L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:フランス( 260 )

修道経済 その3

(これは前の記事の続きです)

Q 2 研究の対象を聖ベネディクトの戒律を採用している修道会に限ったのはどういうわけですか?

A 聖ベネディクトの戒律にインスパイアされた修道会と、托鉢型修道会とでは、暮らし方と、物質財に対する関係へのアプローチがまったく違います。

ベネディクト会やシトー会は、自分たちの労働によって生活の資を賄おうとしています。托鉢修道会や説教修道会(ドミニコ会)は、神の言葉を担うために、労働というくびきから解放されることを願いました。

私は論文の一貫性のために前者に集中することにしたのです。それは別に聖ベネディクトの戒律の方が優れているという表明でも価値判断でもありません。

(托鉢修道会も私有財産は認めていない。中世において伝統的な修道会の多くが荘園領主化したことへの反省により、托鉢によってのみ生活の資を得る修道会がうまれた。アッシジの聖フランチェスコによるフランシスコ会がその代表で、カルメル会なども含まれる。時代と共に、寄進などによって修道会としての財産を保有するようになり、さまざまな形態が生まれた。聖ベネディクトの戒律は、イタリアのモンテ・カッシーノにベネディクトゥスが最初の修道院を作った後の530-556年にできたもので、衣服などの私物も決まったものを貸与される形で、四足獣を食べない、沈黙の強制、典礼、労働など微細にわたる。ネットでも検索できる。ここで扱われるのはいわゆる自給自足のコミュニティで、前に書いた『祈り』の映画の中にあるような施設もこのノウハウにインスパイアされているともいえる。)






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by mariastella | 2018-04-23 00:05 | フランス

修道経済 その2

(これは前の記事の続きです)


Q 1 あなたは定年リタイアしてから研究生活に入られましたが、そのプロジェクトはどのように生まれたのでしょうか?


A 私はエンジニアとしてのキャリアと企業取締役としてのキャリアを歩みました。

リタイアした時点で、興味を持っていたのは、エキュメニズム(教会一致運動)、福祉経済、フェア・トレードの三つについてでした。それが、神学を勉強しようと思い立った理由です。パリのカトリック学院では、私の職歴を鑑みて、修士課程で持続可能な開発について研究することを勧められました。私はすでに修道会ともかかわりを持っていたので、このテーマは、私の興味を持っていた全ての分野を抱合するものになりました。「連帯経済と市場論理」修士課程のディレクターであったエレナ・ラジダ女史は私の選んだテーマに関心を持ち、このテーマで論文を書くことを許可してくれました。この論文は、同時に、私の40年間にわたる職業人としての生活を批判的に見直すことでもありました。

(社会人として働いた後で神学校に入ったり修道生活に入ったりする人のケースはこれまでにも紹介してきたが、社会人としてのキャリアを全うしてリタイアしてから、その経験を批判的に見なおしてしかも学術的に研究する決心をする人もいるのだ。フランスにもリタイアしたら悠々自適、みたいな人は少なくない。そして、時間に余裕ができたことと、死生観を考えざるを得ない年になって、子供の頃に教会に行っていたことを思い出してシニア向け神学の聴講生になる、といった人も確かにいる。でも、ブノワ=ジョゼフ・ポンスさんのように、本格的にフィールドワークも必要な研究で論文を書きしかもそれが今の世界の先端にある課題への提言というケースには驚かされる。

どういう家庭で育ったのか、なぜ修道会と関係があったのか、修道院での黙想体験とかの愛好者だったのか、家族に修道者がいるのか、などと知りたい気がするが、今の時点ではそういう個人情報は分からない。)





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by mariastella | 2018-04-22 00:05 | フランス

修道経済 その1

今読み始めた本は非常にユニークで、すばらしいものだ。

私は、次に出す本の中で、神、金、革命の関係とイデオロギー化、偶像化について、近代以降の世界が抱え続けているジレンマの分析や問題提起をしているが、具体的な「解決策」については例を挙げていない。むしろ、失敗例を積み上げる中からあるべき形を示唆はしているが、今現在の「成功例」は、長いスパンでどうなるか分からないので書いていない。

そんな私の問いの一部に答えてくれる本が出た。

『修道経済』という、学術論文をベースにしたものだけれどわかりやすく説得力がある。

本はこういうもの。

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これについての著者インタビューの1010答の記事が分かりやすいので、これから10回に分けてそれを紹介していくことにする。

まず、本と著者について。


著者はブノワ=ジョゼフ・ポンスといって、フランスのエリートコースであるエンジニアのグランゼコールを出た後、食品ミクロ生物学の研究者として生産業に従事、その後で、薬学化学の企業トップになった。リタイアした後で、経済学と神学を学んで博士号を獲得。その博士論文がこの本のベースである。現在はリヨンのカトリック大学で教えている。


本の内容。

修道経済は代替経済の一つになり得るか? 

地球のエコシステムの中で人類が最も調和的に活動していくことを視野に入れて社会全体が緩慢に少しずつ豊かになるために可能なモデルの一つとして修道経済を考えることはできないだろうか?

この本は2つの調査に依拠する。

まず、現在の修道院の創設基盤となった夥しい文書の渉猟。

次に、フランスのベネディクト会とシトー会の修道士、修道女たち20人へのインタビュー。

このインタビューの中から、エコロジーの問題の特別な面が見えてきた。

インタビュー調査は、その後、4つの軸を立てて分析される。

財産、時間、空間、他者。

修道経済のふたつの特徴は、私有財産の放棄と必要経済だ。

この2つは、今の我々に労働の意味、報酬、為政(ガバナンス)について目を開かせてくれる。



と、これだけでは分からないので、次回から著者インタビューを少しずつ訳していく。


近刊の本でも、何度も、初期キリスト教徒の原始共産制と近代の共産主義を比較した。

いわゆる東西冷戦は「自由主義経済」が「社会主義経済」に勝利した形で終わったが、その後の歯止めのない新自由主義経済が深刻な環境破壊や貧困の増大につながったことは誰でも知っている。

修道経済は、もう一つの経済活動の可能性を示唆するものだ。


ちょうど、政治と倫理学に関するヒューマニズムの分野で、

リベラル資本主義と

マルクス主義、アナーキズムとの

中間にある3つ目の道としての

「ペルソナリズム」の模索と軌を一にする。


(ここでいうペルソナリズムとはエマニュエル・ムニエが提唱したもので、最重要価値は一人一人の人格の尊重にあるとした大陸ペルソナリズムであり、アメリカのパーソナル・イデアリズムとはまったく別のものなので要注意。)

(続く)




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by mariastella | 2018-04-21 00:05 | フランス

シリア爆撃とカンヌ映画祭

4/14 の 朝、シリアの毒ガス関連施設への米仏英軍の爆撃のニュースで起こされた。

日本のニュースではあいかわらずトランプが攻撃という印象で報道されているのでフランスの罪悪感が少し薄まる。
マクロンはトランプなしでも単独でやるつもりだったし、それを堂々とアサドにも言ってたし、フランスの世論も、それを批判するという感じではない。まあ今は国鉄ストや大学封鎖やらでそれどころではないという事情もあるのだろうけれど。

そんな中、なんだかホッとさせてくれるのが5月に始まるカンヌ映画祭のポスター。

戦争より愛を。

というわかりやすい、そしてフランスらしいメッセージ。
ベルモンドとアンナ・カリーナだと思うけれど、別々の車に乗る2人がキスして、しかもカリーナの腕がベルモンドを引き寄せている。
セクハラにまつわる「基準」で、「合意」は不十分であり、双方が「望んでいる」というのが必要だ、というのがあったが、それにも合致していて、コレクトであると同時に爽やかだなあと思った。

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by mariastella | 2018-04-18 00:05 | フランス

マイノリティがマイノリティを差別する

私はケルト、ラテン、ゲルマンが混在する白人がマジョリティのフランスで長年暮らしているので、フランスのマイノリティのあり方については当然関心がある。


フランスはユニヴァーサリズムが国是の国だから、公的な人種別統計も禁止されているし、いわゆる何々系フランス人という言葉も建前としてはない。


けれども、アラブ・アフリカ系の旧植民地との確執の歴史はあるから、いわゆるアラブ人やアフリカ人へのある種の偏見は残る。(特に昨今のイスラム過激派のテロリズムのせいでひどくなった)


でも、いわゆるアジア人に対しては、旧植民地の仏領インドシナ出身の人も、東アジア人に対しても、目立った偏見は感じない。共同体を作るいわゆる華僑などは確かに目立つけれど、特に、私の交友範囲であるアーティスト系やインテリ系のカテゴリーはもともと国籍も含めて多様性が高いので「差別」を意識することはない。

ビジネス界でも今は完全にグローバルな感じだ。

でも、例えば、政界などは、やはり圧倒的に「キリスト教文化圏の白人」が多いので、そんなところに、東アジア人の顔が見えると気になる。

近年、目立つ存在だったのは、フラール・ペランとジャン=ヴァンサン・プラセという、フランスの名前だけれど日本人の目からは「韓国系」と考えてしまう二人だ。


1973年生まれのフラール・ペルラン女史は、オランド大統領の社会党政権での文化とコミュニケーション担当大臣だった。生後数日でソウルの街角に捨てられていたのを養護施設に引き取られ、生後六ヶ月でフランス人原子核物理学者の家庭の養女となりフランスで育った。その後はいかにもフランスらしく問題なく高学歴と高キャリアを積むことができた

よくメディアに登場したが、若く美しい人だ。

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もう一人はジャン=ヴァンサン・プラセで、彼は民主党と緑の党合併のリーダーで、ペルランの少し後に改革担当国務大臣としてこれもメディア露出度が高かった。

彼もソウル出身で、ペルランより5歳上の1968年生まれ。7歳の時にフランス人弁護士夫妻の養子となってノルマンディで育ち、1992年にフリーメイスンのグラントリアン(大東社)に入会し、急進左派の政治活動を始めた。1999年に緑の党に転向、以後、地方議会や欧州議会の緑の党リーダーとなり、上院議員にも当選した。

ペルラン女史がすらりと美しいのに、彼の方は、年のわりにでっぷりとして政治家としての迫力や風格がない。日本で人気の韓流スターなどの爽やかさとは程遠い。

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同じ東アジア人としては、こういうメディア露出の多い人たちは外見も見栄えがいいといいのにと思ってしまう。何しろ東アジア系フランス人政治家はこの2人しかいないのだから、「外見」が気になってしまうのは人情だ。

おまけに、このプラセが、最近、大変なことになった。

45日の深夜2時に、酔っ払って人種差別発言をして暴力を振るい逮捕されたというのだ。

パリ六区のラ・ピシーヌというバーに議員と一緒に入り、若い娘たちに近づき、10 代の女性に、議員と踊るなら金をやると言った。女性は自分が娼婦だと思われているのかとショックを受け、バーのガードマン(おそらく黒人だったのだろう)が止めに入ると、「ここはマグレブ(アルジェリア、チュニジア、モロッコなど北アフリカのアラブ国)じゃないぞ、朝の便でウガドゥグー(これはいわゆるブラックアフリカの旧フランス植民地ブルキナファソの首都)に送還してやる」などと、 アラブ人も黒人もいっしょにした人種差別ヘイト発言をしたという。駆けつけた警官までも罵倒して、逮捕され二日間拘留されたという。

自分もいわゆるマジョリティの白人ではないのに共和国政策でエリートコースを進んで国務大臣にまでなった人が、こともあろうにレイシズムをむき出しにしたのだ。

極右政治家ではない。

マニュエル・ヴァルス(この人もフランスに帰化したスペイン人だが首相になった)内閣の一翼を担っていた人だ。

あまりにも自然に「普通のフランス人」になって権力の一端まで握ってしまうと、低劣な差別主義の本音を抱えるということなのだろうか。

フランスで、アラブ系やアフリカ系のテロリストの名や顔がメディアで出るたびに、似たような名や外見を持つ「フランス人」はさぞや居心地が悪いだろうといつも思っていた。

昔は日本赤軍というのがあったが、たとえば今のフランスで日本人がテロをしてその顔や名前がメディアにさらされるとどんなに気分が悪いだろうと想像する。


東アジア人の外見を持つフランス名の政治家が差別発言をしたと聞くだけで不愉快だ。

マイノリティは、マイノリティの矜持を持って生きてくれないと困る、という気持ちと、根強い人種差別の前にはフランスの共和国主義ユニヴァーサリズムが実は機能していないのではないかという懸念とが、交錯する。





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by mariastella | 2018-04-12 00:05 | フランス

ジャンヌ・ダルクと人種差別

今年もまた、58日は、15世紀から連綿と続くオルレアン解放記念祭がオルレアンで開かれる。百年戦争で、イギリス軍に包囲されていたオルレアンを、17歳の少女ジャンヌ・ダルクが白馬にのってフランス軍を引き連れて、「解放」した日だ。

毎年、オルレアンに住む若い娘がその年のジャンヌ・ダルクに扮して、ジャンヌの足跡をたどり、行進する。

今年は13人の候補者の中から、2/19に、新しいジャンヌが選ばれた。

候補の条件は、10年以上オルレアンに住む高校生で、カトリック(ジャンヌ・ダルクは神の声を聞いてフランスを救ったカトリックの聖女でもある)で、人道活動などに関わっていることだ。

ところが、この決定が、ツイッターで嵐を巻き起こして、大騒ぎになった。

今年のジャンヌに選ばれた少女、マティルド・エディ・ガマスーさんが、アフリカのベナン出身の父を持つ混血の少女だったからだ。

ベナンは1960年にフランスから独立した旧植民地でいわゆるブラックアフリカに属する。

ポーランドにもルーツがあるというから、父がすでにハーフだったのか、母親がポーランド人なのかは分からない。

日本人的な感覚ならすでに「フランス人っぽくない」認定をされそうだが、フランスはユニヴァーサルな共和国市民の国だ。フランスとは「フランス語」でもある。


それなのに、ひどい差別の中傷の種になった。

みかねたオルレアンの検察庁はすでに差別禁止法で訴追している。

ナショナリズムとジャンヌ・ダルクの関係は古いが、それについては次に書くことにして、ここではその可愛い高校生が、『ジャンヌ・ダルクとしてふさわしいか?』というインタビューに答えて「評価」されているビデオを紹介しよう。(問いと答えを書いておく。評価は緑と赤のジャンヌのシルエットで出される)

(これは差別とは関係がない。いじっているようなニュアンスはあるが、好意的なものだ)


Q どのくらいオルレアンに住んでいる?

A 15 年くらい。

Q 成績は?

A 平均15/20

Q 好きな科目は?

A 英語…と、フランス語

Q どんな活動している?

A 「昨日今日明日の聖ジャンヌの会」と「不可視の小道」「ヨーロッパのスカウトとガイド」

Q 毎週ミサに行く?

A もちろん、すごく大切。

Q 馬に乗れる?

A 全然。

Q ジャンヌ・ダルクを一言で定義すると?

A 勇気のある人

Q イギリス人をフランスから追い出したい?

A ? でももう彼らはフランスにいないから ...

Q 好きな小説は ?

A 三銃士

Q 好きな歌手は ?

A ダリダ

Q 新しい髪形に早くしたい ?(ジャンヌダルクの髪型)

A はい 

Q ワンピースと甲冑ならどちらを身に着けたい ?

A ワンピース

Q 剣を持ったことある ?

A いいえ

Q 将来何したい ?

A リセの後カトリック学院で文学と歴史の学位をもらって国際機関で働きたい

Q 今、混血のジャンヌ・ダルクは重要だと思う ?

A うーん、白人でも混血でも関係ない、大事なのはフランス人かどうか

Q ポーランド人の血も引いてるね、ジャンヌはポーランド語でこんにちはって言える ?

A (こんにちは)

(続く)


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by mariastella | 2018-04-07 00:05 | フランス

テロリストを赦すことができるか? その2

(これは前の記事の続きです)


2012年の311日、パラシュート部隊の下士官イマド・イブン・ズィアテンが、オートバイを売ろうとして、ある駐車場で買い手と待ち合わせをした。それがモアメッド・メラだった。メラはフランスの軍人、しかも、イスラム系でありながら、フランスの体制側で働く軍人を不信心者として殺害するターゲットにしていたからだ。自動撮影可能なカメラでその時の模様が記録された。


まずイマドが軍人であることを確認してから、銃を取り出して、「地面に伏せろ、本気だぞ」と脅した。イマドは従わず、「武器をすぐにしまえ、僕は伏せない。立ち去れ、僕はこのままでいる」と答えた。

メラは再び命令し、イマドは従わず、頭を撃たれて絶命した。

このイマドの最後の姿は、母親にとって強烈なメッセージだった。

息子は地面に伏せることを拒絶して立ったまま撃たれた。

メラは、3/15に、スクーターでやってきて、別の場所の兵舎の近くのATMを使おうとしていた2人の兵士を射殺し、さらに19日にユダヤ人学校を襲撃したのだった。

この連続テロの最初の犠牲者となったイマドの母親、ラティファ・イブン・ズィアテンの「その後」の活動が驚くべきものだった。

ラティファさんの活動はドキュメンタリー映画にもなっている。


この記事の最後に紹介を貼ります。


ラティファさんは、1960年にモロッコで生まれ、フランスの国鉄で働いているアメッド・イブン・ズィアテンが故郷に帰った時に出会い、互いにひとめぼれをして、結婚し、1977年に夫についてフランスにやってきた。4人の息子1人の娘を授かり、フランス語も学び、子供たちを教育し、車の免許をとり、小学校の給食係として就職するなどエネルギッシュに働いた。子供たちは学校の宿題の作文などに対して、フランス語が分からない母親が、「これはダメ、やり直し」などと言ってダメ出しばかりしたと思い出を語っている。その熱心さのおかげで子供たちはみなしかるべき学歴を得て職も得た。イマドは士官学校に行って軍人になった。ムスリムだがリベラルで、イスラム・スカーフもつけず、娘も息子たちと同じように教育した。勤務先の小学校で豚肉を食べないムスリムの子供たちを他の子供たちと分けようとした校長にかけあって、子供たちを同じテーブルにつかせたこともある。

イマドが殺された時には、ルーアンの美術館に勤務していたが、ノルマンディから駆けつけた時に、尋問ばかりされて遺体との対面が翌日に持ち越されるなど、差別的な待遇を受けている。

テロリストのメラが住んでいたトゥールーズのゲットー化している団地を訪れた時、少年たちのグループがテロリストのことを「彼は英雄でイスラムの殉教者だ」というのを聞いた。彼女が被害者の母だと知って少年たちは謝罪した。

このことから、ラティファさんは、自分が何をするべきかを確信した。1か月後に「若者と平和のためのイマド・イブン・ズィアテン協会」というNPOを立ち上げて、困難な暮らしにあるムスリムの子供たちや青年たちを助け、異宗教間対話を含めてフランスの政教分離や共和国精神について教える活動を始めた。

フランス全土の学校や刑務所を回って、自分の体験談と共に、共生することの大切さ、努力の大切さを説いて回った。ムスリムが差別されているなどと考えてはならない、人生の扉を開くのは自分自身の決意と努力であり、フランスはそれに応えてくれるのだ、と熱っぽく語り、子供たちと対話を重ねる。

この活動を始める時、夫に、全国を回るので家を留守にすることが多い、家庭を犠牲にすることになるがそれでもいいかと尋ねた。ラティファを愛し信頼し支援する夫はもちろん彼女を励ました。子供たちの思い出話によると、子供の勉強などに妥協のないのはラティファで、子供の世話や料理や家事はすべて父親が引き受けていたという。

フランスにいるムスリムの家庭といえば、家父長的で女性が従属しているような先入観があるが、ラティファの家庭では、一貫して夫のアメドがラティファを支えていたのだ。

今でも、インタビューを受けるアメドさんは、最初に出会った時と同じように妻に夢中で妻を全面的に信頼し尊重し、疲れを知らない妻の活動を尊敬さえしている。

スーパーウーマンの影には、彼女を無条件に愛し盤石に支える男がいるのだ。先日触れたおしどりマコケンさんのカップルもそうだった。

(こういうカップルを見ていると、一般に、夫が妻にメロメロな夫婦は、妻がそれで満足するので長続きする。妻が夫にメロメロな夫婦は夫はそれだけに満足しないので破綻する確率が多い。長く続く夫の愛は妻を自由にするが、長く続く妻の愛は夫をますます縛るか、縛ることができないので苦しむかに向かう例が多いような気がする。どちらも互いにメロメロというのがもちろん一番いいのだろうけれど恋愛感情のなくなったカップルの方が多いかもしれない)

ラティファさんの精力的な活動は有名になり、ムスリムの若者が過激化するのを防ぐ功績で大統領から勲章までもらい、ドキュメンタリー映画もできた。イスラム過激派のテロリストに息子を殺されたムスリムの女性という彼女の言葉には説得力があった。

ムスリムなのに子供を体制側の軍人にさせるのは裏切りではないかという囚人の問いには、「私たちが軍人、警察、公務員など、この国を守る側、この国のために奉仕する側にならなければ、私たちは永遠に取り締まられる側、外側に留まることになるんですよ。あなたたちこそ、この国の理想を体現する側に回らなくてはなりません」と答えた。

この母は、息子の殺害者メラを憎んだり弾劾したりしない。「移民の子弟」である自分の子供たちをフランスで必死に善き共和国市民に育てたように、本気で、すべての移民の子供たち、貧困や差別や社会的ハンディのために道を誤る可能性があるすべての若者たちを自立した自由で正しい市民に育てたいのだ。

ラティファさんが2016年末にカルカソンの刑務所の中で講演した時、路上で、カフェから走って出てきた一人の男に呼び止められた。彼女の顔はすでにメディアで広く知られている。男は、「イスラム・スカーフを喪に服するためにつけているなんて嘘をつくのはなぜだ」と聞かれたので「嘘ではない、怖くない。息子の死以来スカーフをつけている。」と答えると、「いつまでもこんなことを続けていると、今に見ているがいい」と脅された。男の眼はすでに尋常なものではなかった。ラティファさんは身の危険を感じた。


その男が、20183月、息子イマドが殺されてから6年経った時、カルカソンで憲兵を含む4人を殺害したテロリストとなった。それに気づいた時に、ラティファさんは思わず叫んだ。あの時、無理にでもあの男と対話していたら、ひとことが、一つの動作が、今回のテロリズムを思いとどまらせたかもしれない、男はまだ過激化の終点まで到達していなかったかもしれないと自問する。

男に殺されたベルトラム中佐と、6 年前にテロリストの命令に服せずに立ったまま殺された下士官の息子の姿がだぶるのだった。

ラティファさんの戦いは終わらない。

この6年の疲れを知らぬ活動で出会った子供たちや若者たちは実際に奨学金を得るなどの支援やアドバイスも受けている。その中には、彼女の熱意と涙を見なければひょっとして過激化した者もいたかもしれない。ラティファさんは結果的にメラを赦した。メラはラティファさんのような母を持てなかった。メラを赦すことと、メラも昔はそうであった子供たちに「母」のメッセージを伝えることは、一体だった。

もう戻ってこない加害者がいる。

もう戻ってこない被害者がいる。

被害者の家族がいる。

次の加害者と次の被害者を出さないため、彼らを救うために、戦う母親が、いる。





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by mariastella | 2018-04-06 00:05 | フランス

テロリストを赦すことができるか? --- 父の怒りと母の戦い

少し間があきましたが、これは前のこの記事の続きです。


2012年、3月、大統領選前のトゥールーズで、モアメッド・メラというイスラム過激派が、子供3人を含む7人を殺害するという事件が起こった。標的にされたのは軍人やユダヤ人学校の教師や生徒たちなどで、殺害の瞬間を記録公開するために撮影までするという残虐なものだった。

逃亡して閉じこもる犯人を追い詰めるまで、フランス中に衝撃を与えた事件だけれど、それが3年後のパリのシャルリー・エブド襲撃事件や組織的な無差別多発テロへのプロローグとなるとは、当時誰も想像していなかった。

このテロの犠牲になった人の家族のうちで、その後もメッセージを発信続けている一人の父と一人の母がいる。

父とは、メラに息子と孫2人を殺された男性だ。父でもあり祖父でもある。

息子はユダヤ人学校の教師で、孫はその学校の生徒だった。

2012319日、朝8 時、学校の前でメラが発砲し、3歳と6歳の 2人の幼い息子を守ろうとした30 歳のラビである教師ジョナタン・サンドレールも撃たれた。

ジョナタンは1982年ボルドーに生まれ、中学2年まではヴェルサイユ近郊の公立学校に通い、その後でトゥールーズのユダヤ人学校に通ってバカロレアを取得した後、イスラエルでラビ養成の学校に行った。フランスで結婚してからまたイスラエルに戻り、フランス人のラビ志願者を教える側になった。

2人の息子と1人の娘を得て、2011年にトゥールーズに戻って母校でユダヤ教についてのクラスを受け持つことになった。

ジョナタンの父のサミュエルは、事件から6年が経過した20183/21に『我々の子供のことを覚えているか?』という本を出したが、その中で、一度もテロリストであるメラの名を出していない。

3/11からの3度にわたるテロを経て21日に射殺されたテロリストの「モアメッド・メラ」という名は、当時のメディアでも連呼されたけれど、その後、テロのある度に何度も何度も繰り返されて、、いわば21世紀のフランスのテロのプロトタイプのようになった。

それなのに、犠牲者の名は忘れ去られる、もう誰も覚えていない、とサミュエルは言う。

名だけではない。テロリストのメラ(フランスとアルジェリア二重国籍)については、その生い立ちからテロに至るまでの一挙一投足、考え方の変化までその生涯の全てが紹介されるし、テロがある度に蒸し返される。

一方で、被害者の名は忘れ去られるし、どういう生き方をしたかという思い出も想起されないし、どういう生き方ができたかという思いもめぐらされない。ゼロだ。

遺族はただ、事件のことが想起される報道の度に苦しまなければならない。

だから、サミュエルは、本の中ではメラの名を書かないことで、人間性を付与するのを拒絶したという。

それだけではない。共犯だったメラの兄の裁判を膨張した時に、メラの母親が息子ににっこり微笑みかけたのを見た時に、許せないと思ったという。

メラの兄は2017年に20 年の懲役、もう一人の共犯は14年の懲役の判決が下っている。

メラの母は、メラが立てこもったアパルトマンで結局踏み込まれて(官憲2人に重傷を負わせた後だが)射殺されたことに対して、不当な攻撃だとして訴訟を起こしている。

このこともある意味ですごい。

この母親が、テロの共犯のもう一人の息子の公判も支え、頬笑みかけて励まし、息子への愛を表現しているのを目の当たりにしたサミュエルが、自分の息子と孫を不当に、永遠に奪われた身で、愕然とした気持ちも分かる。

加害者の母と被害者の父。

どちらも、あまりにも人間的なリアクションではある。

(サミュエルの名誉のためにいうと、彼は別に復讐を誓っているわけではなく、平和の中に生きることを望んでいる。けれども、テロリストの母の微笑みに抱いた「不当感」を隠すことはできないのだ)

しかし、それとはまったく対極の反応をしたもう一人の「被害者の母」が存在する。

彼女はモロッコ人でムスリム。フランス生まれの息子をフランスのために戦う軍人に育てた。

イスラム・スカーフを常に被っているのは、イスラムのためではなく、息子の喪に服するためであり、それまでは一度も髪を被ったことはなかった。(続く)



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by mariastella | 2018-04-05 00:05 | フランス

フランスのテロと英雄と「無戒」の時代

3/23にカルカソンヌの近くでモロッコ生まれのテロリストがISの名のもとに、車を奪い警官に発砲し、スーパーマーケットに押し入って客と従業員を射殺し、居合わせた人全員を人質にして立てこもった。そこに、憲兵隊の中佐アルノー・ベルトラムが丸腰で人質交換を申し出て、すべての人質が助かったけれど彼は喉を切られた致命傷でその夜に亡くなった。
中佐が通話中に開いておいた携帯電話で中の様子を知ることができた特別隊が中に入って犯人は射殺された。

日本のニュースでは警官とあったが、中佐は、士官学校をトップで卒業した軍人で、この犠牲的行為について彼を知る人のだれもが意外ではない、と証言するように、正義感や義務感の強い人だったそうだ。

で、フランス中が、中佐を英雄だと祀り上げている。
数年来のテロで今回初めて「犠牲者」だけではなく「英雄」が生まれたと。

その中で、極左政党の前議員が、ある環境問題の闘士であった友人がそれを排除する憲兵だか機動隊だかによって殺されたことを思い出していい気味だと思った、マクロンに投票する人間が一人減った、などという感じのツイッター発言をして、すぐに「テロ擁護」で訴追され、党からも除名された。
ある特定の人間が特定のシチュエーションで、武装した攻撃者から、自分を身代わりにして他の人を救った話なのに、政府側の人間だとか、マクロンに投票する側だとか、レッテル付けして安易に満足感を表明したのだから、この人を制裁するのは妥当だ。

もちろん、このテロリストと同じく、「イスラム過激派」やISシンパの人はいるはずで、そういう人たちは、中佐の死を神罰とみなし、射殺されたテロリストがジハードの殉教者だとみなしているかもしれない。まあ、そういうことをつぶやけばそれこそ政府のテロ監視網に引っかかっているだろうけれど。

こういう場合、中佐は、例えば武装して突入した銃撃戦で殺されていたとしても、殉職ではある。
でも、フランスで、こういう情況で殺された時は、「英雄」であり、「殉職」よりも「殉教」に近いニュアンスとなる。

ノルマンディの教会でミサの場でテロリストに殺されたアメル神父ももちろんその宗教的立場によって標的となったのだから「殉教者」だが、フランス語でmartyreというと、殉職も含めた広い意味になる。もとは信仰の「証しをする人」という意味だが、信条に殉じて苦難を被る人として使われ、恋愛に殉じて死んでも同じ言葉が使われる。
だから、このような死には当然、宗教的含意がある。

逆に、「英雄」という呼称も、カトリック教会の尊者、福者、聖人などの正式認定の時に条件として使われる言葉だ。
信仰を英雄的に生きたかどうかというのが照査される。
その時の「英雄的」というのはもちろんテロリストに素手で相対したというようなものではない。
日本語の英雄というのはいかにも雄々しい感じだけれど、蟻の町のマリアとして戦後に社会奉仕を続けた北原怜子さんも、「英雄的徳行」を認定されて「尊者」となっているように、英雄的かどうかは、ぶれない生き方にかかっている。

では、たとえば、唯一神を否認して不信心な生き方をしている罪人たちを殺して自爆したり殺されたりするという「犠牲」の精神をぶれずに持って、殉教者として天国に迎えられることを信じるテロリストも、「英雄的」なのだろうか。

この時の「犠牲」という言葉も、キリスト教文化圏では共通しているが、フランス語ではsacrificeでラテン語のsacrificium = sacer facere つまり、何かを「聖なるものにする」ということだ。もとは神への供儀で、どんな宗教にも共通した典礼の一種だ。

今回の中佐の行為は職業上の任務を超えて、自分で選択した「犠牲的行為」だった。けれども、それは彼がその職業、任務を選択した根っこの部分にある奉仕の精神の延長にある。

今回の英雄的「犠牲」と「殉難」のことを、アウシュヴィッツで、一人の脱走囚が出た見せしめとして10人の囚人が無作為に選ばれて餓死房に入れられた時に、妻子がいるから死にたくないといった男の代わりに身代わりを申し出て餓死刑(2週間後、まだ生存していた3人と共にフェノール注射で殺害された)で死んだフランシスコ会のコルベ神父と比較する人もいる。

中佐も、コルベ神父も、他の人の命が続くために自分の命を捧げた。

自分の命をsacrificeにしたことで、「いのち」を聖なるものにした。
だから、コルベ神父も、中佐も、被害者としての「犠牲者」ではなく、結果として「殺されはしなかった」。
これもとてもキリスト教的だ。

イエスは、ローマ兵が自分を逮捕しに来た日、周りにいた弟子たちに害が及ばないようにかばった。

>>>すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」(ヨハネによる福音書18,8)<<<。

その前にも弟子たちに命についてこう言っている。

>>>わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。(ヨハネ10,17-18)<<<

つまり、他の人の命を救う犠牲としての死は、命を奪われる死ではなく、いのちを与える死であり、「私を殺しても命を奪うことはできない」ことになる。

その考えでいくと、聖戦と称して他人を殺傷し自分が天国にいくつもりの「殉教」を目指すテロリストの「犠牲」は、殉教でも、英雄的行為でもない。

このことについて、神がモーセに与えたという十戒の「殺すなかれ」という戒律は、「あなたは他人の命を奪うことができない」という意味だとラファエル・エントヴェンが言っていた。

十戒にある戒律を人は守れない。
守れない戒律を神が与えるわけがない。
あの言葉は、命とは聖なるものであることを示しているのだ、という。

希望があるようで実は絶望的でもあるなあ、と思っていたら、禅宗のお坊さんのブログで「親鸞聖人における無戒の主張について」という記事を読んで愕然とした。

>>>曹洞宗では授戒を行うのに、浄土真宗では授戒をしないのは何故か?という問いをお寄せいただいた。そこで、拙僧なりに現在学んでいるところから、浄土真宗に於ける凡夫無戒について検討したい。なお、敢えて「浄土真宗」としたからには、親鸞聖人の一部の教説のみを挙げて、さも真実であるかのような論じ方をせず、同教団が歴史的に抱えた問題を探っていきたいと思う。<<<

という前置きで紹介される浄土真宗の聖典の中で引用される伝・最澄撰『末法灯明記』というテキストがある。

単純化して言うと、釈尊入滅後、時が経つにつれて、正法の時代、像法の時代、末法の時代と「劣化」して、戒律も、「破戒」の段階を経て、末法となると「無戒」の時代となるという話だ。そして、もう親鸞の頃は「末法」の世だと思われていたから、もう「戒」を授けたり授かったりする「持戒」の意味はない、だから妻帯しても魚を食しても「破戒」ですらない。浄土真宗には「戒名」なくて「法名」というのもそれが理由なのだ。

記事の分かりやすい部分を引用してみよう。

>>>仏教者として価値ある存在(無価というのは、世俗的な価値を超越した存在のこと)のことを指摘しているのだが、そこで、「いはゆる如来、縁覚・声聞および前三果、得定の凡夫、持戒・破戒・無戒名字」という順番を挙げているわけである。通常であれば、これは如来から始まって、最後「無戒名字(ただ、比丘という名前のみがある存在)」にまで落ちるのだが、これを、「正像末の時の無価の宝」という、時代的な評価を重ねることで、「初めの四つは正法時、次の三つは像法時、後の一つは末法時なり」として、「無戒名字」については末法の時代の「無価」として評価されるとしたのである。いわば、これこそが、末法における「無戒」への評価の根拠になる一節だといえる。それを受けて、親鸞聖人は、以下のように示される。

無戒名字の比丘なれど 
末法濁世の世となりて 
舎利弗・目連にひとしくて
供養恭敬をすすめしむ   
 「愚禿悲歎述懐」、『正像末浄土和讃』、『浄土真宗聖典』619頁

この一節だが、結局「無戒」であり、名ばかりの比丘ではあるが、末法の世となってしまえば、その存在こそが舎利弗や目連に等しい「無価」なのであり、供養し尊敬することが勧められる、という理解が出来ようか。<<<


数え方にはいろいろな解釈があるそうだが、もう何世紀も前から、人は「世も末だ」、「末法の世だ」と認識してきたわけだ。
そして末法の現実に合わせて「聖なるもの」や「完成」や「悟り」のハードルがなんとなく下がっていくというか、形が変わっていくというのは分からないでもない。

それにしても「無戒」の時代って…。

近頃は、ロシアでもエジプトでも中国でも事実上の「独裁者」が生まれるし、日本でも公文書改竄で民主主義の根幹が揺らいでいるし、アメリカの大統領は性的スキャンダルを騒がれているし、なんだか本当に「無戒」の末法的状況を思わせる。

そんな時代だからこそ、他人の命をつなぐために自分の命を捧げる「英雄」が今回のテロで生まれたことに多くの人が救いを感じているのかもしれない。

ドラッグや盗みなどの軽犯罪者が過激化シテテロリストに変貌する時には、「聖戦」の英雄になりたいという「英雄」志向があるとも言われる。

それを予防する意味でも、無戒の末法においても命を尊び続ける信念を捨てない「英雄」が称えられるのは悪いことではない。

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by mariastella | 2018-03-29 00:05 | フランス

パリのアパルトマン

3/22は、マクロン政権になってはじめての公務員ゼネストで、交通が混乱、バロックバレーのレッスンも翌日に変更になったのに、めったにない別の二つの約束が朝と夜にあったので、無理をして出かけた。
全く違う場所にある個人のアパルトマンで、初めて行く場所だったので好奇心はあったのが救いだった。

まず、5番線東の終点ポルトディタリー。
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春分を過ぎても肌寒い。
イタリー大通りに面したタワーマンションの24階。
有名な筆跡鑑定家の自宅兼事務所だ。
ある訴訟で日本人の漢字のサインを偽造した件で揉めている。日本人の目から見たら明らかに不自然な線。
一つひとつ、書き順も、楷書や草書も説明する。
とは言っても私は もちろん公的な鑑定の資格などないからただの非公式の助言だ。

実際は、習字を何年も習っていたことがあって、何か忘れたけれど段位みたいなものももらっていたし、何度も何かの賞をもらった。だからフランスのリセで頼まれて日本語を教えていた時も、筆ペンで必修漢字表を手作りしていた。今のようにいろんな書体などがネットで拾えるような時代ではなかったからだ。写経も時々する。

だから私の説明には信憑性があるのだからそれを強調してくれとも言われたけれど、今となっては、大昔に受けた賞だとか、証明するものなんてもちろんない。ただの自己申告だ。実際に筆を持てばなんでも書けるというだけのこと。

後で弁護士とカフェに入ったら、娘夫婦の危機など家庭の打ち明け話をされて驚いた。女性弁護士の夫君は医師で、娘の教育にも必死だったのに、幼なじみの獣医さんと結婚して専業主婦になった後で危機が訪れた。

夜は7区のセーブルバビロンヌのメトロ前にある古い建物。窓からボンマルシェ前のスクエアが見える。
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35年続く音楽愛好家メセナのプライヴェートコンサートで、こういう高級マンションだのオテルパルティキュリエ(1戸建のお屋敷)だのでカクテル付きのサロンを開いている。「今年もみんなでウィーンに行きましょう、ハプスブルク家と友達だから彼らのところに泊まって…」などと言っている。

その夜のサロンのアパルトマンの所有者は道楽でやっていた画廊を閉めて、気に入ったコレクションをたくさん残して飾っている。
ピアノはスタインウェイだった。
トリオはサンクトペテルブルクやモスクワの音楽院出身の若いピアニスト、チェリスト、ヴァイオリニストで、めずらしいロシアの曲をいろいろ聞かせてくれたが、19世紀ものはあまり食指が動かないし、ヴァイオリンの音質が悪く、聞き辛かった。

でも、その後、おもしろい出会いもあった。(続く)

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by mariastella | 2018-03-27 00:05 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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