪だとかも想起され、社会的動物の人間、「これはやっちゃいけない」という自覚は普遍的なんだなあとは思う。


でも、信徒共同体に入る前には、三宝帰依だとか信徒信条だとか、まず「共同体独自の言葉」を受け入れなければならないようにでできているのが興味深い。





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# by mariastella | 2018-06-12 00:05 | 宗教

アメリカとイスラエルの関係

なんとなくイメージはあったけれど、はっきり言葉にされると思わずたじろぐ、という類の言説がある。最近読んだレジス・ドゥブレの論考にそれが出てきた。

アメリカとイスラエルの関係についてだ。

アメリカが大使館をエルサレムに移転したことでパレスティナ情勢の火に油を注いだとヨーロッパ諸国は非難している。

アメリカとイスラエルの「癒着」といえば、数々のユダヤ「陰謀論」を別にしても、

「アメリカの軍産コングロマリット」と

「ユダヤ金融資本」

との利害が一致しているから、イスラエルの核保有を含むアグレッシヴな政策が止むことを知らないのだという見方が一般的だ。

トランプの娘がユダヤ教に改宗していることなどを見ても、ユダヤロビーが強力なのはもっともだ、という印象をもってしまう。

ところが、これをあっさりと宗教のバランスでひも解くと次のようになる。

どちらも歴史の浅い二つの国の成り立ちは似ている。

建国の「神話」が共通している。


「選ばれた民」

「約束の地」

「植民者であると共に開拓者、パイオニアである」

「運命を切り開く確信」

「ユダヤ=キリスト教的メシア(救世主)信仰」

この共通の構成要素が、不思議な効果を生んでいる。


すなわち、イスラエルを保護する立場の超大国アメリカが、モラルの点ではイスラエルに従うことだ。


アメリカは大統領が聖書に手を置いて宣誓する国、危機が起こるとホワイトハウスで朝の祈りを開催する国、ホテルに旧約聖書が置いてある国だ。

そんな国が、聖典(旧約聖書)が憲法や土地台帳の根拠を提供している国の政治に異を唱えることなどできない。イスラエルは宗教においてアメリカの「兄貴分」であるからだ。

なるほど。

これがカトリック国とイスラエルでは少し違う。

ローマ教皇もユダヤ教は歴史的には「長兄」のようなものだ、と和解の手を差し伸べている。けれども、イエス・キリストは「兄」であるユダヤ教に刃向かったわけではなかった。

ナザレのイエスはユダヤ人でユダヤ教徒だったので、キリスト教は生まれていない。そして、ユダヤ教徒なのに不都合なことを言って当時のあり方を批判したので冒涜だといって殺された。

それに比べると、アメリカの建国神話のピューリタンが生まれた「宗教改革」は、叛旗を翻したリーダーたちは一方的に殺されたのでなく、離反して自分たちこそ正しいキリスト教だと主張した。カトリックとプロテスタントは何十年も戦争状態で血を流し合った。

だから、歴史的に(西ヨーロッパ・ベースで言えば、)、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントの順で長兄、次兄、末っ子になるはずだけれど、プロテスタントはむしろ一種の「父殺し」で外に出た。激しい「家庭内暴力」の末に「約束の地」を外に求めたのだ。


カトリックはユダヤ人を「神殺し」と差別してきた。そしてその延長にあるナチスのホロコーストのせいで、ドイツや、ドイツに占領されていたフランスのような国は、その「罪悪感」のせいで、イスラエルに本気で説教することができない。(スウェーデン、イギリス、スペインなどはその「罪悪感」がないのだそうだ)

で、うちを飛び出して約束の地に「神の国」を建国したアメリカは、イタリア系やアイルランド系のカトリック移民は長い間しっかり差別してきたけれど、直接けんかしていないユダヤ人には「長幼の礼」をもって接し、選民意識を共有しているのだという。

もちろんこれによってアメリカの対イスラエル政策をすべてを説明できるわけではないし、実はアメリカにも「反ユダヤ」のレイシズム」は根強く存在する。


それでも、こういう視点で解説されると、今まで見えていなかったものが見えてきて、パレスティナ危機や中東クライシス(シリアのアサド大統領が金正恩に合うため訪朝するつもりだというニュースを聞いて驚倒したところだ)の平和的解決には、このようなところまで踏み込まないと真の安定はないのかもしれないと思う。


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# by mariastella | 2018-06-11 00:05 | 宗教

聖体と核分裂? 聖体の祭日の話(続き)

これは「父の日」の日曜日のミサの後のアペリティフとランチの招待状。

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裏にはユーモラスな突っ込み(白字)入りの文が並ぶ。

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「教区がカナを祝う ! / (結婚式かい・・・)」

(聖書に出てくるカナの婚礼にかけている)

「体を大切にしたまえ、魂がずっと住みたがるようにね ! / (そしたらもちろん体も残ることになるしさ)」

「神は料理の中にもいる ! / (料理に失敗してもね !)」

「マクロン祭りより楽しいぞ !/ (あ、マクロンが来てももちろんOKだよ)」

(マクロン祭りというのは最近行われた反政府デモのネーミングだ)

などなど…。

 

実際、この教区、子供連れの若い夫婦などがたくさん出席する傾向がある。

ヴェリエール師の説教は、ベネディクト16世(B16)が教皇になってすぐ出席したケルンのワールドユースデーに若者たちを連れて行った時の話から始まった。

ケルンでの開催を決めたのはヨハネ=パウロ二世だったが、B16はドイツ人。ケルンでの若者の歓迎はすごくて「ベーネデーット、ベーネデーット」と連呼されたらしい。

B16は遠慮がちに片手をあげて応え、次に両手を合わせた。そして、若者たちに背を向けて、聖体の前に跪いて動かなくなり、若者たちはしーんと静まり返った。

B16は聖体のことを「核分裂」に例えたそうだ。

イメージとしては、目に見えないレベルで激しい反応が起きて大量のエネルギーを発するという感じだろうか。それまでの「自然」が「超自然」に変換されるという。

死者が生き返る、だけでは「魔法」や「魔術」だけれど、「最後の晩餐」のイエスは、自分が死ぬことを分っていながら、自分の体を無酵母パンに託して弟子たちに与えた。つまり、「死ぬより先に死を犠牲として与えることで先取りして死に打ち勝った」というのだ。

うーん、新訳聖書の成り立ちやら教義や神学の歴史をいろいろ考えると、まあ、こういう言い方が「正しい」のだろう。で、典礼の歌にも、「私の体を食べなさい、あなたはもう決してひとりではない」とか「永遠の命を与えられる」などという言葉が並ぶ。

また例の「おひとりさま」のことや、「合理主義の知識人が老い手から宗教に入信するのはいかがなものか」という自称「棄教徒」の上野さんの言葉が思い浮かぶ。


確かに、人間は所詮ひとりで死んでいくのだし、「子や孫」もあてになるかどうかなど分からないのだから、「イエスと結婚する」という修道者だのお遍路さんのようにイエスと「同行二人」と考えて「もう決して一人でない」と「妄想(上野さん用語)」するのも「処世術」の一つかもしれないし、それを潔くないと思う人もいるのかもしれない。


「永遠の命」と言われても、つい、最近耳にしたウディ・アレン(もとはカフカの言葉だという説もある)の「永遠は長い、特に、終わりの方が」(Eternity is a long time, especially towards the end.なんて言葉を思い出してしまう。

などと、雑念満載で聞いていたけれど、ルヴェリエール師が「信じきって」「なりきって」永遠のスパンで生き、話しているのは伝わる。

「聖体を拝領する時にアーメンと合意をすることが大事だ。キリストが体をくれるのにこちらが言葉だけというのは交換として釣り合わないけれど、合意するところに聖霊が働き、自分だけがイエスの体になるのでなく、聖堂全体が、共同体全体がキリストと一体化する。インターアクションが必要だ」

もっともだ。


それにしても、ミサを挙式する司祭さんって大変だなあ、と思う。

本当に民間信仰や新興宗教のノリで、会衆が信じたりすがったり崇めたりする気満々の時代や場所ならいざしらず、本気で「神降ろし」をしなければならない。


独身制のカトリックの司祭は特に、親子代々ってことはあり得ないから、「召命」って本当にあるんだなあ、とあらためて感心した。(感心でなく改心しろよ、といわれそうだけど…)


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# by mariastella | 2018-06-10 00:05 | 宗教

聖体の祭日

6/3の日曜ミサは、日本のカトリックでは「キリストの聖体の祭日」というのだそうだ。

フランスでは簡単に「la Fête-Dieu、つまり、「神祭り」などと普通に呼ばれる。

もちろん聖体の祝日、 Fête du Saint-Sacrement, とかラテン語の神の体、キリストの体、Corpus Domini, Corpus Christiとも呼ばれる。


本来は復活祭後60日とか、三位一体祭の後の木曜とかの「移動祝祭日」の一種だ。ポルトガルやブラジルやポーランドのようなカトリック国は公休の祭日のまま残っているけれど、フランスなどは、復活祭やキリスト昇天祭、聖母被昇天祭などは移動祭日のままだけれど「聖体の日」は祭日ではないのでそれに近い日曜日に設定されている。日本でもそのようだ。

ことの起こりは、「聖体パン(ホスティア)」が本当にキリストの体になるなんて、と疑いを抱いた司祭たちの前で、いろいろな奇跡が起こったことの記念だ。聖体パンが突然肉片に変わったとか、血が滴り落ちたとかいう「奇跡」は、カトリック世界のフォークロアとしてはあちこちにある。韓国の血の涙を流すナジュの聖母像で有名になったジュリアさんの口の中であら不思議、小麦と水の後聖体が肉片に変わったというパフォーマンスは20世紀末にも盛んに拡散されていた。

「聖体」を口にする、というのは文字通り考えたらかなり倒錯的なカニバリズムっぽいイメージなので、プロテスタントがそれはシンボリックな意味ですよ、と言ったのは無理がない。「奇跡」のフォークロアを動員してまで「化体」にこだわるカトリック教会も、派手なパフォーマンスを規制している。無酵母パンが肉に「化ける」必要はないので、キリストが自分の体を無酵母パンに託したのだから、「見かけ」は関係がないはずだからだ。

ともかく、フランスのような「カトリック文化圏」の国では、神学的、教義的、フォークロアとの習合の歴史などを別にして、5月の「聖母月」に「母の日」を、6月の「聖体の月」に父の日を、一番気候のいい時期に、家庭や共同体のお祭りを続けてきたわけだ。

で、前の記事で書いた上野さんとは正反対でフォークロリックな祭りも民間信仰も神秘も奇跡も好きな私はもちろんこの「聖体祭」に出かけた。

ルヴェリエール神父がどう話すか聞きたかったこともある。

思えば、私は楽器演奏の生徒たちに、

聴き手は「物理的な音」を聴くのではない、すべての聴覚体験は視覚と同じで脳による再構成なのだから、演奏者の「意図」も込みで聴いている、音が出る前、響く間、消えた後、その全てにどういう意図をこめるかによってそれに応じて聴いてくれるのだ、

と、いつも言っている。

それで「実験」をすると、はっきり違いが分かるのでみんな感心してくれる。

それと同じで、どんな芝居でも小説でも、鑑賞する方は、俳優や監督や書き手の意図や、本気、やる気、なりきり方、伝え方、を、「内容」といっしょに受けとめる。

伝える側の熱意やら意図を受けとめ共有することができれば、「ファクト」の信憑性などは問題にならない。

SFでも、アニメでも、神話でも、命の琴線に触れることがある。

で、「ビュット・ショーモン被昇天のノートルダム」のルヴェリエール師の説教が楽しみだった。

この教会、ラテン語(フランス語の対訳が表示されるとはいえ)の歌も増えて、跪いて口で聖体拝領する人も少なくないし、なんだか、だんだん原理主義っぽくなって、外国に来ているみたいな気もしないでもない。

でもルヴェリエール師の話が興味深いのは、彼が「信じている」からだ。


「ご聖体」を掲げ、「ご聖体」を語る人の「信仰」が、名演奏者の奏でる音楽のように聴こえる。「ご聖体」が楽器で、ルヴェリエール師の「信仰」が弾き手であるかのようだ。

で、どんどん「伝統」主義っぽくなる彼は、子供たちにバラの花びらを撒かせて、祭壇から教会前の広場まで超短い距離をしっかり「聖体行列」をして、それから聖体器を持って教会の屋根のテラスに上がり、町すべてを「祝福」した。

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地面にバラの花びらが見える。祭壇の前で向こうでひざまずいているのがルヴェリエール師。


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お天気がよくてよかったね。

ラマダン期間中とはいえ、何の検査もなく、「聖体」をもって出たり入ったり、道行く人も、日本なら「あ、今日はここのお寺でなんかやってるな」という感じの「普通のパリの下町」のリラックス感にほっとさせられた。

 

6/13「父の日」にはミサの後に無料で昼食会があり、10歳以下の子供にはベビーシッターがつき、10-15歳には映画の上映付きだそうだ。「アルファ」の人たちが食事を担当だという。

 彼の求心力がますます強くなっているのが分かる。

 肝心の「説教」はどうだったかというと…(続く)


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# by mariastella | 2018-06-09 00:05 | 宗教

「おひとりさま」を少し考えた

前に、本を読まないで、「おひとりさまVSひとりの哲学」という山折哲雄さんと上野千鶴子さんの対談本の内容についてアップしたので、先日日本に行った時に買って読んでみた。


このお2人の書いた「おひとり」モノ自体も読んだことがないので何とも言えないが、誰かが書いていたようにもっぱら上野さんが山折さんを論破している、という印象は別に受けなかった。


上野さんは昔風に言うと「つっぱっている」雰囲気で、山折さんは自然体の感じなので、山折さんの方が「上品」に見えてしまう。


例えば上野さんはすぐに「おっさんはいい気なもんだ」と「ムラっと怒」りが湧くというのだけれど、山折さんの方は上野さんを前にして「おばはんはいい気なもんだ」などとは絶対に口にできないだろう。

 ただ、上野さんは、本当はいわゆる情にあつい人なんだなあと思う。

自分には「絶対に『この人は自分を見捨てないだろう』という子も孫もいない」


とか、


「わたしは日本では超レアケースの確信犯的おひとりさまなんです。家族を作ることを、自分の意思で選択しなかった。そのことをまったく後悔していません。どうしてかっていうと、誰かと運命共同体になることを一切したくなかったからです。」


とか言っているからだ。

「子や孫は絶対に自分を見捨てない」などと思っている人なんて、それこそ超レアか、彼女の言葉でいえば妄想の部類のような気もする。


そして、家族を作ったからと言って運命共同体になるかどうかだって分からない。

人は、自分の生きる時代や環境と運命共同体にならざるを得ない部分はあるけれど、「運命共同体」になりたいからと言って結婚を決める人がどれだけいるのだろう。


結果的に社会や世間や風土や経済状況や健康状態などいろいろな状況によって「運命共同体」になってしまうカップルだってもちろんいるだろうけれど、それは「結婚」自体の属性ではない。


上野さんはおとうさまの介護や看取りをなさったということだから、そういう義理堅いタイプで、親を「見捨てる」ことなど絶対になかったわけだ。責任感があって、いい人なんだなあと思う。


この世には、親につぶされたり捨てられたり、子供に裏切られたり搾取されたりするケースなんていくらでもあるような気がするのは、上野さんではなく私がよほど「性格悪い」(上野さんが自虐的にあるいはレトリックとして自分を形容する言葉)からかもしれない。

それに、普段は、性的マイノリティをLGBTとくくってロビー活動したりする人を冷ややかに見ている私なのだが、こうシンプルに「おっさん」と「女」に分けて論じられると、「おっさん」アイデンティティのない男や「脳内おっさん」の女や、ジェンダーでカテゴリー分けされたくない人たちはどうなるんだろう、と気になる。

上野さんは、宗教についても筋金入りの無神論で「神秘主義と超越はノーサンキュー」と切って捨てるのだけれど、それはなんとご自分が「棄教徒」だから、「あの世」とか「彼岸」とか「霊」に頼るまいというのがアイデンティの一部なんだそうで、これも驚きだ。


「棄教徒」アイデンティティということは以前に本気で信じていたということだろうか。

「のめりこんでいた新興宗教から抜ける」というようなケースの他には、日本では、「棄教」するほど宗教帰属意識のある人自体が少数派だと思う。

私が『無神論』で書いたようなキリスト教文化圏での「無神論」への回心や反宗教イデオロギーとも少し違う。

日本でそんなイデオロギーを掲げても持って行き場がないような気がする。

この点に関しては、「風土の差」というのは厳然としてあるのではないだろうか。


山折さんのアニミズムと一神教の関係の仮説にも前から異論があるけれど、この本では、むしろ、上野さんっていい人なんだなあという感慨の方が残った。

私も「死に行くとき」は、幸いに事故や災害や犯罪などではなく普通の病気や老衰ならば、プロに普通に苦痛をケアしてもらって看取ってもらえるだけでけっこうで、残る人の愁嘆場もみたくないし上野さんが言う「感動ポルノ」もごめんだと(少なくとも今の時点では思っている)いう点では、まったく彼女と同意見だ。

「神秘」や「超越」については、それ自体を求めるというより、神秘や超越と深く関わったり体現していたり激しく求めたりする「人々」に惹かれる。


神秘も超越も、私にとっては、そういう人々や彼らの営為、残してくれた生き方や証言を通して、ガラスに反射して見える太陽の光やぬくもりの気配のように「ある」貴重なものだ。

そんな「人々」がいる限り、私は決して「おひとりさま」ではないなあと思う。


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# by mariastella | 2018-06-08 00:05 | 宗教

マルモッタン・モネ美術館

このブログは今は基本予約投稿ばかりなので、書いている時、話題と、アップの時間にかなりのずれができる。

でも、5月の末にようやく観に行ったマルモッタン美術館のコロ―展は、ともかく一見の価値があるので、会期中の7月8日までにパリにいる方にはぜひお勧めなので、今のうちにそのことをアップしておく。

コロ―と言えばバルビゾン派の風景画家、というイメージだけれど、その人物がシリーズがすばらしくて、その中に、私がどうしても観たいものがあって、もちろんすでにネット上ではじっくり見て、それについての記事すら書いていた。
でも、記事にするにはやはり実物を見ておかないと、と、重い腰を上げたのだけれど、その3点の絵の前に立って、衝撃を受けた。

展示室の角のコーナーで直角にかけられていて、その絵の大きさのせいもあるけれど、そこだけがまるで異空間のようなスポットになっているのだ。コロ―とその絵の世界に体ごとワープさせられる気がするほど、何かの「密度」だか「波動」だかが凝縮している。

ネットやカタログで絵を見ていろいろ論評することの傲慢さ、というより、空しさを感じてしまった。
どんな「ほんもの」でも、いったんその出会いの「場」を離れれば、「記憶」のフィールドにインプットされる。
それを「言語化」する時には「記憶」と対峙するのだから、本物でも画集でも「脳内再構成」のアートを養うという意味ではそう変わらないとまで思う時もあった。
音楽だって、自分が弾く曲にしても、毎回異なるわけで、その度のライブの体験が層をなして脳内イメージが形成される。固定したものはない。変化したり進化したりする。
そのような「経験知」を揺さぶるほどの「ほんもの」の強度に驚いた。

で、その絵については後日アップするけれど、ここではともかく、可能なら今、ぜひ、マルモッタン美術館へどうぞ、というお勧めだけひとまずアップ。
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メトロのミュエットで降りるとラネラグの公園があって、そこには一目でラ・フォンテーヌだと分かる銅像がある。
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キツネとカラスの寓話がモティーフ。
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この美術館にはいわゆる美術館カフェはないけれど、帰りには昔の駅を利用したミュエットの「ラ・ガール(La Gare)というレストランで食事できる。
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ここに来るのは久しぶりだったけれど、初夏のいい天気で、昔のレールがあった場所のテラスで食事した。周りより低いので通りの喧騒もなく完全に囲まれた空間なので、落ち着けるし安心できる。大きな声では言えないが、ラマダンの期間中の今、パリの普通のテラスで食事をするのはテロのリスクが気になって避けたいからだ。

昼のコースのデザートのチーズケーキについてきたベリーソースの「ト音記号」がまったく逆向きっていうのには興をそがれるけれど。
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ト音記号がG(ソ)の位置の記号で、Gの筆記体からできたことを知っていればこういうカーブの間違いはあり得ないのだけれど。
そういえばマルモッタン美術館は、今はフランス美術アカデミーの本拠地なので、アカデミー会員が創らせる「剣」の展示があったけれど、音楽評論家でもあったジョルジュ・デュアメルの剣の束はト音記号のデザインだった。
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# by mariastella | 2018-06-07 00:05 | アート

沖縄で観た世界の「シーサー」たち

2016年に松江と出雲に行った時、ユニークな立ち姿の狛犬を見て、それに関する文書を見つけて読んだことがある。「大社の史話」25.9 176号の中の「大社の狛犬(藤原慧)」という記事だ。いわゆる「お座り」型ではなく、勇み獅子とか出雲かまえ獅子とかいうもので尻を突き上げた姿は、これが「犬」ではなく、ネコ科の獅子だなあと思わせるものだった。


沖縄ワールドの歴史博物館で世界の獅子像の展示があった。

ここでは「親子モノ」に興味がわいた。

母子なのか父子なのか?

獅子の親子、と言えば頭に浮かぶのは「連獅子」の親子の踊りとか、そのもとになる「子は我が子を千尋の谷に落とす」とかいう言い回しだ。

歌舞伎の鏡獅子は父子と決まっているが、生まれて三日目の子を落とす、というのなら、それは母獅子の役目のような気もしないではない。

でも沖縄で観た親子獅子たちはみんなとても人間味がある。

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これは「千尋の谷」落としなのかもしれないが、なんだかじゃれているようにも見える。


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単独の獅子でもこんなユーモラスというかペーソスを感じさせるものがある。

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勇壮というのとは程遠い。猿みたいだ。これでも「魔除け」になるのだろうか?

「獅子」という「猛々しさ」のシンボルへのイメージの託し方が興味深い。
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これは沖縄の珊瑚による作品。迫力がある。


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これも沖縄の石灰岩の作品。こっちはやはり「ネコ科」っぽい。



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# by mariastella | 2018-06-06 00:05 | アート

『ヴィクトリアとアブドゥル』(スティーヴン・フリアーズ監督)

往きの機内で観た最後の映画は
スティーヴン・フリアーズ監督の、『ヴィクトリアとアブドゥル』だ。


81歳というヴィクトリア女王の孤独を名演のジュディ・デンチ。この人は30年前にも『Queen Victoria 至上の恋』という映画で、やはり使用人を優遇してスキャンダルになるストーリーをやったが、ヴィクトリア女王のキャラってある意味これだけわかりやすいともいえる。

優しさを求め、女王でなく「対等」に接してもらいたい、つまり、人間として生きたい、というわけだ。

この「ガラスの壁」は厚く、全くアウトカーストの無邪気なのか単に人間性や共感力が優れているのかわからないような人だけが時にするりと抜けてみせる。

アブドゥルの場合は、植民地インドの有色人種、しかもヒンズー教ではなくムガール帝国のムスリム(だから兵士たちは、イギリス軍が大砲のメンテナンスに豚の脂を使っていることが許せなくて反乱を起こしたのだという。)などと異質性が半端ではない。

当時、世界の四分の一を支配したという大英帝国だが、そこに君臨する首長の「人間性」は誰からもリスペクトされない。

今の民主主義国にも信教の自由や職業選択の自由や選挙権すらない元首や特別な家族たちがいる。

人々のエゴによって犠牲に供されるのは、分かりやすい無産者や弱者だけではないのだなあと気づかされる。

アブドゥルの場合も、『最強のふたり』の、車椅子の大金持ちと使用人の友情のことを思い出してしまった。本質は同じなのだけれど、たとえ何歳の年の差があろうと、ヴィクトリア女王の場合は、よい同性の友情が得られなかったのが残念で、娘との関係はどうだったのだろうとも思うが、それも、姻戚関係などでままならなかったのだろう。

ある意味で「失うものが何もない」無産者の方がハードルを越えてくれる。

でも、それが男と女であるとスキャンダルはどこまでも大きくなる。


テーマの「普遍性」をねらっていない分、物語として飽きずに見ることができた。


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# by mariastella | 2018-06-05 00:05 | 映画

『幼な子われらに生まれる』三島有紀子

 往きの機内で観た三つ目の日本映画は『幼な子われらに生まれる』三島有紀子

再婚同士の夫婦の間に自分たちの子供が生まれるが、他の子供たちとの間にさまざまな葛藤が、というストーリーということで、赤ちゃんをめぐってどう関係が変化するかという話かと思ったら、赤ちゃんは最後の最後にしか生まれない。この赤ちゃんが生まれたこと自体が「結論」であるわけだ。


これは、ドキュメンタリー、というか他人の私生活と内面の動きを内側から「覗く」というタイプの映画として出色だ。監督の三島有紀子という人すごい。


主演の浅野忠信も、仕事と私生活、しかも普通の男が二つのステップファミリーの間で全力、最善を尽くしながらも無力感と怒りの中で揺れ動くという役を等身大に演じられるのがすばらしい。


実の娘の母親が学者のインテリで同業者と再婚し、義理の娘たちの父がDVの末の家庭脱落者という対照的な設定なのも、それぞれのささやかな幸せややりきれない不幸をきっちり描いているのでカリカチュアにはなっていない。自分と自分の周りに命があって、それを大切にすることが生きることなんだというメッセージが最後には自然に浮かび上がる。


でも、『三度目の殺人』でも思ったけれど、どうして「父と娘」とか、ともかく「娘」という設定の方が「お話」が作りやすいのだろう、と思ってしまう。


これらの映画の中では、「男」たちは、自分たち自身が永遠に「息子」の立ち位置に置かれているるともいえる。

「娘」の方は、「母」になるとスタンスが変わり、さらに「女」というだけで周り「男」たちにプレッシャーをかけている、という感じもする。


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# by mariastella | 2018-06-04 00:05 | 映画

『亜人』( 主演:佐藤健×監督:本広克行)

4月に日本へ行った時の機内では日本映画を3作観た。

今年のカンヌ映画祭のパルム・ドールを獲得した是枝裕和監督の2017年の作品「三度目の殺人」については前に少しコメントした。


次に観たのが『亜人』



体も命も瞬時に再生できる新人類の話。

「死なない奴はいくら殺してもOK」というのがベースにあって、それにもてあそばれた「亜人」たちが復讐を企てる。

機内のミニ画面でないと絶対に見ないだろう、ヴァイオレンス満載の映画。

コミックが原作というので、なるほどと思わせる。


 でもこれだけ特撮ぶりがよく分かる大量殺人だと、悪夢に残るほどの実感としては迫ってこない。むしろそれ以外のしっとりしたシーンが際立って見える。特に、吉行和子が人のいい労農婦の役で出ているのがわざとらしくない清涼剤のように見えてくるから不思議だ。

 家族愛もあり、亜人であろうがなかろうが「人種」といっても「個人」は多様であることや、生き方を選択する自由についてなど考えさせられる。


帰りの機内では、アカデミー賞作品となった『シェイプ・オブ・ウォーター』を観たのだけれど、人間よりも優れた身体能力を持つ「怪物」が捕らわれて実験材料にされ苦しむのを、助けられて人間と心を通わせるというテーマでは共通している。


科学の名のもとにまかり通ってしまうエゴイズムや非人間性というのは普遍的だということで、どちらの作品も、特撮やストーリーの展開以外にもそれなりにしみじみ見てしまえたのが意外だった。


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# by mariastella | 2018-06-03 00:05 | 映画

「きれいになった」イザベル・アジャーニとフェミニズム

 先日ヘアサロンで手に取った週刊誌パリマッチ誌に、すっかり痩せて30年前と変わらない若さと美しさのイザベル・アジャーニが『イザベル・アジャーニの春』というタイトルのインタビューに答えている記事があった。

 インタビュアーである男性作家から「何というスタイル!」という第一声。

 読んでいるだけで、女性の体形をすぐに口に出すのは、昨今ならセクハラ?という気遣いが起こらないでもない。

セクハラ告発の嵐の中で、カトリーヌ・ドヌーヴらが、男性が女性にお世辞を言う権利、ギャラントリーの文化について声明を出してすぐに「炎上」してしまったことは記憶に新しい。でもアジャーニは「あれはアッパー・クラスの女性にのみ通用することだから」とこの記事で答えている。

その自分自身が、若い頃の体型を取り戻したことを真っ先に賛美されて、余裕で話を続けているのは、もちろん彼女自身が「アッパークラスの女性」だという認識があるからだろう。

シェイプ・アップすること、痩せることについては、ダイエットなどで自分を囚人にしてしまうのは意味がない、自然食品、運動、瞑想などでゆっくり自然にシェイプ・アップするのがいい、と自分の体験を話しているのだけれど、自然食品、運動、瞑想などという三点セットで自然に健康に痩せる、というコンセプト自体が、「アッパークラス」的と言えないでもない。

さらに、

「大切なのは、美しくあることではなく、自分を美しいと感じられることだ」

「女性として自分を美しいと肯定的に見られることこそが自由の旗となる」

などと言っている。で、自らは業界大手のロレアル化粧品の顔を引き受けている。


ロレアルと言えば「ロレアル ― あなたには価値があるから」のキャッチコピーで有名だし、70歳のスーザン・サランドンなども「顔」として起用している。


イザベル・アジャーニの語るイメージはSois belle et t’es toi」だ。

この tes toiというのは、tais-toiとのかけ言葉だ。

Tais-toiなら、黙っていろ、ということで、

「女性は見かけがきれいならばいいので口は開くな、意見を言うな」というニュアンスなのを、

tes toiなら、君は君である、つまり、「あなたは美しい、あなたはあなたである」「美しい時こそあなたは本当のあなた」というフェミニズム的美の賛辞となる、というわけだ。

要するに、「他人のために化粧するのでなく自分のために化粧する」という発想の転換と言いたいのだろうけれど、そういう自分磨きの「美しさ」の規準だって世間や社会や時代と無縁ではない。

女性が自分で自分のことをきれいだと思えることのハードルは「見かけ」よりもずっと高いともいえる。

 世間の基準に照らした時、ダイエットや整形手術では決して変えられない、持って生まれた「マイナス点」というものはあるし、老化や病気という「マイナス」もある。

また、「女性として」の見かけを自分で肯定できない人や拒絶する人もいる。

そもそも人は自分の「見かけ」をナマで把握することすらできない。


「見かけ」に左右されるような存在の良好感を「自由」の出発点にはしたくない。


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# by mariastella | 2018-06-02 00:05 | フェミニズム

『ボヴァリー夫人とパン屋』アンヌ・フォンテーヌ

最近TVで観た映画その2


『ボヴァリー夫人とパン屋』アンヌ・フォンテーヌ


ついこの前観たルルーシュの映画に出てきたエルザ・ジルベスタンがやはり、彼女にぴったりな軽いインテリまがい、アーティストまがいの女性の役で出ている。

これほど「それらしい」キャラばかりやっていたら、役の幅が広がらないんじゃないかと気になってしまうくらいだ。

パン屋の夫妻と、その向かいに越してきたイギリス人夫妻の話だが、イギリス人の妻がパン屋に買いに来た時に出会うフランス人女性の役だ。

ひまわりの種のパンを説明する時にヒマワリという言葉を英語で言えないパン屋に「sunflower」だと助け舟を出してくれる。彼女はイギリス人と結婚しているのだ。(フランス語ではtournesolで、「陽周り」という感じだからヒマワリに近い)


で、三組の夫妻が食事をするシーンがあって、イギリスとフランスの互いの文化に対する憧れと国民への悪感情の両立を吐露して百年戦争はやめよう、などというジョークが出てくる。

彼らの言葉が英語になったりフランス語になったり、どちらもなまっていたり、少し不自由で仲間外れの気分になったり、という微妙なカルチャー・ショック、国民性や階級差、パリと地方、などのテンションが通奏低音になっているので、日本語版の予告編を見て、全部日本語の字幕を読んでいたらこの映画の言葉の面白さが抜け落ちてしまうなあと思う。


それにしても、ルキーニって、文学好きの妄想男役がはまりすぎていて、いつもは感心するばかりだけれど、この映画を観ていて、本当に大丈夫か、この人、って思ってしまった。

ジェマ役のジェマ・アータートンの魅力で成り立っているのかもしれないけれど、あまりこちらの琴線には触れない。

確かに公開当時は話題になった映画だし、ある種のフランス文学(マリヴォーとか?)にもあるフランス的くどさというか素直でない不自然さがべっとりとしているのが、ノルマンディの美しい風景で救われているという感じだった。


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# by mariastella | 2018-06-01 00:05 | 映画

『サウルの息子』ネメシュ・ ラースロー

最近TV2本の映画を続けて観た。

そのひとつ。

2015年のカンヌでグランプリに輝いて世界中で評価された『サウルの息子』。



もうこういうナチス告発ものは見ていて気が重くなり暗くなるのでスルーしていたkだけれど、アウシュビッツ-ビルケナウの収容所内での出来事という何度も告発されてきた映画とは別のテイストで最後まで見てしまった。


ハンガリー人の監督ネメシュ・ラースローの初の長編映画ということにも驚く。


しかもたった一人の主人公(ゾンダーコマンド=ナチスの側で働かされているユダヤ人)の心の動きと、それが、課せられているルーティーンを超えさせていく僅か一日半の出来事をすごいリアリズムで描いている。


ハンガリーという視点を入れたことで、収容所におけるドイツ語とポーランド語とハンガリー語、ユダヤ教の共通の祈りのことなど、複雑な「ことば」の世界がはっきり分かる。

監督は、少年時代からずっとフランスで暮らし、もちろんバイリンガルで、「映画」文化的には完全にフランス風の人だ。実際この映画もフランス語で撮るフランス映画になるかもしれなかった。

結局、ハンガリー語にこだわり、主役の俳優もアメリカ在住のハンガリー人を起用し た。

存在感がある。

ハンガリー語を通じて、やはりナチスに協力させられているハンガリー人医師が主人公に協力してくれる。

主人公のサウルという名はイスラエル最初の「王」の名で、姓のアウスレンダーというのが「外国人」という意味であることもシンボリックだ。


ゾンダーコマンドは70人ほどいて(時々殺されて入れ替えられる)、頑健で専門技術があり、食事もよく、衛生状況もいい。その現実と、同胞を獣のようにガス室に送りその遺体の始末をすることの落差の中でみなが心を病んでいる。


この映画ではじめて知ったのは、働く女性でレジスタントに関わる人がいてゾンダコマンドのレジスタントの試みと連絡を取っていたということだ。

この女性たちの、はユダヤ人女性から選ばれて収容所で働いているのではなくて、ポーランド人レジスタント女性闘士だと思うのだけれど、その辺ははっきり分からなかった。

ストーリーのディティールはゾンダーコマンドたちが埋めて残した巻物や少数の生存者の証言に依っている。たとえば死体処理の証拠写真を撮るシーンがあるが、それも実在している


この映画、「追体験」を強いられるようで、若い人の感想の中にはロールプレイのようだ、などというものがあった。


ゲーム感覚の追体験ができる世代と「無知であることに罪悪感」を抱える世代の追体験の間には何か超えられない質的なものがあるのではないかとも思ってしまった。


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# by mariastella | 2018-05-31 00:05 | 映画

沖縄を考える その10

沖縄に行ってからひと月経った。

まだ書いていないことの方がたくさんある。

沖縄で実際に行ったり、見たり、聞いたり、説明したりしていただいたことで、ますます、他の方や他の時代の沖縄についての論考を渉猟するようになった。

だから、考えをまとめるよりもどんどん深入りすることになっている。

私は今、ベトナム戦争でも兵役拒否をしたアメリカ人のウェイン師を新司教に持つ沖縄のカトリックと、韓国のカトリック教会などのつながりに、東アジアの平和への希望を見出そうとしている。
それなのに、そのような取り組みを、「反日」やレイシズムのヘイトに満ちた言葉で攻撃する人もいることも知るようになった。

でも、政治的などんな偏見やら思惑よりも、実際に毎日、「基地の島」の現実から被害を受けている人々の生き方、あり方を改善することが先決だと思う。

ライプニッツは、カトリックとプロテスタントの三十年戦争によって荒廃をきわめたドイツの現状を見て、キリスト教の宗派対立を調停するという道を選択した。モナドロジー(単子論)が生まれた。
人口の四分の三を失い、農業、商業が壊滅し、社会のモラルが失われた当時のドイツ社会を立て直すために、もはや宗教的な物語を利用することはできない。それこそが社会の荒廃を引き起こした本質的な理由だからだ。

(これは今のイラクで、もうスンニー派とシーア派の色のついた政党ではなく政教分離の民主政党を立ち上げる運動があるのと通じる)

そこでライプニッツは、自分たちの「絶対」を掲げる宗教ではなく、どんなものでも見方によって変わるという相対主義を唱えることになった。

ライプニッツは、ある町をどの角度から見るかによってその町のイメージがまったく違うことを例に挙げる。
見る人の視点だけ町がある。
ちょうど「群盲象を撫でる」と同じだ。「実際に触れた」ことから来る確信など、全体の真実にはつながらない。

けれども、町を取り囲む要塞の壁の前にたたずむ人と、中心部の丘に建つ塔から町を見下ろす人では情報の質も量も雲泥の差であることにライプニッツは注目する。

できるだけ多くの角度、多くの要素を取り入れるのも大切だけれど、絶対に見ることのできない盲点は常に存在する。

町を最もよく見はらすことができるのは「神の視座」である。
人間が神の視座に到達ことはできないが最終地点は必ずあるという意識が、この世界やモノや他者を「よりよく」見ようとすることを促す力動を生む。

ライプニッツの結論は、「真実を求めるエスプリにとっては、進歩は決して終わりがない」ということだ。

相対主義ではない普遍主義はいつも「神」と関係がある。

相対主義で、敵対するどちらの側にも一理ある、とおさめるのが便利なこともある。「どちらが悪いか」という裁きは難しい。

けれども、たとえば、ある共同体に人身御供や障碍者抹殺などの「伝統」や「文化」があったとしても、外部の者がその「多様性」に驚いていた時代から、今では、個々の文化や伝統にかかわらず、「すべての人の命の尊厳が守られるべきである」という「絶対」善がコンセンサスとなってきた。

神の視座の普遍主義というのは、宗教の教義や宗派のトップの判断などとは関係がない。
個々の人間や風土を異にするさまざまな共同体にとっての「正義」だの「善」だのを超えた普遍的な視座がどこかにあること、そこに到達することはできないけれど、「よりよい」ものを求めるという選択は必ずあることを信じ、期待することだ。

ライプニッツの「町」と同じで、私がたまたま立った地点からだけで「沖縄を考える」などと大それたことは言えない。
同じように、「沖縄」の不条理だけを見てイランやシリアやアフリカや、世界中で起こっている不公正や不条理を語ることはできない。

でも、あらゆる不公正のある場所には、いろいろなレベルで苦しんでいる生身の人たちの毎日の生活がある。

私の「沖縄を考える」は、そこに絶えず回帰しながら続いていくだろう。

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# by mariastella | 2018-05-30 00:05 | 沖縄

ウタツグミ  (閑話休題)

子供の時から鳥を飼っていた。

ジュウシマツのつがいがひなを育てるのを見るのも好きだったし、手乗り文鳥も何羽も育てた。

手乗り文鳥がいる頃に読んでいた本はページの多くがくちばしの形に三角にちぎれていた。

猫を飼うようになってから、鳥とは縁がなくなった。
それでも時々、鳥を近くで観たくなるし、鳥の声を聞きたくなる。幸いうちの猫たちは完全室内外なので、庭には出さないから、庭が鳥たちのパラダイスになっている。

その中で、何度か、ウタツグミの声を聞いた、と確信したことがある。
姿は見ていないので、定かではないけれど。

「ウタツグミ」という名前はこのブログを書くために日本語をネットで検索して見つけた。「歌」という名前がついていてほっとした。
日本では珍鳥中の珍鳥の野鳥だとあった。1860年にヨーロッパから来た、英語ではソング・スラッシュだという。

この鳥は、学名そのものが Turdus philomelos という。philoはフィロソフィーのフィロで愛すること、つまりメロディを愛するツグミ。

フランス語名はGrieve Musicienne (ミュージシャン・ツグミ)。

このネーミングがすごく好きだ。

1km先からも聞えるという鋭い鳴き声、しかも、早朝一番に高いモミの木のてっぺんで歌ったりすることが多い。


鳴き方に即興性があって、独特のモティーフを数回繰り返し、終わりのストロフもちゃんと区別できる。最後に他の鳥の鳴き方を真似て終わることもあるという。

鳴き方を解説したビデオもある。



鳥の鳴き声の音楽と言えば、メシアンを思い浮かべる。

『鳥の小スケッチ』と呼ばれる小品集の題四番がこのウタツグミだ。

Messiaen - Petites esquisses d'oiseaux: IV. La grive musicienne


ちなみにこのメシアンの曲六つのうち半分がヨーロッパコマドリで、他にクロウタドリ、ノヒバリがある。

野ヒバリは、今急激に減っていて絶滅を危惧されているが、50m-100mの空を水平飛行し、フランスの初春を告げる鳥だ。

メシアンがウタツグミの鳴き方を音楽的に分析した文は驚くべきものだ。
作曲家がインスパイアされたのも不思議ではない。
バロック時代は逆に、作曲家たちが自分の曲をカナリアに覚えさせて歌わせていたこともある。
鳥の歌と人間の音楽は互いに通じ合い、インスパイアし合えるということだ。

フランスのサイトでは、あるウタツグミの楽節の一続きの連鎖をこういうオノマトペで表したものがあった。

Pii-èh pii-èh pii-èh
Kvièt kvièt
Pii-èh pii-èh pii-èh
Trruy trruy trruy
codidio codidio

確かにヴァリエーション豊かだ。

その他に、《Tu dis oui》と表すのがある。
チュディウィ、と聞えるのだろうけれど、
「君がウィという。」(いいって言ってくれる、いいんだね、いいって言ってちょうだい)のような様々なニュアンスで、「チュディウィ」と繰り返すように聞こえるわけだ。

日本の鳥で「ブッポウソウ(仏法僧)」という鳴き声の名を持つ鳥がいるが、実際は間違いで、ブッ・ポウ・ソウと鳴くのはコノハズクだという。
ネットで聴いたがいまひとつ心を動かされない。
「日本三鳴鳥」というのがあって、

ウグイスの「ホーホケキョ」、オオルリの「ピリーリー」、コマドリの「ヒンカララ」だという。うーん、鳥は「歌い手」「音楽家」として認識されているというより、いわゆる「花鳥風月」の一要素という愛でられ方のような気がする。

「カッコ―」などの鳴き声も、ヨーロッパ音楽ではダカンなどすばらしい曲のモティーフになっているけれど、そしてドイツ民謡やカッコウ・ワルツなど、日本でも知られているし日本の童謡としても知られているけれど、あれほどはっきりした下降三度で真似られる鳴き声なのに日本では曲にならなかったのだろうか。

鳥の歌を取り入れることはフランス・バロック音楽の感性と近い。
それを考えると、日本の古謡や伝統音楽にもっと鳥の歌のモティーフがあってもいいと思うのだけれど、検索したら「笛・鼓・鳴子などで囃し物をして鳥を追い払う『鳥追舟』」が出てきて、鳥が追い払われていた…。

能管などは鳥の歌にぴったりだけど、即興以外に実際の鳥の歌にインスパイアされてモティーフかされたものは存在するのだろうか。

私が知らないだけかもしれないのでもう少し調べたり考えたりしよう。

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# by mariastella | 2018-05-29 00:15 | 音楽

年度末のコンサートとロシア

フランスは6月末のいわゆる学年末が、文化行事の年度末だ。
7、8月は、アーティストもバカンスに出かけてバカンス先のフェスティヴァルに出演したりする。

その「年度末」の三度のコンサートの第一弾が5/25だった。

Torelli のアレグロ、アダージオ、プレストのカルテットを弾いているところ。
(写真はリハーサル)

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その他は、弦楽オーケストラでブランデンブルグの三番の全楽章、
ヴィヴァルディ、ヘンデル、シューベルトなどを弾く。

ヴィオラのトリオでヴィヴァルディの2台のマンドリンのためのコンチェルトをやっていたが、それはひどかった。
私は昔何度もこの曲を2台のギターのヴァージョンで弾いたことがあるけれど、魅力的な曲だ。それなのに、ヴィオラでまったり弾くと曲の魅力が全部隠れる。

こういうアレンジを弾く前に、オリジナルのヴァージョンをまったく研究しないのだろうか。
そういえば、バッハのブランデンブルグをギターのアンサンブルが弾いているのをネットで視聴したことがあるけれど、それは逆に、擦弦楽器のボーイングの魅力がすべて消えた間の抜けたものだった。

その曲の魅力を最大限に引き出すのに適した楽器というのはある。

6/8はラモー、モンドンヴィル、デュフリーなどをトリオ・ニテティスで弾くと同時にヴィオラではホフマイスターの曲、そして生徒たちとのピアノの連弾6曲、

6/13は、またブランデンブルグと、コーラスの伴奏。モーツアルトの宗教曲。

音楽とバレエのレッスンがなかったら私の生活はほぼ引きこもりだから、音楽による「分かち合い」の時間はとても貴重で幸せな時だ。

年度末最後のコンサートが終わったら次の書きおろしに集中できる。

6月はサッカーのワールドカップで盛り上がる時期だけれど、開催国はロシアで、政治的緊張の高まっている国でもある。

5/24、マクロンがロシアでプーチンと声明を出した。1時間の予定の会談が2時間半にのびて声明も遅れた。

ロシアとは、イラン、ウクライナ、シリアという三大問題があるから、話し合いは簡単ではない。それでもマクロンはトランプ大統領よりは「大人」な建設的なトーンでおさめることに一応は成功していた。

すぐそのあとの日本の首相のプーチンとの会談はどうなったのだろう。

首脳会談なのにウニの養殖とかイチゴの温室栽培とか秋田県の贈呈が話題になるのだと揶揄していた人がいたが、本当にそうならあまり意味がない。

これを書いている時点では米朝会談の行方も分からなくなってきたし、気になることはたくさんある。



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# by mariastella | 2018-05-28 00:05 | 音楽

沖縄を考える その9 野國総管と唐芋

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これは、嘉手納町の駅の前にある「唐芋」を伝えて琉球や日本を飢饉から救った野國総管という人の銅像。ぜひ写真を撮って広めてくださいと言われた。
左手に持つのがイモ。

日本で「サツマイモ」と言われ、普及させたのが甘藷先生、青木昆陽とされているのは間違いだから、と。

1605年に救荒対策として荒地でも育つ芋の苗を明から持ち帰った野國総管を記念して、「野国いも」と呼ぶことが、唐芋伝達400年記念の2005年に嘉手納で宣言されたそうだ。

だから野國総管は、それ以来、日本全土を飢饉から救った恩人だ、と言う。

沖縄の「薩摩」に対する悪感情は分かるから、何よりも、サツマイモと言う呼称が気に食わないのだと思う。青木昆陽の名が広く知られていることも。

でも、青木昆陽の名は確かに「習った」けれど、別に「恩人」と刷り込まれてはいない。青木昆陽にたどり着くまでに唐芋は、琉球王からから種子島に寄贈され、薩摩や瀬戸内海に広がり、100年以上経ってから儒学者の昆陽が文献を見て薩摩から取り寄せたと、Wikipediaにあったから、別に、呼称とか手柄にこだわったわけではなさそうだ。

中国との交易や地理的関係から見ても、沖縄の方が九州よりも先に文物を取り入れると言うのは不思議ではない。
野國総管が嘉手納に分骨されて宮も建てられ毎年祝われているというのは、この人が、飢饉対策などで先見の明を持つ優れた為政者だったからだろうし、産業振興の恩人だっからだと言うのはよく理解できる。

でも、いつの時代のどこの誰の功績が後々の出来事の「出発点」だったかと決めるのは難しいし、恣意的でもある。

私がなんとなく分かるのは、フランスに住んでいて、私が「日本のもの」だと認識しているものをフランス人が中国のものとか韓国のものだと見なしていると、直接関係もないし、実際の由来も知らないにもかかわらず、なんとなく不愉快だとか不当だと感じてしまうからだ。
パリの韓国料理レストランで、フランス語で「韓国料理」というタイトルのりっぱな写真集の表紙が「巻き寿司」だったのを見たことがあるが、その時の感覚だ。

それとは逆に、長い間「外国」に暮らしていると、どんな文化だって色々なところから伝わって進化したり特殊化したりするのだから、時にはその中の普遍性に感嘆したり、時にはヴァリエーションやハイブリッドを楽しんだり、時にはその好き嫌いによって自分自身の立ち位置を発見したりすればいい、という心境もある。

でも、搾取したりされたり併合したりされたりの歴史のある地域間では、先取性がアイデンティティと切り離せなくなることもあるだろう。

空軍基地のある嘉手納だからこそ、めぐりめぐって、野國総管の重要性が拠り所になるのかもしれない。ちなみにフランスはジャガイモの国だけれど、ジャガイモが「新大陸」から来たことはみんな知っている。オランダ船がもたらしたというジャガイモも日本の飢饉対策となった。

20世紀のフランスの飢えを防いだものにはキクイモ(これもアメリカ大陸由来)がある。
種まき、苗の植え替え、刈り入れなどが大変な穀物と違って、イモって確かに飢饉に強そうだし、洋の東西を問わず、品種改良が続けられた歴史にも敬意を評したい。





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# by mariastella | 2018-05-27 00:05 | 沖縄

沖縄を考える その8 沖縄の新聞(追記あり)

沖縄では、いつも沖縄の県民の側に立ってぶれないことに感心している地方新聞2紙を、アナログで手に取ることができて感慨深かった。

琉球新報には「9条の行方ー沖縄から問う」というコーナーがあって、自衛隊明記についての記事があった。沖縄では、なんと、「復帰」前から憲法記念日を祝っていたという。
「復帰」すれば日本の軍隊を持たないという「平和憲法」が適用されるはずだ。
沖縄の人たちが望んで夢見ていたのは琉球処分以降の大日本帝国への「復帰」ではなく、基地を一掃してくれる「平和憲法」に合流することだったのだと思う。

でも、平和憲法も、復帰も、とんだ「看板に偽りあり」だったわけで、米軍基地の治外法権ぶりは変わらなかった。日本の「中央」にとっては、沖縄は琉球処分以来の戦略地点でしかなかったのかもしれない。

沖縄タイムスには、「語れども、語れども」という「うまんちゅの戦争体験」という連載がある。

私の行った日は「屈辱の日」の翌日だった。サンフランシスコ条約で日本が主権を取り戻したのに沖縄が切り離された日だ。
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同じ琉球だった奄美大島は鹿児島県になって切り離された。
復帰後も、沖縄県となったので、「高校野球」の応援で、奄美の人は琉球だったのに沖縄代表よりも今は鹿児島代表を応援してしまう、というエピソードも、単に笑って聞き過ごせない気がする。

その「屈辱の日」は、2年前にうるま市の女性が元海兵隊員の軍属に殺されて遺棄された日でもある。犯人と結婚していた女性や子供、その家族の人生も破壊された。
次の日は遺体が発見された日で、金武町(キャンプ ハンセンなど、基地が60%も占めている町だ)の発見場所(追記:恩納村から金武町に抜ける県道104号の道路沿い。この2年間、お菓子やお花や飲み物、メッセージカードが絶えたことはないという)には追悼のテーブルと椅子が置かれていた。
被害女性のご両親などがいらっしゃるのを、前町長さんが待っていた。

殺されるのはもちろん、米軍関係者による交通被害にあった人も、乱暴された人も、生き延びても心身の傷は消えないだろう。

話だけでは抽象的であっても、美しい花が供えられている前で手を合わせると、理不尽さや無念さが胸を衝く。
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# by mariastella | 2018-05-26 00:05 | 沖縄

沖縄を考える その7

嘉手納空軍基地を見下ろせることで有名な道の駅「かでな」にも連れて行っていただいた。

展望台では、基地や戦闘機よりも、子供連れも含めてそれを見学に来る人達の熱気の方が印象的だった。私はあらゆる列車が好きな鉄道ファンやカーマニアの気持ちもあまり分からない人間なのだけれど、戦闘機マニアに心躍らせることは、本質的にリスクをはらんででいるのでは、と思わざるを得ない。

でも、集まっている若い人たちを見ていると、何か壮大なゲームを楽しんでいるように見える。ここから飛び立つ戦闘機が爆撃したり、訓練中に事故を起こしたりしていることなどへの想像力や記憶とは乖離した世界のような気がする。
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カメラが並ぶ。
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土産物屋?も、米軍グッズや戦闘機写真。オスプレイの写真も見える。
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駅と基地の間のわずかな場所(黙認耕作地)に畑などができているのもシュールだ。
でも、案内してくれている方は、実際にこの近くに住んで、戦闘機の爆音をずっと聞かされている人なのだ。

リゾートや観光ルートだけめぐっていると、このように、「基地問題そのもの」が観光の対象になっているところの存在を知らないままでやってきて去っていく人も多いだろう。(続く)

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# by mariastella | 2018-05-25 05:22 | 沖縄



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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