L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:本( 57 )

マルセル・ゴーシェの『ロベスピエール』

年明けに入手したもう一つの歴史本は、マルセル・ゴーシェの『ロベスピエール』だ。

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フランス革命の経緯についてはもういろいろ言い尽くされ書き尽くされているのではないかと思っていたが、なにしろ、あのマルセル・ゴーシェが書いているのだ。

確かに、フランス革命の理想と現実の乖離、理想が原理主義になり暴走することの病理などは、ロベスピエールの運命に象徴されていると言えるだろう。

「正義」や「理念」のために身を捧げる人たちがある一線を越えて「不正義を徹底的に排除し懲罰する」という不条理。それがひょっとして「正義」という理念の中にアプリオリに組み込まれているのだとしたら怖い。

きわめて今日的な問題でもある。


私が子供の時に読んだ長編小説にユゴーの『93年』の短縮版の『嵐の九十三年』というのがあった。

主人公のゴヴァンは最後にギロチンにかけられるのだけれど、その前に「共和国、万歳! Vive la République !」と叫ぶ。ギロチン台での処刑というのもショッキングだけれどいわば同じ共和国のために、革命にかかわった側から処刑されるのにもかかわらず、「共和国、万歳」とする信念は変わらない。そのことに強烈な印象を受けたのをはっきりと覚えている。

理念、信念、と生身の人間、その命と感情、価値観の関係の難しさに圧倒されたのだ。

今は著作権フリーだからこの小説はフランス語ならネットでどこでも全文読める。


ネットの検索機能を使って「Vive la République !」が何度出てくるか調べたら7か所だった。

それをチェックしながら、いろいろ考えさせられた。

(これを書いている時、日本語のネットでマルセル・ゴーシェ君主制についてインタビューに答えている記事を見つけた。
今のマクロンと黄色いベスト運動を念頭に置いているのだろう。確かにフランスの第五共和制は今でも「王政」に似ている。オランドが出てきたときはそれがより合議的なものに変化するかと予測した者は多かったけれど、そうはならなかった。けれども、マルセル・ゴーシェがオランドはギロチンにかけられたというのはあたっていない。彼は「王」になれなかったからだ。民衆はマクロンという「王」、ギロチン台に送り込むに値する「王」を必要としたのだ。)



by mariastella | 2019-01-11 00:05 |

無敵艦隊の軌跡とカミカゼ

年明けから読んでいる本の続き。

Dansle sillage de l’invincible Armada

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1588年、エリザベス一世を滅亡させる絶対の勝算があったフェリペ二世のアルマダ(無敵艦隊)が敗れた原因は戦力の差などではなかった。

途中で当時スペイン領だったオランダ総督パルマ公の軍隊10万人が加わるはずだったのが反乱のために当てが外れ、悪天候に帰路を阻まれ、飢えと寒さで15000人が死んだのだ。 


スペインが一方的にイングランドを侵略しようとしたわけではない。


フェリペ二世は妻のイングランド女王でカトリックのメアリー1世がイングランド女王であった時は「共同王」だった。その後、プロテスタントである義妹のエリザベスが庶子であることを理由に、王位継承者はカトリックの前スコットランド女王メアリー・スチュアートであるべきだと画策した。結局エリザベス一世がメアリーを処刑した。かくなる上は実力でイングランドと戦って併合するしかない、というわけだ。


Brexitの今に至るまで確執を残す英国の、イングランド国教会と、スコットランドの一部とアイルランドのカトリックとの対立の根は深く複雑だ。けれども、確実なのは、これが「宗派の対立」などではなく、単に当時強大だったハプスブルグ家の覇権主義と、島国での生き残りと海洋勢力拡大とを賭けたイングランドとの間の「政争」だということだ。

イングランドの「宗教改革」による国教会成立よりもずっと前に「カトリック一色」だったヨーロッパでも様々な戦いがあり、英仏百年戦争ではジャンヌ・ダルクの異端審問まで起こった。王族たちの政略結婚やそれによる領地の相続などによって「勢力地図」はたえまなく変わり、「勢力」や「国家」と関係のない庶民が絶えず戦禍を被った。

でも、「建前」は、互いを異端だとしたカトリックとプロテスタントの戦いで、スペインの艦隊は「十字軍」認定されて、守護の聖人の旗を掲げ、プロテスタントのイギリスはエオールやネプチューンなどギリシア神話系の神の旗を掲げた。

確かにこういう時は「一神教」の同じ創造神を奉っていては戦意を昂揚できないだろう。

で、当時最強だったアルマダは、さまざまな思いがけない不運のために軍の半数を失って帰還するのだが、その間、スコットランドやアイルランドをぐるりと回って兵站を補填しようとしたがさまざまな要因で阻まれた。

英仏海峡の天候の困難さはよく知られていて、そのことが二度の世界大戦の戦況にも大きく影響を与えた。

圧倒的な戦力による侵略が、具体的な戦闘でなく自然要因で失敗したというと、日本人の私には13世紀の元寇で台風が日本を救ったといういわゆる「神風」エピソードが頭に浮かぶ。

フランス人ならナポレオン軍がモスクワに侵攻した帰りに飢えと寒さで大打撃を受けた「冬将軍」エピソードだろう。

もちろん実際はそう単純な話ではなくいろいろな要素が絡んでいるのだけれど、もし「神風」が吹かなかったら、日本は元・高麗に征服されていたのだろうか、とか、季節の読みを誤っていなければナポレオンはロシアも征服していたのだろうとか、「歴史」の妄想も起こる。

リベラシオンのディレクターであるローラン・ジョフランは歴史マニアで、航海マニアだ。彼は、自分の船でアルマダの跡を季節も含めて正確にたどって、当時の船の精度、航海法などを科学的に調査しながら、無敵艦隊の悲劇をたどる本を出版した。私は一般の「戦記物」にはあまり興味がないのだけれど、この本はおもしろい。

その中で、アルマダ侵攻の初期に、悪天候のために港に停泊していた時に、「火船」によって多大な被害を受けたというところに注意を引かれた。「火船」というのは「自殺船」ともよばれ、イングランドは、タール、ピッチ、火薬を搭載した自爆船をアルマダに体当たりさせたというのだ。

うーん、それこそ、「神風特攻隊」を想起させる。

で、調べてみたら、こういう「火船」の歴史は古く、普通は無人で風や海流を計算して流したようだけれど、敵のすぐ近くまで別の船が誘導していく例もあるという。後に長距離爆弾だの魚雷や飛行機だのが登場してからは「火船」は姿を消すのだけれど、『アフリカの女王』のラストシーンにもあるように、イチかバチかで敵の巨艦に突っ込むことの威力は「戦略」として延々と続いていたわけだ。

「神風特攻隊」の「カミカゼ」は21世紀のイスラム過激派テロリストの自爆テロにまでつながる「国際語」になってしまったくらいにインパクトが強い。

アルマダに打撃を与えた「火船」も、「無人」ではなく、志願か強制かは分からないがけれどひょっとして「自爆要員」が乗っていたのではないか、と想像したくなる。火薬を積んでいても体当たりのタイミングで確実に爆発しなくては意味がないのだから。


戦争の歴史には人間の愚かさがいっぱいつまっている。


by mariastella | 2019-01-10 00:05 |

カトリック信徒には同盟者はいない 

新年の初読書はこれ。
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ジャック・マリタンが、モーリアック、クローデル、ベルナノスとかわした書簡集。

この面々だからさぞかし敬虔な神学や信仰の話なのかと思うと大違い。

「カトリック信徒には同盟者はいない」というのはクローデルの言葉だ。
カトリック教会は政党ではないのだから「共闘」をする「同志」ではない。
同じ福音を信じている「同胞」「きょうだい」であるだけだ、という。
きょうだいの意見が食い違うこともあれば仲間割れ、喧嘩もある。

で、20世紀フランスのカトリック哲学や文学の高峰をなすこの面々の書簡集は歯に衣着せぬ驚きのものだ。あまりにも不都合なのでベルナノスの著作権者側からは公開を拒否された手紙もあるが、マリタンの返事によってその内容が想像できる。

モーリアック、クローデル、ベルナノスの順で編集されていて、マリタンに霊的に一番近いモーリアックから、スペイン戦争への立場で対立したクローデル、反ユダヤ主義で対立したベルナノス、とだんだんとテンションが高まっていく。

反ユダヤ主義(セリーヌのようなものではない)についてベルナノスに対立するのは他の3人で、スペイン戦争でスペインのカトリック教会を支持するクローデルに対立するのは他の3人というように、右へならえのコンフォーミズム、同調とは程遠い。
全てのキリスト者がそれぞれ固有の人格として神と向き合っているので、共同体の掟や同調圧力とは関係がない、ということなのだろう。

もちろんその内側には、それぞれの罪悪感もあって、「悪魔は全てのアートの協働製作者である」というジイドの言葉が彼らに突き刺さる。
クローデルは、文学者の心を覗き見た時よりも神を失望させるのは、自覚のない司祭の心くらいのものだ、と言っている。
文学者というメチエは薄汚く、私の人生は売春家業のようなものだ、とも言った。
それに対してマリタンは、神から与えられたものを受け入れる方が賢明ではありませんか、文学も、克服できない悪徳と自覚しながら恥の感覚を持ちながら成す場合は売春とはいえません、と答えている。

マリタンはともかく、クローデルは日本におけるフランス大使であった時期もあり、ロダンの弟子だった姉のカミーユ・クローデルも有名で、ノートルダム大聖堂での回心も知られているから、そんなに葛藤があったのかと驚く。

マリタンはある意味で非の打ちどころのない人物で、クローデルやベルナノスらから「夢見るジャック」「パリカトリック学院の偉すぎる教授さま」「女々しい夢」などと揶揄され「このバカヤロー」と罵倒もされている。その辺も、「兄弟ケンカ」という感じではある。

アートには悪魔の働きが加わっているというのは何となくわかる。
そばにいるのが天使だけでは、そもそもアートの創造に駆り立てられるモティヴェーションはないだろう。悪魔のささやきが聞えているからこそ、それと戦い、問いを投げつつけることが文学者なのかもしれない。
全ての「知的」なアクションにも悪魔の影がある。「智恵の実」を勧めたのが悪魔だったなら、そもそもの出発点から人間の人間的営為には悪魔の隠し味があるのかもしれない。

「エデンの園」の「お花畑」の夢は帰ってこない。





by mariastella | 2019-01-09 00:05 |

『神と金と革命がつくった世界史』について

11/17の日経新聞に橋爪大三郎さんが書いてくださった書評が掲載された。
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思えば橋本さんの『ふしぎなキリスト教』が数年前にベストセラーになったことが、驚きだった。「キリスト教」に日本の読者が関心を持っていないわけではないことが分かったからだ。

でもその「ふしぎなキリスト教」の「ふしぎさ」にはいろいろと突っ込みどころが多すぎた。橋爪さんたちの展開するキリスト教史は、まさに、私の世代が共有する教科書的キリスト教史観なのだけれど、それは、実は、西洋近代史の特殊な文脈の中で様々な政治的、イデオロギー的な意図によって構築されたモデルだった。

キリスト教といっても、当然いろいろな宗派があるわけで、その中で、近代のグローバルスタンダードとして定着した西洋近代思想のルーツになった部分が、どのように批判され、姿を変えて評価され位置づけられたかというのは、カトリック文化圏とプロテスタント文化圏ではまったく違う。

そのことに特に注目して(特にアングロサクソン系史観の影響を受けた)「日本の教科書的キリスト教」の成立について書いたものが2012年に出した『キリスト教の真実』(ちくま新書)だった。私には「真実」などという畏れ多いタイトルを掲げるつもりはなかったのだけれど、「ふしぎなキリスト教」のおかげで「キリスト教」が「売れるアイテム」と認知されていたのでこのタイトルがつけられたようだ。
そして、その本に、なんと、橋爪さんが、「本書から学ぶべきことはたくさんある」という帯の推薦文をくださったのだ。

その後、「ふしぎなキリスト教」を出した講談社現代新書から、この本に対して反論もできる「キリスト教が分かる本」を書きませんか、と提案された時は、私の中ではもう、「キリスト教の真実」で言いたいことは言っていたので、今度は、政治や歴史にこだわらず、一神教や二元論、三位一体などのベースの最新情報を紹介しようとした。一、二、三と続くので、後も四、五、と続けて、どこを読んでもいろいろな情報ができるような構成にした。

ところが、書き上げた本は「新書には難しすぎる」と言われた。
でも、「難しい部分」は、それを求めている人へのサービスの部分なので削りたくはなかった。

その本が『キリスト教の謎』(中央公論新社)から単行本で出してもらえることになった。情報満載で私が読者なら絶対に読みたいお得な本なのだけれど、想定読者が曖昧になったと思う。

それでも、ごく最近、清眞人さんから『フロムと神秘主義』(藤原書店)という本を贈呈していただき、そこで、私の『キリスト教の謎』の十字架の章を引用させてもらった、と連絡いただいた。

こんなところで、こんな立派な学術書のお役に立っていたとは…。

私は日本の研究者とほとんどコンタクトがないので、こういう本やこういう方がいることも知らなかった。
出版不況下で良心的な本をどうやって残していけるのかも手探りだった。清さんの本やサイトによって、藤原書店の存在も知り、清さんがKindle個人出版というのも展開していらっしゃることを知り、今の時代、その気になれば持続的で良心的な情報発信は可能なのだなあと希望が持てた。

で、この時もタイトルにキリスト教が入ったわけだけれど、

『神と金と革命がつくった世界史』には「キリスト教」が入っていない。(サブタイトルには「キリスト教と共産主義の危険な関係」とある。)

この本では、ちょっとキリスト教の呪縛から抜け出して、普遍主義の理想と限界を広い意味でとらえたかったからだ。

その前に『キリスト教は宗教でない』(中公新書ラクレ)というのも出していただいている。これによって、特定の政治や社会、権力と民俗と切り離せない「宗教」からキリスト教のエッセンスを切り離す姿勢を明らかにしたかったのだけれど、これも、なんと、「護教的」ととる人がいた。

キリスト教の元はまさに革命的だったと思う。社会の秩序、権力構造、規範などの上に「愛」を提示したからだ。もちろんそんなことがゆるされるわけはなく、時の宗教権威からも政治権威からも弾劾されて処刑された。そんな宗教が、ローマ帝国の国教となってから今の世界の社会民主主義スタンダードを作るに至るなんてまさに「ふしぎ」である。

で、「キリスト教」と距離をおいて、近代の日本やアジアのことを顧みながら今の世界をどういう視点から見るかという提示の一つが『神と金と革命がつくった世界史』だった。

その本に、橋爪さんが要を得た書評を書いてくださったことは、「不思議なキリスト教」から続くご縁を感じ、私の言葉が伝わってほしい場所に伝わっていることを実感できて、ありがたいことだった。

by mariastella | 2018-11-22 01:22 |

日本で買った本

先日青山の東京ウィメンズプラザの図書館で、「神とフェミ」を書くために何か参考になるような日本語の本がないかと探して、とりあえず2冊の本をチェックした。
借りて読んでいる暇はないので、隣の青山ブックセンターに行って調べてもらったら、版元にも品切れ。

でも、通販で中古品をすぐに手に入れることができた。
こういうの。
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出版不況で、良心的な書籍を世に出すハードルはどんどん高くなっているけれど、一方で、古書店を 廻らなくともこうして簡単に欲しい本が手に入る時代でもある。

折しも神田では昔ながらの古本市が開かれている。

大学時代にSF研にいた友人が、古本市で私のために当時三千円くらいで、日夏耿之介の「サバト怪異帖」を競り落としてくれてプレゼントしてくれたのを思い出す。1948年版だった。
今でもフランスの自宅にある。

コンテンツだけではなく、「モノとしての本」ってやはりすごいなあと、なんだか力づけられる。









by mariastella | 2018-11-05 00:05 |

ビンゲンのヒルデガルド研究の決定版

なかなかまとまった本が読みないので、できるだけ新しい本を買わないようにしているのだけれど、このヒルデガルド・フォン・ビンゲンの研究書は画期的だ。
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ベネディクト16世によって「教会博士」の称号を授与されたとはいえ、20世紀末以来のヒルデガルドのブームは、音楽作品などを除いては、主として、幻視にまつわる神秘主義的サブカルや、自然食や医食同源の「中世の知恵」的サブカルの二つに回収されていた。
あるいはカトリック界で政治的影響力を行使したとしてフェミニズムのコンテキストで語られることもあった。

そんな彼女についての「通説」を覆して、中世史の碩学であるマインツのフランツ・シュターブが、ヒルデガルドを本格的な歴史研究のテーマにして取り組んでいたことはよく知られていた。けれどもシュターブが2004年に61歳で亡くなったので、それきり新しい研究成果のことは知らなかったのだけれど、この夏、パスカル・フォトリエが、シュターブの研究を踏まえたヒルデガルドの伝記を出版した。

フランス語で読める!

パスカル・フォトリエは、ショパンやナポレオンの伝記も出している女性の文学研究者だ。
ナタリー・サロートの専門家でもあり、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの研究もしている。ヒルデガルドも、そういうフレンチ・フェミニズムの視点からもとらえられているかもしれない。

日本では1994年に種村季弘さんが青土社から『ビンゲンのヒルデガルドの世界』という本で、ヒルデガルドの魂のドラマとか宇宙論の全容などと風呂敷を広げていたのを読んだことがある。種村さんだから、「幻視者」寄りではある。

今度の本で知ることのできる新事実が楽しみだ。

公式サイトに昔いろいろ書いていこうと思っていたのが、そのままになっている。
ここに少し。

このブログ内でヒルデガルドを検索したら一つしか出てこなかった。
でも読んでみるとなつかしい。

こうしてみてみると、けっこう長い間ヒルデガルドについて書くことを封印していたのだろうか。
でも、彼女のことはずっと考えていたので、この本を読むことでブレイク・スルーの予感がする。





by mariastella | 2018-10-14 00:05 |

テオドール・アドルノとギュンター・アンダース

資料として読む本以外は、重い本(物理的に)を読み通すことがだんだんできなくなっている。で、軽い本(物理的に)を2冊、並行して読み始めた。このシリーズは本当にコンパクトで読みやすい。100ページ以下で、途切れ途切れにしか読む時間がなくても、全体を見失わないうちに読了できる。
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今回はドイツ語の訳本。ドイツ語を原語で読むのは効率が悪すぎてもう随分前にやめた。

アドルノのこの本、音楽におけるフェティシズムみたいなのは、日本語訳があるのだろうか。じっくり音を聴き音色を観てハーモニーを味わうことの至福は忘れ去られている。アドルノというと、19世紀の白人男性クラシック音楽至上主義などと言われることもあるみたいだけれど、それ以前の18世紀バロック音楽奏者が絶対に読むべきだといつも思う。

ギュンター・アンダースのインタビュー本も感動的だ。アンダースは、妻だったハンナ・アーレントとパリに亡命し、 戦後は広島の原爆投下にゴーサインを与えて自責の念で精神を病んだパイロットと文通し、アイヒマンの息子に公開書簡も出した。
ヒトラーのユダヤ人殲滅は、ドイツ人が階級意識に目覚めるのを回避して、みなが「アーリア人」として優越感とともに団結するための政策だったことが、「普通のドイツ知識人」意識を持っていたユダヤ人の運命をどう変えていったかによってよく分かる。
ヒトラーが、「アーリア人」を創るために「ユダヤ人」を創ったのだ。

で、アドルノとアンダースは、20世紀初めに生まれたほぼ同年なのだ。(アドルノも父はユダヤ人で、カトリックの母と結婚するためにプロテスタントに改宗したという。)

この2人のこの本を 並行して読むのは刺激的だ。

by mariastella | 2018-08-18 00:05 |

『都市と野生の思考』

日本でおひとりさまについての対談本を買うために青山ブックセンターの新書コーナーに行った時、他の新書を2冊買った。その一つがやはり対談本の『都市と野生の思考』(インターナショナル新書)だ。

東京生まれで京大に学び京大総長になったゴリラ研究の山極寿一さんと、京都生まれで京大に学び、阪大総長を経て京都市立芸大の学長になった哲学者の鷲田清一さんによる自由な対話。「おひとりさま」の対談よりずっと楽しく興味深い。

京都に長いお二人が京都で対談ということで、「京都贔屓」がなかなかなものだ。

でも、「歴史のある景観」「伝統を残す町」の賛美には違和感がある。

京都はコミュニティが根を張る場所で、成熟した町の強靭さがある。

「この街はどこを歩いていても、そこかしこに過去の佇まいを感じる。何百年も前にも同じ場所を、今とは異なる装いの人たちが歩いていた姿が目に浮かぶ。連綿とした歴史の重みを感じれば、人はおのずと居住まいを正すものです。歴史の息吹を孕む空気が、今の世界だけ基準に考えていてはだめだと教えてくれる。(これは東京生まれの山極さんの発言)」

なぜだか、「なるほど古都ってすばらしい」と全然思えなかった。

普通なら、やはり何世紀もの佇まいが残っていて歴史上の事件や人物たちの幻を見てしまいそうなパリの町が身近に40年以上も暮らしている私にとって、

「そうだよね、豊かな文化が残る古都で歴史的なパースペクティヴを持てるのって大事だよね」と共感、同意できてもよさそうなのに。

実際、ヨーロッパの数ある大聖堂や城や宮殿、いやパリの下町を歩いているだけで、ああここはあの画家が、あの詩人が住んで眺めていた街並みなんだなあ、などと感慨にふけることは少なくない。

でも、京都についてのこの部分を読むと、なぜだかすぐに、

京都だって、応仁の乱で焼けただろ、

先の大戦で絨毯爆撃されて文化財や景観を失った町は重みがなくて強靭さもないのか、

広島はどうなるんだ、

長崎は ?

沖縄は ?

などと次々につっこみが浮かんできた。

「今、ここ」の基準にだけ振り回されるのは良くない、という山極さんの意見は正しい。

でも、「歴史の重み」のプレッシャーで「居住まいが正される」というのは怪しいと思う。

もちろん、マクロンがプーチンをヴェルサイユ宮殿で迎えたり、トランプ大統領にアンヴァリッドのナポレオンの棺を見せつけたり、「歴史の重み」で相手を圧倒するという政治的戦略もあるくらいだから、インパクトはあると思う。

「古都」は演出できるし、「商品」にすらなるのだ。

けれども、たとえば、古戦場を見て、栄華のはかなさを思う人もあれば、古代戦士の雄姿を思って鼓舞される人もあるだろう。

歴史の「重み」とか「息吹」とか言っても、その「歴史」こそ、視座によってまったく様相も変わればコンテンツも変わるのだ。

どの場所も、「失われたもの」の方が残っているものよりもはるかに多いし、そこで死んでいった人たちの方が生きている人よりもはるかに多い。

今はもうそこにないもの、見えないものに向けるまなざしこそが、今なすべきことを示唆してくれるのかもしれない。

(この本は、この部分に最初にこう反応してしまったが、家族や食や性についてとびきり興味深い話題をたくさん提供してくれる。いろいろ参考になった。後日あらためてコメントするかも。)


by mariastella | 2018-07-12 00:12 |

復活祭と『宣告』とオウム真理教の死刑囚

復活祭、おめでとうございます。

Vénardさん、おめでとうございます。

加賀乙彦の長編『宣告』を、イエス・キリストが死刑宣告を受けて十字架刑に処せられる「受難」の復活祭前四旬節にようやく読了した。

先日も書いたが、本当に、「死刑囚」とか「余命宣告」と、キリスト教は「相性」がいいというか、キリスト教が力を発揮してくれるフィールドだ。


逆に言えば、キリスト教禁制の時代や国で多くのキリスト教徒たちが、信仰を捨てずに死を宣告されて壮絶な殉教を遂げていったのも、同じルーツだと言える。


社会的な罪があろうとなかろうと、人間の組織の大きな力によって抹殺しようとされる存在にキリスト教は寄り添ってくれる。


『宣告』の死刑囚たちの犯罪の動機を見ると、その多くは、単純な欲望充足の繰り返しがだんだんと深みにはまることが多いのが分かる。


夏には刊行される予定の私の新刊では、「神」「金」「革命」という三者、つまり聖なるもの、資本や富、暴力イデオロギーという三つがいろいろな形で偶像化されるメカニズムについて述べたけれど、その三つの周縁には、実は、ばらばらの境涯を生きる個人が日常的に欲望する多くのこと、食欲、性欲、憤怒、怠惰、見栄、嫉妬などが渦巻いて破滅のスイッチを押しているんだなあと感慨深い。


キリスト教の七つの大罪というのは高慢、激情、羨望、堕落、強欲、大食、肉欲というもので、こんなものが「大罪」なんてなんだか大仰だなあ、と思っていたけれど、『宣告』の主人公の死刑囚(実在モデルがいる)が、死刑囚になるまで「堕ちていく」過程では、さまざまな「生き難さ」を一過的にカバーしてくれるさまざまな「遊興」への没頭があった。


「アプレゲールの高学歴プレイボーイの犯罪」として有名になった事件だそうだが、七つの「大罪」が「大罪」となるのは、エゴイズムへの耽溺、アディクションを構成するからなのだと分かる。

仏教が、何よりも、この世の快楽に「執着」してはいけないと強調するのも、同じ洞察なのだろう。

それこそ「罪のないちょっとした快楽」へのアディクションが人を蝕み、闇に落とす。


そしてこれも前に触れたが、オウム真理教の確定死刑囚が処刑場のある拘置所へ移送されたというニュースのことも考えざるを得ない。

これについて、週刊新潮(私はネットで読める)で短期集中連載の『13階段に足をかけた「オウム死刑囚」13人の罪と罰』というもの(これを書いている時点ではまだ2回)を読んでいると、なおさら胸が痛む。

彼らが逮捕されてからもう四半世紀以上たつ。

元気な若者が四半世紀以上も隔離されてきた。

「尊師」として教団のトップであった麻原以外の全員に死刑免除をして、じっくりと証言してもらって、彼らを生んだ社会の病巣について共に考えてほしい、という人たちもいる。

オウム真理教家族の会がそうで、家族が「出家」した時点でカルトの被害者の会を立ち上げた人たちの会だ。



1990年代のオウム真理教の特殊な話だけではない。

1970年代にも、日本赤軍として中東に渡ってテロの実行犯になった若者たちがいたし、21世紀のヨーロッパには、イスラム過激派のプロモーションビデオに洗脳されて改宗してシリアに出かけてテロリストとなった男女が存在する。

無差別殺人だとか残虐な殺人に手をそめた「人でなし」を抹殺してすむことではない。


「七つの大罪」とアディクションは誰にでも手の届くところにある。

だから、「悪人」を罰することで「悪」を消すことなどできない。

そのために、「悪人」がいるのではなく、「悪」をそそのかす「悪魔」がいる、という考え方がある。

エデンの園でイヴを誘惑した蛇、最後の晩餐でユダの中に入った悪魔。


悪魔のささやきに耳を傾けて誘惑に屈した人の「証言」をじっくりきいて、「その後」の生き方を共に模索する方が、すでに捕らわれて四半世紀も世間と隔離されている人を殺すよりも、次の犠牲者を救うことになる。


加賀乙彦が「悪魔のささやき」という言葉を使うのは、カトリック作家としての言葉だろう。私は『悪魔のささやき』という本を読んではいないが、この中で、彼は、獄中の麻原を訪ねて、彼の退行現象は詐病ではなく、完全隔離からくる拘禁反応から来たもので、外部と接触させれば「治る」可能性はあると言っている。

このブログで重要ポイントが引用されている。


この引用文で加賀が語っていることは、そのまま、『宣告』でレポートされていることと重なる。


人にはそれぞれ持って生まれた性向もあるし、拘禁状態や死刑宣告がどのような「病」をもたらすかということはケースバイケースだろう。

今のヨーロッパには死刑がないが、つい最近、40年近く服役している終身刑の囚人を「解放」するという試みが決まったようだ。その人が監獄の外の社会で生きていくための援助と見守りがなされるという。


死刑囚にしても、終身刑囚にしても、「隔離」と「病気」をセットにして先の見えない長い時間を拘置所員や監獄医に押しつけていく社会よりも、だれにとってももう少し希望を与えてくれるようなシステムを模索していくことは大いに意味がある。




by mariastella | 2018-04-01 00:05 |

文庫本2冊 加賀乙彦とEMシュミット

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このところ、執筆していた本の資料ばかり読んでいたので、しかも、マルクス・レーニンの著作とか革命思想についてばかり読んでいたので、これさえ終わったら、何か小説を読もうと決めていた。
他にも読む本はいくらでもあるのだけれど、「小説を読む」というのが一番ぜいたくな感じがする。
しかも、どこでも読みやすい文庫本。

どうせなら、大長編をと思って、ずっと置いてあった加賀乙彦の『宣告』(3巻本)を思い切って手に取る。
興味深いが、確定死刑囚の話なのでどうにも重い。

昔、私の本に、ある人の洗礼名を書いてサインしてくれと言われたことがある。
大阪の拘置所にいる死刑囚への差し入れだった。
死刑反対のパンフレットをもらった。
自分の本が死刑囚の独房で読まれるのかと思うと、何か責任感を感じたことを思い出す。
あの人はどうなったのだろう。

このブログではこことか
ここで書いているように私は死刑廃止論者だ。

他の雑誌にも書いたけれど、人はどうして被害者の側にだけ立って懲罰感情を抱くのだろう。

死刑のある国は、

「もしあなたやあなたの大切な人が殺されたら、あなたの国はあなたの代わりに殺人者に報復してあげますよ」

と言ってくれる国だ。

死刑のない国は、

「もしあなたやあなたの大切な人が殺人者になったとしても、あなたの国は絶対にあなたやあなたの大切な人を殺しはしません」

と言ってくれる国だ。

私は2番目の国に住みたい。

親が子供に「たとえ全世界がお前を罰しようとしても私だけは絶対に守ってあげる」と言うみたいな、人生のベースにおいての絶対肯定感をもらえて生きたい気がするからだ。

というわけで、読み続けてはいるがあまりにも気が重くなるので、並行してフランス語の文庫本も読むことにした。
お気に入りのエリック=エマニュエル・シュミットの『顔の向こうが見えていた男』で、ものすごく奇妙な物語だ。
教会のミサが終わって人々が出てきた所に起こるテロ。目撃した主人公は人の顔の向こうに、霊や天使や悪魔が見えるという超能力がある。それを使って探索が続く。
宗教と暴力、テロリズム、愛と哲学…。2016年に書かれた手記が作者のところに送られて、それが10年後に出版され、さらに2060年に作者の生誕100年に義理の娘の手で付記されて…という複雑な構成だ。シュミットは本当に転生のストーリーテラーだなあと思う。








by mariastella | 2018-03-12 00:05 |



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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