L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:フランス( 270 )

Brexit、サッカーの欧州杯、砂漠の難民の死

イギリスのEU残存派の議員が50代のネオナチの男に殺されたことでBrexitに関するキャンペーンが一時停止された。

男は休日に芝を刈る礼儀正しい常識人として隣人に知られていたという。ネオナチにはよくあるタイプだ。

これが国民投票の結果に影響を与えるかどうか私には分からない。

けれども、世界中の大英帝国の旧植民地やら英連邦国からの移民をどんどん受け入れてヨーロッパで一番「クセノフォビア(外国人嫌い)」の弱い国だという評判の実態が、移民棲み分けの共同体主義社会であることの弊害が垣間見える。

ロンドン新市長がパキスタン系で話題になったが、人口の36.7%が外国生まれで、300以上の言語が話されている(2011年の国勢調査。ちなみに共同体主義をとらないフランスでは外国生まれとか何系とか宗教、言語別の公式統計は一切ない)というロンドンは、アメリカで言えばNYのように例外的な場所だ。

他の場所では、基本が日本と同じような「島国」なのだから、先住のアングロサクソン系などの白人が、「外からやって来る異分子」の共同体に対して警戒の目を向けているとしても不思議ではない。

今回のネオナチは、アメリカ発のグループだということも示唆的だ。

Brexitの背景には、表向きの移民天国によって、多くの難民がすでにイギリスにいる親戚を頼ってヨーロッパを経由して大量に押し寄せることへの潜在的恐怖がある。

今フランスではサッカーの欧州杯の最中で、悪名高いイギリスのフーリガンが酒を飲んでは暴れているが、彼らはもちろんラマダン中のムスリムでもないし、伝統的なイギリス人の風貌をした人たちばかりだ。

死者まで出した衝突の相手もロシアの極右サポーターだった。

サポータ-たちとナショナリズムと外国人排斥は今のヨーロッパで確実に連動している。

難民に関してフランス側でよく話題になるのは、イギリスのEU離脱が可決されたら、国境はイギリスのドーヴァー側になるということだ。

今のEU合意ではフランス側のカレーだ。フランスにはカレーから難民を外に出させない義務がある。

カレーには今や「ジャングル」と呼ばれる難民無法地帯が形成されている。

イギリスに渡ろうとする難民の群れをフランス側で食いとめなければいけない今の情況から解放されればフランスはほっとするだろう。フランスから「出る」だけなら阻止する理由がないからだ。

歴史的にフランスと良好な関係にあるスコットランドが今度こそ独立してEUに再加入するというシナリオも口にされる。

「ナショナリズム」的に言えば、イギリスの「離脱」はフランスにとっても都合がいいのだ。

一方、昨日、ニジェールの砂漠で、34人の難民の遺体が発見された。

同じ場所ではなく、ヨーロッパに向かうために歩いているうちに脱水症状で少しずつ脱落したもので、うち20人が子供だった。

ドイツがトルコと協定を結んで、難民がトルコ経由でヨーロッパに入るのがブロックされて以来、難民の多くが砂漠の陸路経由でヨーロッパに向かうようになった。

昨年9月に3歳のシリアの子供の遺体が海岸に打ち上げられた画像がヨーロッパ中に衝撃を与えて難民受け入れが加速されたこと、しかし大晦日のドイツでの難民らによる女性の襲撃を機に世論の流れはまた変わり、トルコとの協定に至ったことは記憶に新しい。

2014年以来、地中海を中心に1万人を超す難民が目的地に着くことなく命を落としている。

うち1500人は子供たちだという。

国境が閉じられても、多くの先発者が道半ばにして命を落としても、それであらたな難民たちが戦火や貧困から逃げるのをあきらめるわけではないことは明らかだ。

政治や宗教やイデオロギー間のネゴシエートやパワーゲームによる解決の模索とは別に、今、生命の危険に陥っている人々をとりあえず救出する以外の道はあるのだろうか。

今のヨーロッパの情況では、

「国境を閉めます」

と言うことは即、

「それによって多くの人が死ぬことについては無視します」

と言うことに等しいのだけれど、2番目のフレーズはどの国も敢えて口にしない。

「国境」の設定をカレーにするのかドーヴァーにするのか、
トルコ、ギリシャ、イタリアに留めるのか、
シェンゲン協定の自由通行地域でも鉄条網をはりめぐらせるのか、

欧州杯が煽っているナショナリズムの空気には、実はいろいろなことが反映して渦巻いている。
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by mariastella | 2016-06-17 18:54 | フランス

ラマダン中の見ず知らずの人とおしゃべりした話

ラマダンが始まって一週間。

今まで、うちで工事している人がラマダン中で昼休みに何も食べずに横になっているとかいうのには遭遇したことがあるけれど、ラマダン中のムスリムの人と、ラマダンそのものについてはじめて話をした。

もともと周りにムスリムの知り合いがほとんどなく、ラマダンを実行している知り合いはゼロだった。

ラマダン中の昼間はレストランもすいているような気がするし、朝市で鶏のローストを売っている親子もラマダン期間は朝市に来ない。

歯医者の待合室で飛び入りした男の人。

40歳くらい?

予約していないが歯医者の知り合いで緊急に入れてもらったという。

彼が私の横に座ったすぐ後、私はなぜか咳き込んだ。

するとその人が「大丈夫か」みたいな声をかけてきた。

「はあ、だいじょうぶです」

「煙草を吸うのか?」

「(えっ、何で咳しただけで即喫煙者認定なの?)いや、吸いません。」

「そうか、私も吸わない、酒も飲まない。ラマダンだし。」

「あ、ラマダンが終わったら喫煙OKなんですか?」

「いや、ラマダンでなくても酒も煙草もやらない。」

「あ、そうですか。でも今は日が長くて(夜十時ごろまで陽が落ちない)大変ですね。」

「いやこれは慣れの問題だから」

「でも、もともとアラビアあたりを想定した習慣なのだから、フランスみたいな緯度のところで夏至に当ると体に悪いのでは?」

「いやフランスの方が過ごしやすい」

「もっと北、スエーデンとかに行って白夜で太陽が沈まなかったらどうするんですか」

「私はスエーデンにも行ったことがある。でも、ラマダンではなかった。寒かった。でも、地中海に面した地域でのラマダンは、断食時間の長さより暑さがつらかった」

「脱水症状になったらどうするんですか。お年寄りが熱中症になったら? 信仰のために健康を失ったら大変ですよね」

「いや、それは自分で判断して、どうしても飲食を必要とする時には、自分が飲食した分を同じだけ貧しい人に施せばいい。病気の人、旅行中の人もそうする。」

「なるほど。一番の目的は何でしょう。共同体のアイデンティティ?」

「それは自分を浄めるためだ、預言者(ムハンマド)の意図はそうだった」

などなど、終始にこにこと答えてくれたのでその後もだんだんと素朴な疑問を繰り出して答えてもらった。

そのうち私が診察室に呼ばれて中断。

何でもそうだけれど、「当事者」と親しく話したら、全員に対する見方が少し変わってくる。

こういう時、私が「金髪碧眼」の外見でなくて得してるなあと思う。
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by mariastella | 2016-06-13 23:49 | フランス

昨日の補足。 カリタス、ベンゼマ、ISと疲れ。

まず、昨日の補足。

フランス人が天災の前で「連帯=固体化」する様子はたとえばどう言うものかという質問を受けたのだけれど、Secours populaire(スクール・ポピュレール)という民間のボランティア救助団体の拠点が1200もあって、それらがあっという間に活性化したことなどがそのいい例だろう。

フランスには、他の福祉施設やシステムもそうだけれど、近代以前にカトリック教会や修道会が受け持っていたものを、フランス革命後にすべて「共和国」がコピー、継承したものが多い。病院、学校、養護施設などもそうだ。

日本では「カリタスジャパン」と呼ばれるカトリックの国際NGOであるSecours catholique(スクール・カトリック)も並行してよく機能していて、そのSecours populaire はその「共和国版」でネーミングも似ている。フランスでは赤十字とカリタスに次ぐ規模だ。

ともかく増水は峠を越し、水害にあった多くの人はこれからが大変だ。

河の水があふれたので魚も入ってきた、生臭い匂いもする、という被災者のコメントをきいて、私の母から何度も聞かされた神戸の大洪水のことを思い出した。
その洪水は確か『細雪』にも言及されていたと思う。
母の印象はとにかく糞尿の臭さだった。
その頃の日本は都会でも下水が発達していなくて汲み取り式のトイレであり、洪水、浸水は、そこから糞尿が流れ出すことでもあったのだ。その方が水自体よりトラウマとして残ったらしい。

フランスで毎年繰り返される洪水のニュースではそんな話は聞かないから、洪水の恐ろしさは変わらなくても、被害の質が変わっていく部分もあるのだろう。

天気が回復に向かっても、フランスを取り巻く空気はネガティヴだ。

サッカーのユーロ杯が6/10に始まるが、ラマダンが6/6に始まるので、ぴりぴりした気配もある。

ムスリムの選手がどういう風にやりくりするかという話題もあるし、この期間、しかも日没が遅いので、断食は苦しく、周囲の理解を得られないでアグレッシヴになる人も毎年出てくる。ラマダンの期間に殉教するとより徳が積める、と煽るテロリストがいるのも怖い。

また、セックス・テープ事件でスキャンダルを起こしたスター選手のベンゼマがユーロ杯の代表チームから外されたことで、監督のデシャンの名前がフランス的で差別主義者だなどとエリック・カントナ(過去のスター選手で俳優に転身)が馬鹿なことを言い出した。

デシャン(日本でいうと山田さん、的な名前)のようなフランス的な名なら一族同士で結婚しているのだろう、モルモン教と同じだ、

という、突っ込みどころが多すぎる差別発言だ。

実際は、今回のチームは若手が中心だが、今までと同様、人種だの民族だのしっかり混ざっている。
カントナが言うような「フランス的」な選手は少数派だ。

デシャンと同時代のジダンのようなワールドカップ優勝経験のあるスター選手は完全に「共和国化」している。

あれほどの富と名声と国民的人気を得た人なら当然期待される一定の社会的責任を果たしている。

しかしその次のベンゼマの世代は、同じように「移民の子弟」のスタートから、その天才によってスターとなり富と名声を得たのに、それを「社会に還元する」意識よりを持たなかった。

「昔の仲間」を裏切らずに忠実につるんで悪事の便宜を図る、という方が人間として立派だという錯覚をする選手が出てきた、とある解説者が言っていた。

そういう選手を天才だからというだけで何をしても受け入れるのではなく、モラルを要求して妥協しないという時代に今は入っているので、ベンゼマよりさらに若い世代は、むしろジダン型のモラルを持つ人が残る、というのだ。

私はサッカーに基本的に興味がないのだけれど前に二度ベンゼマについて書いたことがあるので、「そうか、長い目で見ると、またいい方に向かうのかなあ」と思いながら聞いていた。

もう一つ、いいニュースかどうかは分からないけれど、2月に、シリア人の若者がパリの18区の警察にやってきて、ドイツでのテロ情報を与えたという話がある。

警察はすぐに信用したわけではないが、結局その男の言ったとおりに、デュッセルドルフでテロ準備中のシリア人二人の逮捕に至ったというのだ。
自分もその計画に詳しくコミットしていたらしい。ISに捕えられている司祭の情報も提供したという。

なぜ警察に協力する気になったかというと、

「疲れた」

からだそうだ。

このすごく普通の感じに驚かされる。
ISで洗脳されていたのかどうか知らないけれど、ジハードと称するテロを周到に準備し、リスクもおかした。
でも、それが結局は自爆することや射殺されることに終わるということにふと気づいた時に、逃亡して仲間に殺されるよりも警察に駆け込んでIS掃討に協力するという選択をしたのだろうか。

ISの中にはひょっとして多くの「疲れた」若者がいるかもしれない。

「疲れ」の自覚というのはサヴァイヴァルに必要な大切なもので、無我夢中で頑張っていた時には絶対見えなかったものが疲れた時にぼんやり見えてくるというのは、ある、と思う。
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by mariastella | 2016-06-05 02:58 | フランス

今度は水害

日本にいる複数の方からパリの水害のことでメールをいただいたので、ご報告。

心配してくださった方もいて、ありがとうございます。
最近ずっと、労働法改正の反対運動でガソリンはなくなる、鉄道や空路もストで遅れや取り消しが出ているフランスだが、その上テニスに興味のない私ですら全仏オープンの参加者や観客のことを気の毒に思うほど、はじめからずっと悪天候が続いていた。

長雨のせいであちこちで洪水、浸水が起こり、一部の高速道路やメトロまで止まってしまった。
ルーブルやオルセー美術館は地下の美術品を上の階に避難させるために休館した。

寒くて、湿っていて、楽器は全部調子が狂うのでしょっちゅう調弦しなくてはならない。

個人的には、やはり地下室の水はけに気を付ける以外、近くに川もなく、うちに引きこもっているので実害はない。
パリ市内や周辺の道路の閉鎖や大渋滞のせいで、車で来る仲間が火曜と金曜、二日とも音楽院にたどりつけなかったので、練習をキャンセルしたことくらいだ。

それでも、ニュースを聞いていて、つい数日前までは労働法と組合活動家と警察の衝突や、暴力沙汰や、人々の声援やら批判やらばかり流れていたのが、「洪水」となるとトーンが180度変わって「連帯」風になったのは興味深い。

人間のつくったシステムの中での齟齬や対立では意見が分かれるが、「誰が悪い」と敵を特定できない「天災」の場合は、みんな団結してしまう。

しかも、実は、地球温暖化のせいかもしれないけれどここ数年、洪水のない年はないくらいで、その度に同じような悲惨な画面や被災者の姿がニュースになっている。「連帯」トーンも含めて毎年「既視感」がある。

それなのに、いざそれが「パリ」となると、ますます「当事者風連帯」になってきた。

テロの時と似ている。イラクやシリアやモロッコはもちろん、フランスの地方都市でのテロの報道と比べてもパリのテロの報道は全然違った。

テロの場合も突然よそから叩かれたという不条理感が「天災」に近い感情を引き起こしたのかもしれない。

ルーブルでは最近、洪水を想定した美術品避難訓練をしたばかりだそうで、それに参加した職員たちが今回もボランティアで手伝ったというところが、危機管理は機能しているんだなあと寒心した。

前の歴史的なパリの洪水は1910年のことで、それ以来、パリを水害から守るためにセーヌにそそぐ支流4ヶ所に貯水可能な人口湖を造ったことや、前は冬で雪解け水もあり樹木が枯れていたけれど今回は樹木がかなり水を吸収してくれることなどで、ずっと被害は少なくなるという。 

東京のように「地震と火災」の危機管理に比べると、怖さの質は違うかもしれない。

でも、先ほど「連帯」と書いたけれど、これはフランス語の「ソリダリテsolidalité」を訳したものだが、考えるとかなりニュアンスは違う。

冷戦終結に大きな役割を果たしたポーランドの労働運動の「ソリダノスク」も同じ語源でやはり「連帯」と訳されていた。

でもソリダリテの語源はラテン語のsolidus「固い」で、液体、気体、固体の「固体」も「ソリッドsolide」という。

この言葉は「フランス風の連帯」にぴったりだ。つまり、普段は分子がばらばらの気体だったり、時にはポピュリズムなど勝手な方向に流される液体だったりするフランス人が、「天災」とか「テロ」みたいな彼らにとって普遍的な敵、つまり一方的に自然権を侵してくる敵のようなものが来ると、それが触媒になってたちまち「固体」になってしまう。

その状態がソリダリテだけれど、それは可逆的で、時が経つとまた液体になって形を変えてあちこちに流れたり、気体になって自由に拡散したりする。

それに比べて、これは東日本大震災の後の「絆」でも言われたけれど、「連帯」の「帯」も、「絆」も、なんだか、「縛り」を連想させる言葉だ。

「強い絆」もなんだか離れられない拘束感がないでもないし、「かたい」のも「結束が固い」と、やはり「縛り」のイメージだ。

だから「自由になる」のも、「そのような縛りから解かれる」というイメージがつきまとう。

それに比べるとフランス人の「連帯」は縛られるのではなく、

「あれ、なんだかいつの間にかあいつら一体になってるし‥」

という感じで固体になっていたのが、でもやがて一部が液化したり気化したりしてもとの自由な分子ちゃんに戻っていくとでも言えるだろうか。

毎日毎日、スト、デモ、暴動、交通麻痺の町に雨が降り続き、あげくは水没した道路や浸水した町の映像が、いつのまにやら労働争議を上書きしてしまって、「連帯」しているフランス人を見て、そんなことを考えた。
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by mariastella | 2016-06-04 04:03 | フランス

フランス人って‥‥

一週間ほど前のことだ。

うちの近くのわりと高級な花屋さんの話。

ご主人はカンボジア系だが、すっかりフランス人。

近頃のフランスは新しい労働法に反対するデモやストが続いていて、労働組合のCGTが製油工場やタンカーの給油をブロックしてガソリンスタンドが閉鎖するところも増え、かなりの麻痺正体が続いている。花の仕入れや配達に車を使う花屋さんも困っているのだろう。

製油工場の前にタイヤを積み上げて火を放っている映像がアングロ・サクソン国のメディアで何度も流されるので、10年前の「暴動」報道と同じで、「フランスは炎上している」というテロップまで流れている。

その上、去年のテロ以来の「非常事態宣言」も解かれていないから、パリに来る観光客も激減したという。

それでも町には、フランス人らしく、組合活動や労働運動に理解を示して忍耐強くやりくりしている人が多い。

でも実際のデモに加わる一般人は、私企業の勤め人よりも今回の「改革」と直接関係のない公務員や年金生活者が多いというのだからおもしろい。

で、直接商売に打撃を受けている花屋さんが、私が日本人だということを知っているからかもしれないけれど、猛烈にフランスの悪口を言い始めた。

こんなことではフランスの国際的なイメージが低下するばかりだ、ひどい国だ、恥ずかしい、自分で自分の首を絞めている、働かないばかりか他の人の仕事を妨害する、最低だ、もう終わりだ、と延々と熱心にフランスをこき下ろす。

まあ、悲観的、自虐的に自国をこき下ろすというのもある意味でとてもフランス的なので、私は苦笑して適当に相槌を打ちながら花を選んでいた。

ピンクの美しいボタンの切り花を購入することにする。

花屋さん、にっこり笑って、

「これはいい花です、フランス産だ、長持ちする。オランダ産のものは見た目はいいがすぐにだめになる。フランスの花は丈夫で全然違う。」

と言った。

私は思わず、

「じゃあ、フランスはすべてが最低ってわけじゃないんですね」

と言ってしまった。

フランス産の花の品質によほど満足と自信を持っているらしい花屋さんは笑みを消さなかった。

国産の商品に誇りが持てる国のようで、とりあえずは、なんとなくほっとした。
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by mariastella | 2016-06-03 00:25 | フランス

エマニュエル・マクロンの顔

どうでもいい話をひとつ。

フランスでは4/5からTV放送がすべてハイ・ビジョンに切り代わった。

4/10の公営放送のニュースで経済・産業大臣のエマニュエル・マクロンが出ていて、ハイ・ビジョンで大写しになっているのを見て軽く衝撃を受けた。

マクロンは風刺ギャグの人形劇ギニョールで大統領と首相にあやされる背広をきた「あかんぼう」の姿で登場したように、36歳で抜擢されて政界入りした若いエリートでまだ38歳。

見た目は神経質そうな感じだとは思っていたが、ハイ・ビジョン大写しの画像の肌の美しさには驚いた。
あかんぼうとはいかないが、小学生くらいに見える。

(画像を検索するとそれなりにシワが見えるものもあるからハイ・ビジョン用にメイクしているのかもしれないが、それにしてもつるんときれいだった。

マクロンと言えば、高校生の時のフランス語教師と恋に落ちたことでも有名だ。

相手は当時3人の子持ちの既婚女性で、20歳年上とも24歳上という説もある。

地方都市でスキャンダルになり、離婚して、マクロンの高校卒業と共にパリに出て、 2007年に結婚した。前夫との子供には孫もいる。


うーん、それでなくとも親子ほど年の違う女性と結婚して、落ちついた感じなら分かるけれど同年輩の男性よりずっと若い外見とは・・・。

しぶいわけでも甘いわけでもなく、どちらかというと冷たい感じの優等生的な綺麗な顔で、香水のモデルみたいな個性のないきれいな顔。

例えば俳優だとしてもアクがなさすぎて役をもらえないという感じだ。

「政治家の外見」としてマイナスになってもプラスではない。

女性でなくてよかったと思うくらいだ。
これが同じ年の女性でこれほどの「きれいな顔」だったら、別の形で揶揄されそうだ。

信頼感をそそるとか自信に満ちているとか成熟しているとか行動力がありそうとかという感じには見えない。

でもやっていることはアグレッシヴで常に話題の中心にいて、大統領や首相よりも目立つことさえある。

インタビューでもいつかは大統領になりますか、と問われていたが、そして今はそんなことを考える時期ではないと答えていたが、こんな顔の大統領ってなんだかイメージがわかない。

不思議なキャラだ。

今までユニークな政治家という目では見ていたけれど、今はほんとうに、ギニョールで揶揄された外見とのギャップに感心する。
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by mariastella | 2016-04-12 21:23 | フランス

パリのテロとヘミングウェイの『移動祝祭日』

11月のパリ同時多発テロから、4ヶ月、ベルギーに逃げていた実行犯の一人がようやく逮捕された。なかなか見つからないので、シリアのISに戻ったのでは、などとも言われていたけれど、結局、当初から見当づけられていた地区に潜伏していた。自爆用のベルトを捨てて逃走していたので、シリアに戻っても制裁されるんではないかと思っていたが、昔からの仲間に匿われていたようだ。

そのニュースのおかげで、この 4ヵ月で変化したこと、があちらこちらで語られている。

その一つに、パリのカフェやコンサートホールがねらわれたことに対するレジスタンスがあり、冬の間もパリの下町のカフェのテラスには人がたくさんいた。

で、そのレジスタンスの一環なのか、テロ以来、よく売れた本の一つがヘミングウェイの『移動祝祭日』なのだそうだ。

そのニュースであらためて、このヘミングウェイの本のフランス語のタイトルが

『Paris est une fête』だということを思い出した。直訳すると「パリはひとつの祝祭である」と文章になる。

私がはじめてこの本を読んだのは1965年版の三笠書房のヘミングウェイ全集の第八巻だ。

当時の日本は、祝祭日はすべて固定していたから、「移動祝祭日」という言葉自体が新鮮だった。

春分後の最初の満月の後の日曜日が復活祭で、そこから数えてイエスの昇天祭や聖霊降臨祭が決まるので毎年変わるというキリスト教のカレンダーとは縁のない生活だった。

それでも、

「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、パリはきみについてまわる。なぜならパリは移動祝祭日だからだ」

という巻頭の言葉は、印象的だった。

この言葉は、この本を読んだ10年後にパリに発った私に「ついてまわった」といっていい。

で、英語の原題は A Moveable Feast で、確かに移動祝祭日なのだけれど、毎年日にちの代わる祝日というより、「きみについてまわる」祝日というわけで、そのフランス語訳が、端的に「パリはいつもお祭り」、祝祭都市パリ」のようなものだったわけだ。

で、去年の11月、外国人もたくさん含む若者たちや人々ががカフェのテラスで飲み食いしたり、ロックのコンサートに行ったり、サッカーを観戦したりするパリの自由な雰囲気をテロリストに破壊されたことに対する抵抗、何があっても、パリで楽しむことをやめないぞ、という決意をした人々の頭に、ヘミングウェイのこの作品が浮かんだらしい。あるいは「パリはお祭りだ」とネットで検索してはじめてこの作品を発見した人もいるのだろう。

冬のパリでもカフェは店の外側に火鉢を置いていてテラスで暖をとることができた、とヘミングウェイは書いている。

もうすぐ、春になる。

復活祭も、すぐ、そこだ。
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by mariastella | 2016-03-19 23:42 | フランス

フランスと爆撃

第二次大戦でフランスがドイツに占領された後、「連合国」に爆撃され続けたことはみな知っている。

ドイツ軍の基地などはもちろん、海岸線や鉄道の集配所のあるところで、連合軍の空爆によって家族に死傷者を出した人を身近にもたくさん知っている。

誤爆もしょっちゅうだったが、ほとんど絨毯爆撃のように一夜で町が全滅したケースもあるし、その再建で財を築いた人も知っている。

私の住んでいる町はドイツとパリが直結する鉄道の要地だったので、爆撃作戦にはっきり名前が挙げられている。住んでいる2軒長屋は1880年築のもので、焼け残った運の強い建物だ。今でも駅の周辺で不発弾が見つかる。

英米軍による爆撃は、第一の目的が味方に犠牲を出さないことなので、高度を下げず、爆弾投下の精度は極めて低く、誤爆が日常的だった。

実際、最後は、日々進化する爆撃機や爆弾を「試す」ために積極的に必要以上の攻撃を繰り返したらしい。

ドイツ軍の軍事施設はすべて外れて、子供を含む何千人もの一般人が一夜にして犠牲になったケースもある。。

最終的に6万人以上のフランス人が死んだ。

イギリスに潜伏していた「自由フランス」のパイロットが志願して6機で出撃した時は、2機が撃墜されたけれど誤爆はせず爆撃の目的を果たしたという。当然だけれどフランス人は同胞を危険に陥らせないために低空飛行して犠牲を厭わなかったのだ。

イギリスのパイロットが不時着すると、フランス国内のレジスタンス・メンバーが救って、普通の服を着せてドイツ兵の前で何食わぬ顔をして、エッフェル塔の観光に案内している動画ものこっている。

そんな事情を映す「連合国空襲下のフランス」というドキュメンタリー番組を見ていると胸が悪くなる。

ドイツから解放してあげます、と気前よく落とされる爆弾。

サダム・フセインから解放してあげます、カダフィから、アサドから解放してあげます、民主主義と平和をあげます、と言ってアメリカやらフランスやらが空爆している図と基本は変わらない。

第二次大戦の頃より空爆の精度は上がったかもしれないけれど、

「誤爆しても誤差のうち、大義の前にはまあいいや」

という心の持ちようは変わらない。

フランスはそれでも、英米系の空爆に懲りた経験のせいか今でも慎重ではある。

フランスがシリアを空爆したからISがパリに報復テロ、なんていうのはただのレトリックだ。

こういうデータもある。

それだけではない。

アメリカでは、ヨーロッパなんて対岸の火事だから、フランスの戦場に向かう兵士のモティヴェーションが上がらないというので、連邦政府が何を言ったかというと、

「フランス女は軽く、色気がある」と刷り込んだという(これは別のドキュメンタリー)。

これでは、若者をシリアに誘うISが、「うちに来たら性奴隷の女性がよりどりみどり」と言ってジハードに参戦させるのと変わらない。

で、実際、ドイツ撤退後に米軍が進駐したフランスの町には娼婦もあふれたし、レイプも多かった。

それが告発された時には米軍はみな「黒人兵」のせいにして処分したという。「二級アメリカ人」がいるのは便利だった。

だから、「フランスをドイツから解放した」といって米軍が意気揚々と乗り込んできた時に、空爆で廃墟になった路傍で歓迎したフランス人たちの心は複雑だった。

女性を守る代わりに、ドイツ兵と関係したことのある女性を自分たちでよってたかってリンチしたこともそのような歪んだ心理の表れだったのかもしれない。

それでも、第二次大戦の終結におけるこのフランスの黒歴史が、早くからドイツとの和解を進めて「ヨーロッパ」を再建す決心に結びついたのは間違いがない。「連合国の爆撃によって廃墟になった町を抱える」同じルサンチマンも底に流れていたかもしれない。

フランスが今でも英米と一線を画するやり方や、誇りと自虐の共存もその辺に起因する。

もちろんそこに至るまでに、ヨーロッパが中世以来すでにあらゆる「傭兵」たちを駆使した勢力争いや領土争いをくぐり抜けてきた経験資産みたいなものもある。

基本が島国である日本とは事情が違う。

それにしても、今の時代なら、テロはもちろんちょっとした災害でも事故でも、すぐに被害者や被害者の家族らのためにトラウマをケアする心理学者らのチームが送られる。

占領下とはいえ「一応普通に暮らしていた」庶民が、

「いよいよ連合国が上陸して解放されるんだって」

と心を躍らせる間もなく、「解放者」から集中的な爆撃を受けて家も財産も隣人や家族も失った状態で、さあ、喜べ、解放だ、自由フランスは戦勝国で連合国の仲間だし、と言われても、そのトラウマを解消するすべなどなかっただろう。

生き延びるための本能に導かれてみんなが必死に再建に向かうしか選択がなかったのだろうけれど、その陰で犠牲になった人や力尽きた人も数知れないことだろう。

日本とフランスの相性がいいのは、アメリカに対するジレンマを抱えていたり、自国の非戦闘員に多大な被害を与えた攻撃者を糾弾、非難することができなかったという不全感が共通しているからかもしれない。

前から感じてはいたことだけれど、数年前から第二次大戦末期から直後にかけての事情のタブーが消えていろいろな資料が公開されるようになったのであらためて考えさせられる。

そして一応「戦勝国」側のフランスでさえこうなのだから、もっと複雑なトラウマを抱える日本が、過去に侵略した国々や占領されていたアメリカと「健全な関係」を結ぶのが困難なのも不思議ではない。

でもそのひずみを次の世代に伝えていかないためにどうするかが、大人全部の課題なのだろう。

「勝利する」と驕りへの誘惑があり、「敗北する」と学びへのチャンスがある。
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by mariastella | 2016-03-07 00:10 | フランス

Fawzia Zouari ファウズィア・ズアリの論考

2/29のリベラシオン紙でチュニジア出身の女性作家が書いている記事は、フランスやヨーロッパでのイスラムの問題についてこれまでで一番共感でき、納得できるものだった。

ずっと無料で読めるものかどうかわからないので最後にコピーしておく。

澤藤統一郎さんのブログにさえ、今回のル・モンド紙の声明のような誤解があったので、いつか書きたいと思っていたことを代弁してくれた。。

イスラモフォビーと、現在高まっているイスラム・ピューリタニズムが抱える問題を混同してはいけない。

フランスのライシテ監査は難しい。

「信教の自由」の名のもとに共同体主義で共同体内弱者の差別がまかりとおることは、共和国主義としては見逃せないことだ。

公正を期する気遣いから宗教をひとまとめにしていろいろな法令を作るのにそもそも無理がある。

下手すると共和国の政党よりもずっと共和国主義っぽいフランスのカトリック教会が時々悲鳴を上げるが、それは坑道のカナリヤみたいなもので、傾聴に値する。

日本にいる普通の無宗教的日本人から見ると、キリスト教文化のヨーロッパが非キリスト教のイスラムの文化を差別していると見えるかもしれない事象は、実はまったく別の意味を持っている。

これについてはずっと考えてきたことなので、とてもブログて解説できるような問題ではないけれど、フランスのライシテを研究するフランス語読みの人のためにコピーしておきます。

私が何を言っているのか分からないという方はスルーしてください。

La romancière franco-tunisienne Fawzia Zouari prend la défense de l’écrivain algérien Kamel Daoud, et appelle de ses vœux un nouveau discours à gauche affranchi de la peur de l’accusation d’islamophobie. Un discours qui conçoit le fait que les musulmans, comme les chrétiens, puissent aimer ou ne pas aimer leur monde, adhérer ou non à leur religion.
•Au nom de Kamel Daoud
Kamel Daoud a décidé d’abandonner le journalisme suite à une tribune signée par un collectif d’intellectuels dans le Monde lui reprochant son «culturalisme», ses «clichés orientalistes», son «essentialisme», pour ne pas dire son islamophobie ; soit, à quelque détail près, les mêmes accusations qui lui ont valu d’être menacé de mort par les barbus de son pays. Voilà comment on se fait les alliés des islamistes sous couvert de philosopher… Voilà comment on réduit au silence l’une des voix dont le monde musulman a le plus besoin.
Et quel est le motif de ce tir groupé qui a ciblé l’écrivain et journaliste algérien ? Kamel Daoud a eu le tort de pointer sans détours les travers des siens. Plus précisément, il a expliqué que les harcèlements sexuels perpétrés à Cologne par des personnes d’origine arabo-musulmane découlent d’une tradition qui n’a eu de cesse de contrôler la sexualité et de condamner à la frustration ses jeunes. Branle-bas dans les rangs des bien-pensants et avocats d’office des musulmans ! Et pourtant, qui douterait des affirmations de Daoud ? Qui, des signataires du Monde, pourrait démentir que la plupart des sociétés arabes vivent dans un puritanisme outrancier et une grande misère sexuelle ? Les femmes y sont obligées d’arriver vierges au mariage, et les garçons célibataires sont rendus fous par la frustration. La loi religieuse, appuyée souvent par la loi civile, ne permet pas à un homme ni à une femme d’avoir une relation physique avant le mariage. Encore faut-il que celui-ci soit possible en ces temps de crise et de chômage… Ce sont là des réalités concrètes, et non des idées. Et ce n’est pas mentir ni insulter que de dire, oui, le musulman réfléchit souvent de la même façon et agit avec le même réflexe. Oui, le concept de oumma recouvre l’adhésion à des certitudes dogmatiques aujourd’hui plus que jamais attestées sous le voile et le qamis. Oui, il y a une psychologie de la foule arabe. Oui, les femmes sont perçues chez nous comme des corps à cacher. Oui, il y a, dans nos sociétés, un rapport pathologique à la sexualité induit par la morale religieuse. Oui, il y a une forme de racisme qui considère qu’on peut violer une juive ou une chrétienne parce qu’elle vaut moins qu’une musulmane. Oui, les intégristes sont dans la culture de la mort. Oui, les réfugiés en Europe doivent recevoir une éducation à l’égalité des sexes. Oui, il faut leur mettre un traité de laïcité dans la main. Leur enseigner le respect des femmes des autres religions. Des femmes tout court.
Alors faut-il se taire pour plaire aux orientalistes qui s’ignorent ? Se contenter de donner du monde arabe une image lisse et de l’islam, l’unique écho de ses siècles d’or ? Les signataires de la tribune appellent à un «débat apaisé et approfondi». Cela veut dire quoi, au juste ? Qu’on occulte ce qui ne va pas dans nos sociétés ? Qu’on hésite à décrire des réalités amères sous prétexte de devoir faire dans la nuance ? Qu’on se sente coupable d’aimer dans l’Occident l’espace de liberté et d’émancipation qui nous font défaut ? Bien sûr que nous n’ignorons pas que l’Europe possède ses propres excès, ses violences contre les femmes, ses fêtes alcoolisées qui génèrent harcèlements et viols. Et alors ? Cela absout-il les musulmans que nous sommes de nos propres dérives ?
Il existe, en France, une élite de gauche qui entend fixer les critères de la bonne analyse et qui veut faire de nous les otages d’un contexte français traumatisé par la peur de l’accusation d’islamophobie. Une peur qui pétrifie nombre d’élus, d’écrivains, de journalistes et de féministes, quand elle ne les amène pas à défendre les niqabs et les prières de rues, à excuser les violences dans les cités et les propos de gamins qui clament, avec fierté, «Je ne suis pas Charlie». La même élite qui s’essaie à l’exégèse coranique et cherche la bénédiction de religieux devenus ses principaux interlocuteurs, aux dépens des musulmans laïques réfractaires au rôle de victime.
Cette tendance à dicter aux intellectuels arabes ce qu’ils doivent dire ou ne pas dire sur leurs sociétés confine au néocolonialisme. Elle relève d’un tropisme qui rend incapable de nous voir autrement que comme des «protégés». Elle refuse l’idée qu’il puisse exister des Arabes souverains dans leur tête, des musulmans qui contestent leurs traditions, désobéissent aux consignes de bien-pensance, fissurent les échafaudages spéculatifs autour d’un Orient fantasmé.
Or c’est d’un nouveau discours que nous avons besoin de la part de la gauche. Un discours qui ne soit pas opportuniste ni de façade. Qui conçoit le fait que les musulmans puissent aimer ou ne pas aimer leur monde, adhérer ou non à leur religion. Qui sache qu’il n’y a pas que Kamel Daoud qui soit habité par le désir de changer nos sociétés. Oui. Nous sommes de plus en plus nombreux dans le monde arabo-musulman et ailleurs à penser que le salut de l’islam comprend et exige la relecture de l’islam. Nous refusons la version d’une foi paisible et de peuples innocents, aussi erronée que son équivalent d’une foi haineuse et obscurantiste. Nous n’obtempérons pas aux affirmations selon lesquelles le jihadisme n’a rien à voir avec le référent doctrinal. Nous refusons le refus de l’amalgame. Nous ne nous sentons pas obligés de servir au lecteur occidental nos poésies érotiques de jadis et nos supposées libertés sous le voile. Nous laissons à d’autres, sans les dénigrer ni leur manquer de respect, le soin de chanter les couplets d’une tradition réconciliée avec le sexe, la fameuse liste des synonymes de l’amour ou le millier de contes de Shéhérazade, qui ne viendront pas au secours du jeune Saoudien ou Marocain menacé de prison ou de guillotine pour liaison extraconjugale. Chacun son rôle. Et si certains veulent se constituer en brigade anti-islamophobe, assimilant toute critique de l’islam à un sentiment de peur ou de haine, nous estimons que notre rôle à nous est d’éveiller les consciences sur le poids de nos tabous spécifiques et les maux de nos sociétés en attente de liberté.
Alors qu’on cesse de critiquer d’un côté le silence des intellectuels musulmans sur les violences perpétrées par certains de leurs coreligionnaires, et d’appeler ces intellectuels à se taire dès lors qu’ils dérogent à la pensée correcte sur l’islam. Serions-nous assignés à une parole positive et aseptisée sur notre monde ? N’est-ce pas là une insidieuse façon de nous maintenir dans la mission subalterne d’allumer le feu du temple occidental et de flatter sa prétention à être la mesure de toute réflexion ? Dénoncer nos torts ferait-il de nous des «essentialistes» et des «culturalistes» ? Mais enfin, qui est essentialiste, si ce n’est celui qui fait précéder nos réalités par l’idée qu’il s’en fait et la détermine selon ses grilles de lecture ? Qui sont les orientalistes, si ce ne sont ces détracteurs de Kamel Daoud, qui, souvent, n’ont connu le monde musulman qu’à travers les livres ou pour le soumettre à leurs hypothèses de travail, quand ce n’est à l’absolutisme de principes dans lequel ils s’enferment ?
Daignez donc, Messieurs Dames, reconnaître que les Kamel Daoud peuvent remettre en question votre savoir universitaire. Daignez avouer votre désarroi devant une nouvelle catégorie d’intellectuels arabes qui sort du paradigme de la défense radicale de l’islam tout autant que de son rejet excessif, et qui s’estime capable de penser par elle-même. Sachez que des Kamel Daoud, il en naît tous les jours de l’autre côté de la Méditerranée. Et c’est là un signe de bonne santé. Ces journalistes, écrivains et artistes, menacés dans leur vie pendant que l’on sirote tranquillement son café à Paris, qui ont le courage de forcer leur monde à la critique et au changement, qui aspirent à la liberté de dire, tout simplement, veulent devenir les sujets de leur propre histoire au lieu de rester objet des études occidentales. En cela, et contrairement à ce que vous pensez, ils ne sortent pas de leur monde ni ne souffrent de déni d’identité. Bien au contraire. Ils s’inscrivent dans une autre tradition de l’islam, celle des poètes rebelles et des penseurs du doute qui ont maintenu et maintiennent toujours allumée la flamme d’une civilisation musulmane en attente de la révolution qui la sauvera d’elle-même et des autres : la révolution religieuse et sa conséquence naturelle, la révolution sexuelle.
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by mariastella | 2016-03-01 02:29 | フランス

キューバとイランとフランス

キューバのラウル・カストロが経済封鎖解除後はじめての外国訪問先にフランスを選び盛大に迎えられた。

フランスはキューバにとって最大の政治的パートナーであり得るそうなのだ。

キューバに対しては観光、貿易に関するマーケットとして色気満々のフランスだが、先日イランの大統領が来た時には大量の飛行機を売りつけ、キューバ、イランというおいしい市場にしっかり存在感を植え付けている。

この2ヶ国がフランスを特別扱いしているのは事実で、その理由の一つはアメリカに対する牽制で、もうひとつがフランスをヨーロッパの窓口と見なしていることだ。

アメリカとフランス言えば国力にはすごい差があるのだけれど、シンボリックには拮抗している。

それはサウジアラビアでも感じたことだ。サウジがマメにフランスの軍事技術を導入し続けているのは、アメリカ一辺倒ではないという姿勢を自らにもアメリカに対しても確認させるためだった。

地政学的に言っても、アメリカとヨーロッパの両方と関係を持っておくのは多くの国にとってリスク・マネージメントの意味を持つ。

ヨーロッパといっても、イギリスではアングロ・サクソンの同類だし、ドイツも英語と同根のゲルマン語圏だし二度の大戦の敗戦国なので政治的権威は微妙なところがある。

その点フランスなら、ヨーロッパの真ん中でラテン語圏である上に。アメリカに対しても独立戦争の時に助けてやった、近代革命の同志、みたいなことを根拠にして臆しないので、シンボルとして使い勝手がいいのだ。

フランスでは共産党も長く存在感があったし、伝統的に左翼シンパでキューバに親近感がある。

イランに対してはイスラム革命前にホメイニ師の滞在を認めていた。
大切な経済パートナーでもあった当時のイランの王制が危機に瀕しているのを知っての革命後のアリバイつくりの意味もあったろうし、「王制を倒す」とか「革命」とかにシンパシーがある国柄だからでもある。

当時のフランスではイスラム革命の意味をだれも把握していなかったのだ。

で、今さらそれ(結果的にホメイニに便宜を図ったこと)をあまりはっきり言うのはまずいので黙っているが、下心としては、「ホメイニも信用して頼った国」オーラをイランに対して発揮しようとしている。

どちらの国に対しても、主として経済効果をねらって動いているわけだけれど、イランにもキューバにも巨大すぎるアメリカを牽制するシンボルとしてフランスが機能しているのはまちがいがない。フランスはそれをちゃんと自覚している。

フランスにずっと暮らしていると、日本と同じで、もういまや「衰退途上国」という暗い感じになるのだけれど、こういうのを見ていると、独特の「存在感」を利用する腕は衰えていない、という感はある。
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by mariastella | 2016-02-02 07:23 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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