L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:本( 51 )

テオドール・アドルノとギュンター・アンダース

資料として読む本以外は、重い本(物理的に)を読み通すことがだんだんできなくなっている。で、軽い本(物理的に)を2冊、並行して読み始めた。このシリーズは本当にコンパクトで読みやすい。100ページ以下で、途切れ途切れにしか読む時間がなくても、全体を見失わないうちに読了できる。
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今回はドイツ語の訳本。ドイツ語を原語で読むのは効率が悪すぎてもう随分前にやめた。

アドルノのこの本、音楽におけるフェティシズムみたいなのは、日本語訳があるのだろうか。じっくり音を聴き音色を観てハーモニーを味わうことの至福は忘れ去られている。アドルノというと、19世紀の白人男性クラシック音楽至上主義などと言われることもあるみたいだけれど、それ以前の18世紀バロック音楽奏者が絶対に読むべきだといつも思う。

ギュンター・アンダースのインタビュー本も感動的だ。アンダースは、妻だったハンナ・アーレントとパリに亡命し、 戦後は広島の原爆投下にゴーサインを与えて自責の念で精神を病んだパイロットと文通し、アイヒマンの息子に公開書簡も出した。
ヒトラーのユダヤ人殲滅は、ドイツ人が階級意識に目覚めるのを回避して、みなが「アーリア人」として優越感とともに団結するための政策だったことが、「普通のドイツ知識人」意識を持っていたユダヤ人の運命をどう変えていったかによってよく分かる。
ヒトラーが、「アーリア人」を創るために「ユダヤ人」を創ったのだ。

で、アドルノとアンダースは、20世紀初めに生まれたほぼ同年なのだ。(アドルノも父はユダヤ人で、カトリックの母と結婚するためにプロテスタントに改宗したという。)

この2人のこの本を 並行して読むのは刺激的だ。

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by mariastella | 2018-08-18 00:05 |

『都市と野生の思考』

日本でおひとりさまについての対談本を買うために青山ブックセンターの新書コーナーに行った時、他の新書を2冊買った。その一つがやはり対談本の『都市と野生の思考』(インターナショナル新書)だ。

東京生まれで京大に学び京大総長になったゴリラ研究の山極寿一さんと、京都生まれで京大に学び、阪大総長を経て京都市立芸大の学長になった哲学者の鷲田清一さんによる自由な対話。「おひとりさま」の対談よりずっと楽しく興味深い。

京都に長いお二人が京都で対談ということで、「京都贔屓」がなかなかなものだ。

でも、「歴史のある景観」「伝統を残す町」の賛美には違和感がある。

京都はコミュニティが根を張る場所で、成熟した町の強靭さがある。

「この街はどこを歩いていても、そこかしこに過去の佇まいを感じる。何百年も前にも同じ場所を、今とは異なる装いの人たちが歩いていた姿が目に浮かぶ。連綿とした歴史の重みを感じれば、人はおのずと居住まいを正すものです。歴史の息吹を孕む空気が、今の世界だけ基準に考えていてはだめだと教えてくれる。(これは東京生まれの山極さんの発言)」

なぜだか、「なるほど古都ってすばらしい」と全然思えなかった。

普通なら、やはり何世紀もの佇まいが残っていて歴史上の事件や人物たちの幻を見てしまいそうなパリの町が身近に40年以上も暮らしている私にとって、

「そうだよね、豊かな文化が残る古都で歴史的なパースペクティヴを持てるのって大事だよね」と共感、同意できてもよさそうなのに。

実際、ヨーロッパの数ある大聖堂や城や宮殿、いやパリの下町を歩いているだけで、ああここはあの画家が、あの詩人が住んで眺めていた街並みなんだなあ、などと感慨にふけることは少なくない。

でも、京都についてのこの部分を読むと、なぜだかすぐに、

京都だって、応仁の乱で焼けただろ、

先の大戦で絨毯爆撃されて文化財や景観を失った町は重みがなくて強靭さもないのか、

広島はどうなるんだ、

長崎は ?

沖縄は ?

などと次々につっこみが浮かんできた。

「今、ここ」の基準にだけ振り回されるのは良くない、という山極さんの意見は正しい。

でも、「歴史の重み」のプレッシャーで「居住まいが正される」というのは怪しいと思う。

もちろん、マクロンがプーチンをヴェルサイユ宮殿で迎えたり、トランプ大統領にアンヴァリッドのナポレオンの棺を見せつけたり、「歴史の重み」で相手を圧倒するという政治的戦略もあるくらいだから、インパクトはあると思う。

「古都」は演出できるし、「商品」にすらなるのだ。

けれども、たとえば、古戦場を見て、栄華のはかなさを思う人もあれば、古代戦士の雄姿を思って鼓舞される人もあるだろう。

歴史の「重み」とか「息吹」とか言っても、その「歴史」こそ、視座によってまったく様相も変わればコンテンツも変わるのだ。

どの場所も、「失われたもの」の方が残っているものよりもはるかに多いし、そこで死んでいった人たちの方が生きている人よりもはるかに多い。

今はもうそこにないもの、見えないものに向けるまなざしこそが、今なすべきことを示唆してくれるのかもしれない。

(この本は、この部分に最初にこう反応してしまったが、家族や食や性についてとびきり興味深い話題をたくさん提供してくれる。いろいろ参考になった。後日あらためてコメントするかも。)


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by mariastella | 2018-07-12 00:12 |

復活祭と『宣告』とオウム真理教の死刑囚

復活祭、おめでとうございます。

Vénardさん、おめでとうございます。

加賀乙彦の長編『宣告』を、イエス・キリストが死刑宣告を受けて十字架刑に処せられる「受難」の復活祭前四旬節にようやく読了した。

先日も書いたが、本当に、「死刑囚」とか「余命宣告」と、キリスト教は「相性」がいいというか、キリスト教が力を発揮してくれるフィールドだ。


逆に言えば、キリスト教禁制の時代や国で多くのキリスト教徒たちが、信仰を捨てずに死を宣告されて壮絶な殉教を遂げていったのも、同じルーツだと言える。


社会的な罪があろうとなかろうと、人間の組織の大きな力によって抹殺しようとされる存在にキリスト教は寄り添ってくれる。


『宣告』の死刑囚たちの犯罪の動機を見ると、その多くは、単純な欲望充足の繰り返しがだんだんと深みにはまることが多いのが分かる。


夏には刊行される予定の私の新刊では、「神」「金」「革命」という三者、つまり聖なるもの、資本や富、暴力イデオロギーという三つがいろいろな形で偶像化されるメカニズムについて述べたけれど、その三つの周縁には、実は、ばらばらの境涯を生きる個人が日常的に欲望する多くのこと、食欲、性欲、憤怒、怠惰、見栄、嫉妬などが渦巻いて破滅のスイッチを押しているんだなあと感慨深い。


キリスト教の七つの大罪というのは高慢、激情、羨望、堕落、強欲、大食、肉欲というもので、こんなものが「大罪」なんてなんだか大仰だなあ、と思っていたけれど、『宣告』の主人公の死刑囚(実在モデルがいる)が、死刑囚になるまで「堕ちていく」過程では、さまざまな「生き難さ」を一過的にカバーしてくれるさまざまな「遊興」への没頭があった。


「アプレゲールの高学歴プレイボーイの犯罪」として有名になった事件だそうだが、七つの「大罪」が「大罪」となるのは、エゴイズムへの耽溺、アディクションを構成するからなのだと分かる。

仏教が、何よりも、この世の快楽に「執着」してはいけないと強調するのも、同じ洞察なのだろう。

それこそ「罪のないちょっとした快楽」へのアディクションが人を蝕み、闇に落とす。


そしてこれも前に触れたが、オウム真理教の確定死刑囚が処刑場のある拘置所へ移送されたというニュースのことも考えざるを得ない。

これについて、週刊新潮(私はネットで読める)で短期集中連載の『13階段に足をかけた「オウム死刑囚」13人の罪と罰』というもの(これを書いている時点ではまだ2回)を読んでいると、なおさら胸が痛む。

彼らが逮捕されてからもう四半世紀以上たつ。

元気な若者が四半世紀以上も隔離されてきた。

「尊師」として教団のトップであった麻原以外の全員に死刑免除をして、じっくりと証言してもらって、彼らを生んだ社会の病巣について共に考えてほしい、という人たちもいる。

オウム真理教家族の会がそうで、家族が「出家」した時点でカルトの被害者の会を立ち上げた人たちの会だ。



1990年代のオウム真理教の特殊な話だけではない。

1970年代にも、日本赤軍として中東に渡ってテロの実行犯になった若者たちがいたし、21世紀のヨーロッパには、イスラム過激派のプロモーションビデオに洗脳されて改宗してシリアに出かけてテロリストとなった男女が存在する。

無差別殺人だとか残虐な殺人に手をそめた「人でなし」を抹殺してすむことではない。


「七つの大罪」とアディクションは誰にでも手の届くところにある。

だから、「悪人」を罰することで「悪」を消すことなどできない。

そのために、「悪人」がいるのではなく、「悪」をそそのかす「悪魔」がいる、という考え方がある。

エデンの園でイヴを誘惑した蛇、最後の晩餐でユダの中に入った悪魔。


悪魔のささやきに耳を傾けて誘惑に屈した人の「証言」をじっくりきいて、「その後」の生き方を共に模索する方が、すでに捕らわれて四半世紀も世間と隔離されている人を殺すよりも、次の犠牲者を救うことになる。


加賀乙彦が「悪魔のささやき」という言葉を使うのは、カトリック作家としての言葉だろう。私は『悪魔のささやき』という本を読んではいないが、この中で、彼は、獄中の麻原を訪ねて、彼の退行現象は詐病ではなく、完全隔離からくる拘禁反応から来たもので、外部と接触させれば「治る」可能性はあると言っている。

このブログで重要ポイントが引用されている。


この引用文で加賀が語っていることは、そのまま、『宣告』でレポートされていることと重なる。


人にはそれぞれ持って生まれた性向もあるし、拘禁状態や死刑宣告がどのような「病」をもたらすかということはケースバイケースだろう。

今のヨーロッパには死刑がないが、つい最近、40年近く服役している終身刑の囚人を「解放」するという試みが決まったようだ。その人が監獄の外の社会で生きていくための援助と見守りがなされるという。


死刑囚にしても、終身刑囚にしても、「隔離」と「病気」をセットにして先の見えない長い時間を拘置所員や監獄医に押しつけていく社会よりも、だれにとってももう少し希望を与えてくれるようなシステムを模索していくことは大いに意味がある。




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by mariastella | 2018-04-01 00:05 |

文庫本2冊 加賀乙彦とEMシュミット

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このところ、執筆していた本の資料ばかり読んでいたので、しかも、マルクス・レーニンの著作とか革命思想についてばかり読んでいたので、これさえ終わったら、何か小説を読もうと決めていた。
他にも読む本はいくらでもあるのだけれど、「小説を読む」というのが一番ぜいたくな感じがする。
しかも、どこでも読みやすい文庫本。

どうせなら、大長編をと思って、ずっと置いてあった加賀乙彦の『宣告』(3巻本)を思い切って手に取る。
興味深いが、確定死刑囚の話なのでどうにも重い。

昔、私の本に、ある人の洗礼名を書いてサインしてくれと言われたことがある。
大阪の拘置所にいる死刑囚への差し入れだった。
死刑反対のパンフレットをもらった。
自分の本が死刑囚の独房で読まれるのかと思うと、何か責任感を感じたことを思い出す。
あの人はどうなったのだろう。

このブログではこことか
ここで書いているように私は死刑廃止論者だ。

他の雑誌にも書いたけれど、人はどうして被害者の側にだけ立って懲罰感情を抱くのだろう。

死刑のある国は、

「もしあなたやあなたの大切な人が殺されたら、あなたの国はあなたの代わりに殺人者に報復してあげますよ」

と言ってくれる国だ。

死刑のない国は、

「もしあなたやあなたの大切な人が殺人者になったとしても、あなたの国は絶対にあなたやあなたの大切な人を殺しはしません」

と言ってくれる国だ。

私は2番目の国に住みたい。

親が子供に「たとえ全世界がお前を罰しようとしても私だけは絶対に守ってあげる」と言うみたいな、人生のベースにおいての絶対肯定感をもらえて生きたい気がするからだ。

というわけで、読み続けてはいるがあまりにも気が重くなるので、並行してフランス語の文庫本も読むことにした。
お気に入りのエリック=エマニュエル・シュミットの『顔の向こうが見えていた男』で、ものすごく奇妙な物語だ。
教会のミサが終わって人々が出てきた所に起こるテロ。目撃した主人公は人の顔の向こうに、霊や天使や悪魔が見えるという超能力がある。それを使って探索が続く。
宗教と暴力、テロリズム、愛と哲学…。2016年に書かれた手記が作者のところに送られて、それが10年後に出版され、さらに2060年に作者の生誕100年に義理の娘の手で付記されて…という複雑な構成だ。シュミットは本当に転生のストーリーテラーだなあと思う。








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by mariastella | 2018-03-12 00:05 |

あけましておめでとうございます。

年末年始に少しでも読みたいと楽しみにしていた本3冊。


でも、まだほんの少ししか読めていない。

佐藤直樹さんの『無くならない - アートとデザインの間』(晶文社)

どうしても読みたいので日本から持ってきてもらった。

これは私の常日頃考えているところに直球で入ってくる。


次に、仏教徒からプレゼントされた『司祭さんがパニックになった』という小説。

フランスのカトリック信徒の共同体の様子がリアルで笑えるがいろいろ考えさせられる。

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次に、長年のお付き合いがあり、数年前に亡くなったゲシェラの書いた『私は自由チベットに生きていた』という手記。チベット仏教コミュニティはよく知っているので、この手の本もいろいろよんだことがあるのだけれど、の、いつもにこにこして、リンポチェに仕えていたゲシェラの言葉はずしりと重い。

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しかし、本がなかなか読めない。

多分、書く時間が多すぎるからだ。

目の調子が良くなってからのここ一年半位、ほとんど毎日ブログを更新している。

我ながら「ブロガー」さんみたいだ。

でも、読者のことを考えるブロガーさんたちと違って、私は、好きなことを好きなように好きなだけ書ける場所としてこのブログを始めたので、長過ぎ、分からない、情報量多すぎ、ついていけない、などとよく言われる。


執筆中の本のテーマと自然に交差することもあるから、執筆の邪魔になるということはないのだけれど、じっくり本を読むひまがないのは問題だ。

自分の持ち時間の残りを考えてしまう。


今年は少しブログをセーブするかも。


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by mariastella | 2018-01-01 00:05 |

それでも、世界は、だんだんよくなっている by スティーブン・ピンカー

私が日ごろ言ったり書いたりしている実感に、

時代と共に人間社会の暴力は確実に矯められてきている

というのがある。

核兵器だとか、過激派のテロだとか、心を病んだ人による大量殺人とか、女性や子供、高齢者、障碍者など弱者への虐待などのニュースを見聞きすると、暗い気持ちになりがちだ。

けれども、そもそも、私のような、百年前に生きていたなら立派な弱者で踏みつけにされているだろう人間が、自分の部屋でぬくぬくと、世界中の悲惨や暴力の実態を眺めて悲憤したり絶望したりするという状況自体が、人類史的に考えてもすごい。

ピケティの新資本論ではないけれど、膨大な統計を駆使して、30年もかけて、「今は昔より良くなっている」という「福音」を知らせてくれる本がある。

2011年に出たのが最近ようやくフランス語訳出版された。1000ページもある大作だ。

17ヵ国語に翻訳されているというから検索したら日本語訳は見つからなかった。

英語版はこういうの。


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「今までで読んだ中で最も重要な本のひとつ」って、ビル・ゲイツの推薦文もある。

スティーブン・ピンカーの『The Better Angelsof Our Nature』で、副題が「暴力と人間性の歴史」だ。フランス語訳のタイトルは『La partd'ange en nous 私たちの中の天使の部分』で副題が「暴力の凋落」という。序文が、フランス人でチベット仏教僧になった有名なマチュー・リカールによるもの。

人間性の中にある天使というのは、リンカーン大統領が1861年の就任演説の最後に出てくる有名な部分だ。今日本語を検索したら、

「われわれは敵同士ではなく、味方なのです。われわれは敵同士になるべきではありません。感情が高ぶっても、われわれの親愛のきずなを切るべきではないのです。思い出の神秘的な弦が、全ての戦場や愛国者の墓から、この広大な国の全ての生けるものの心と家庭へとのびていて、再び奏でられるとき、統一の音を高らかにならすことだろう。その音は確かに、われわれの本来の姿であるよい天使によって鳴り響くことだろう。」と出てきた。

まあ、今、生存している私たちは、当然、生き残ってきた人たちの子孫だ。ひどく暴力的で反社会的な人たちは長い間には社会的に淘汰されていくだろうから、全体として共生に向いている人が増えるのは社会進化論的にも当然だともいえる。

それにしても、世間では、ネガティヴな言説、危機を煽る言葉ばかりが幅をきかせている。その方がインパクトがあって「売れる」からかもしれない。

総体的に暴力の少ない社会で「国難だ、国難だ」と叫ぶ政治家もいる。

昔はよかった、過去の栄光をもう一度、という人たちもいる。

もちろん、リンカーンの言葉も、その理想とは裏腹に、150年経っても、アメリカの差別も暴力も残っているじゃないかと言われそうだけれど、たまにこういう高邁な演説を読み返すのは精神衛生にいい。日本国憲法の前文だって、現実と乖離していても、読むとほっとする。

ピンカーさん、ありがとう。




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by mariastella | 2017-10-16 01:37 |

『キリスト教は「宗教」ではない』に載せなかった部分

小寄道さんのブログ『キリスト教は「宗教」ではない』の感想を書いていただきました。

タイトルのせいでいろいろ誤解される懸念もあったのですが、直球で理解していただけて安心しました。


その終わりに、


>>>追記:4章の「宣教師たちのキリスト教」において、ロレンソ了斎という人物についてなぜ破格のページを割いたのだろう? 全体を考えると、その扱いは不思議に思えた。<<<

とありました。


それについてここでお答えします。


単に、版組のために、ページを削る必要があったので、p124の「一例を挙げよう」の後と「片目の聖徒」の間にあった他のエピソードを削除したのです。


それでも「片目の聖徒」を残したのは、「片目失明者友の会」を支援している友人へのメッセージを込めたかったからです。


で、ここに、削除した部分を再録します。前にも、新書のジャンヌ・ダルクで削除したエピソードをサイトの「ジェンダーの話」に再録したことがるのを思い出しました。ネットって便利ですね。

では、以下が、削除した部分です。(削除したのは、まあ、この部分は、歴史事実関係の記録なので、私の解釈とは関係がないから本質には影響しないと思ったからでもあります。日本のキリシタン史については私でなくとも他の研究死者がたくさんいらっしゃるのだし。ロレンソ自身の資料は貴重なものを手に入れたのでぜひ紹介したいと思いました。私にとって魅力的な存在だったので。)

(以下、単純変換ミスなどを訂正しました)



キリスト教が仏法の一派でないことが分かり仏教勢力からの激しい反発を受けた後で、宣教師ヴィレラ一行が一五六〇年末にようやく京都居住と布教の許可を得た頃の話だ。その許可を得たのも、単なる行政手続きではなく、判断を下す役人が「教えを聞いて魅了された」からだった。「お談義」と呼ばれるキリスト教教義の説明(要理)はカルト宗教のアジテーションや奇蹟のパフォーマンスとは程遠いものだった。次のような例が報告されている。

ある時、天台、浄土、神道と各宗を渡り歩いた禅学の博識で知られていた山田庄左衛門(当て字)という美濃の武士が「天主堂(教会)」にやってきた。対応にでた日本人修道士イルマン・ロレンソは、手順に従って、日本の諸宗と造物主デウスとの間の差異を説明しようとしたが、庄左衛門は笑ってこう言った。

「それらの説明は必要ない、私は禅宗であり神仏は何もない」「禅宗は四大元素を説き、第五の無(涅槃)を加えた。禅学者はその本質を明らかにしようと苦労し、千五百の公案を熟想するが、全生涯を通しても三百の公案を解決する者はほとんど見出せない。我々は中国やインドの碩学の古来よりの著作を多く持っているが、第五の元素に踏み入った者もなく安心と悟りを与えない。それについて知っていると自負する者は他宗の知識の蘊奥を極めた者をも凌ぐと信じられる。貴僧の教法はこの禅宗の核心についてどうするのか伺いたい」

ロレンソは答えた。

「それを聞いてくれて非常にうれしい。というのは毎日理性に満足も与えず役にも立たないことを説く煩わしさを免れさせていただけたからだ。貴下の言う第五元素、禅宗で考究し苦労されているものを知っているからこそ、パードレがはるかかなたの国より渡来されたのであり、それが主要目的であり最大の動機である。日本人の知らなかった第五元素の本質を少しの誤謬もなく真理に基づいて知るパードレの教えにより最終解決を与えられるのが現世における唯一の有効な方法だ。それがパードレの直接の天職であり目的であり熱望であるからだ。ヨーロッパの古代哲学者は第五元素を天と呼んだ。しかしこれも他の元素と同じく被造物だ。デウスとは無限の隔たりがある。しかし高邁なことを理解するには順序があるので、まず、被造物と目に見えるものとについて説明し、次に、すべての理性的被造物の持つ不可思議で不滅の本体、理性的霊魂(アニマ・ラショナル)とは何か、次にわれらのアニマと天使や堕天使との相違を説明しよう。これらについての認識を持ち理解された後で、それを観じ永遠の歓びのために我らを創造された最高の霊的本質(スピリツアル・スタンシアであるデウスについて話そう」

これを聞いて非常な喜びと満足を覚えた庄左衛門は、突然、紙と墨を所望した。話の要点を書きとめるためかとロレンソは思ったが、それは、さらに重要な一一の質疑を書くためで、その疑問を説いてくれれば自分はキリシタンになる、と庄左衛門は言った。ロレンソとロレンソの相談を受けたヴィレラがそれらすべてに答え、満足した庄左衛門はようやく「要理」のお談義を聞きに通って洗礼を受けたのだ。


お談義と大名布教

お談義は、世界は永遠でなく始まりがあったこと、太陽も月も神ではなく、人には理性的霊魂と知覚的霊魂とがあり、理性的霊魂が後世にも生き残ること、をまず伝え、その後の質疑応答に移る(ここで天文、博物学の知識による自然神学の弁神論が使われる)。

 次に相手の宗旨を個別に取り上げ、根拠を挙げて誤謬を是正する。それが理解されると、三位一体の玄義(ミステリヨ)、天地創造、ルシフェルの追放、アダムの原罪とデウスの御子のこの世への受肉、受難と復活昇天、十字架の玄義の力、最後の審判、地獄の戒め、天国の快楽が説明される。

これらの「真理」を理解した時に、デウスの十戒を授け、それまでの宗旨を捨てること、戒を守ること、咎を悔いることを説明し、最初の秘跡である洗礼が必要なこととその玄義を解説する。

畿内におけるキリシタン隆盛の嚆矢となった一五六三年の奈良における大名たちの劇的な入信も、同様にきわめて知的なプロセスを経たものだった。旧弊を排する進取の気風に満ちた若者や、現実に不満のある下層の民を扇動したり迎合したりするものではない。全てを言葉で説明して理解を求めるというキリスト教の布教は、一見すると、不立文字の「禅」が人気を博していた当時の武家社会とは相いれないように思えるかもしれないが、もともと日本は漢文を通して「学」を深めてきた社会だ。新しい宗教との出会いにおいてそれがどのように「言語化」されているかを確認するのは、実は、知識階級にとって不可避の欲求だった。

布教にはずみをつけたのは、松永久秀の重臣で山城守結城忠正という文武両道の達人である「老人」である。そのきっかけは、比叡山の僧徒が松永久秀に提示した「天下の治安維持策一三ヶ条」だった。そこに伴天連追放の二ヶ条が組み込まれていた。それには「伴天連居住の山口や博多は戦乱によって荒廃しているから、都から追放すべし」という言いがかりも含まれている。とはいえすでに公方(足利義輝)から宣教の認可状が出ているのだから久秀の一存で無下に追放はできない。久秀は重臣である碩学の結城忠正と清原外記に宗論させようと考えたのだ。

都の仏僧は忠正に贈賄し、忠正のような高識の学者なら、伴天連と宗論すれば二、三語で説伏できるであろう、伴天連を放逐し財産と家屋を没収できる、と、そそのかした。

乗り気になった忠正は松永久秀に、伴天連を追放するのと殺すのとどちらがよいか、と尋ねた。その時点で忠正はキリシタンにも伴天連にも会ったことがなかった。ところが、ディエゴという洗礼名を持つある信徒が訴訟事件で久永のところに来た時、結城忠正が取り次いだ。ディエゴがキリシタンであると知って、「汝の神はなんと言うか」と質問したところ、ディエゴは滔々とあざやかにあらゆる質問に明快に答えたので、忠正は深い眠りから覚めたごとく畳に手を突き、頭をさすってキリスト教を賛美し、切支丹になろう、と言って、堺にいるパードレを招く書簡を送った。

日本人の一信徒がこのように明確に尋問に対応できたということは、洗礼を授けるにあたっての教義の理解が徹底していたということだろう。「先祖代々からの宗派」でもなく、現世利益を約束する甘い言葉による新宗派による勧誘でもなく、ましてや脅しによる改宗でもない。キリスト教はその宗教の教義によって人々を知的に納得させ、決断させていたわけだ。

さて、忠正が本気で感動して書簡を送ったのに、堺のヴィレラは半信半疑で真意を測りかねた。とりあえずロレンソを遣わせて探らせることにした。奈良に着いてすぐに忠正を訪ねたロレンソを待っていたのは、久秀に指示されて伴天連を論破するためにやってきた公家の清原外記だった。ご談義と討論が数日にわたって続いた。ご談義の知的説得力は大きかった。忠正だけではなく和漢の学に通じた外記も、数日後には完全な理解に至ってキリシタンになる決意を固めた(後に忠正は主君久秀にもロレンソを合わせたが、久秀は心を動かされたものの、熱心な法華信徒であるので改宗には至らなかった。)

 六日以内に報告する手はずだったのに十日過ぎてもロレンソから消息が来ないので心配していたヴィレラのもとに、忠正からの洗礼志願の書簡を携えたロレンソが戻ってきた。洗礼には、入信希望者の自筆の願書が必要である。入信とは、「理解」、「決意」、「願い」という三段階のプロセスを経てはじめて可能になるものだったのだ。後に「踏み絵」を踏むことで「棄教」とみなされる日本のキリシタン史のことを思うと、「入るのは簡単で脱退は難しい」カルト宗教などと全く逆のものであることが分かる。

 

さらに四十日ほどして、忠正の要務が終わった時にヴィレラは奈良に来て、忠正、忠正の嫡子左衛門尉、外記、その他数名の身分ある士に洗礼を授けた。それまでの経緯を耳にしていた同じ奈良の沢城主もひそかにやってきて、二日二晩ロレンソのご談義を聞いた後、その場で洗礼を志願してかなえられた。

忠正の嫡子である結城左衛門尉は飯盛城で三好長慶に仕える放埓な武士だったが、受洗後は人が変わり、城にロレンソを招いた。好奇心からデウスの話を聴きに来た人もいたが「他の及ばざる智慧と才能、無常の記憶力」を有していたロレンソが「非常な霊感と熱をもってお談義をし、非常に豊富な言葉を用いて、典雅、明晰にして精緻」であったことに皆が驚嘆した。名談義を前にして尊敬と畏怖の念を持ち、夜昼を問わず教談が続けられてついには三好殿の重心七三名他五百人が一挙に受洗を決意した。

奈良で洗礼を受けた沢城主の高山友照も、戦乱中にありながら、妻子家臣にも談義を聴かせたく思ってロレンソを招いた。そのお談義を聞いて妻子と家臣一五〇名が受洗を決意した。

これらの経過も興味深い。今の私たちは、家父長制と主君の絆の強固な昔の日本において家長や主君が宗旨替えをしたのだから、一族郎党が自動的に宗旨替えをしたのだろうと考えてしまいがちだ。けれども、ザビエルの方針通り、「理解」、「決意」、「受洗の願い」のプロセスは、「女子供」に対してもまったく平等に適用され、求められるものだった。この時、嫡男の高山右近は十歳だった。ヨーロッパでも幼児洗礼を受けた子供が要理を学んで初聖体拝受にあずかることのできる年齢である。右近はその後キリシタン大名として、戦国時代を通して多くの功名を立てたにかかわらず、切支丹禁令に従わないことで地位や領地を失って一六一四年末にフィリッピンのマニラに追放され間もなく客死した。

右近の次の世代に幼児洗礼を受けたカトリックの子弟は、右近や友照のように「言語」によって劇的な回心を遂げた世代ではないので、家父長制度の圧迫を免れていなかったとは言えない。殉教の覚悟を固めた親や主君を見ながらあえて法に従って棄教するという選択の自由はなかったかもしれない。それでも、その後、遠藤周作の『沈黙』のモデルとなった一六三〇年代や四〇年代、日本のキリスト教を根絶するための徹底的な迫害を前にしても棄教することなく神を称えながら残酷に殺されていった信徒が多くいたのだから、知的な革新と決意の上に成り立った一六世紀後半の日本人の「回心」は本物だったのだろう。


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by mariastella | 2017-10-14 06:57 |

ジェルファニョンにミルネール、彼らはすごい

このブログにそのうちアップしようと思って書き留めておいたはずのデータが見つからなくなった。こんなことならもっと早く載せておけばよかった。

それはリュシアン・ジェルファニョンのこの本についての記事だった。還俗した元司祭で、歴史学者で、枢機卿が序文を書いている。この本は彼のたどった道を照らしてくれる。

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その後で読んだ本も忘れないうちに挙げておこう。

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の4冊。いつも明快なティモシー・ラドクリフは英語からの翻訳。しかし、この4冊の中で最も衝撃的、目から鱗の本はジャン=クロード・ミルネールのフランスとヨーロッパについての論考。アンチ西洋主義や近代、ポスト近代、文明の衝突論などがなんでもかんでも混在させてしまったものを見事にすっぱりと説明している。

「西洋の理念」が新自由主義経済などを生み出した、だからその西洋の理念を批判、否定しようというよくある説に対して、
そこで「西洋の理念」といわれているものはポストモダンのテクノロジー、新自由主義経済などが生んだ仮説の総体であって、「結果」なのだ、だから、それを批判しても意味がない。

石油がヨーロッパ以外のところで産出されたということと二度のオイル・ショックによって、「神」は中東に引っ越した。

ヨーロッパ構想はフランスの「共和国主義」の敷衍だった。イギリスが入った時点でそれは崩壊した。

などなどの解説が説得力ある形で展開する。
フランス語が読める人にはぜひお勧め。

でも今の日本を見ていると、こういうような問題意識の意義を分かってもらえるようにも思えない。

先日フランスのTVのニュースで、日本のJアラートの話に続いて、小学校で避難訓練し、サイレンが鳴ったら子供たちが机の下に隠れる、というシーンが映されていたのに驚倒した。
あまりにもカリカチュラルだ。
地震警報の避難訓練のシーンを間違えて使っているのではないかと思ったが、実際にそういう訓練があったそうだ。さすがに「本土決戦」に備えた竹槍訓練ですか、と揶揄されていたようだが。

アラートを鳴らした時点では、ミサイルがはるか上空だということが分かっていて何の防衛リアクションもなされていないというのに。第一、そんな上空にあるミサイルを迎撃する技術はまだないともいう。

そんな状況でアラートを鳴らしたり、避難しろと言ったりする政府、これがフランスだったら正気を疑われる。韓国の文在寅はカトリックで、就任後すぐにローマ法王にコンタクトして、キューバとアメリカの間で根回ししたように北朝鮮との間に入ってくれと頼んだのだそうだ。それが何らか力になるかどうかは分からないけれど、少なくともあらゆるルートを駆使して戦火を忌避する努力は見える。日本の政府はあんなトランプとしっかり組んで、国連の核兵器禁止条約にも反対するのって、リスク管理の観点だけからいっても理解できない。

時事問題を追っているとくらくらするので、次回からは、「天国」、死後の世界、神についていろいろ書くことにする。まずは「サルにでも分かる天国」15のQAをカトリック雑誌から紹介。そして最近読んだD.H.ロレンスの神に関する論考を紹介しよう。この人、とても気が合う。

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by mariastella | 2017-09-26 01:10 |

楡修平『プラチナタウン』祥伝社文庫

久しぶりに小説、しかも日本語の小説を読んだ。

最近手に入れて、日本の文庫本「読み待ち」の棚(ここには加賀乙彦さんの『宣告』やら、東野圭吾、殊能将之のミステリーなどがもうずっと置いてある)に並べる前にパラパラと目を通したら面白くてつい全部読んでしまった。

小説は仕事が一段落した時にゆっくり読もうなどと思ってとってあるのについたまってしまう。日本語の文庫はノンフィクションや科学読み物の方を先に読んでしまうからだ。後は膨大な「読みかけ本」があって、その他、仕事に必要な本を読んだり資料を作っているうちに日が経つ。

最近は、10月のコンサートのために練習も毎日しているのでますます一日が短い。

それなのに…。

本の名は楡修平『プラチナタウン』祥伝社文庫

なぜ引き込まれたかというと、

最近日本の記事を読んでいて気になっていたことの空気がすごくよく分かったからだ。

知事と都議会の関係(この本では町長と町議会の関係)とか、
公有地の無償貸与の話とか、
地元への「見返り」とか、
高齢者問題とか、

いずれも、ユニヴァーサルであるようで、すごく日本的な部分がある。

フランスもいくらでもスキャンダルなどあるのだけれど、日本とは突っ込みどころが違う。
議員の「不倫」疑惑などがフランスでは歯牙にもかけられないことなどは日本人にも想像できると思うけれど。

私は友人も家族も近い人には商社マンや政治家がいないので、日本のそういう世界についてはこれまでも企業小説や政治小説で知識を仕入れてきた。

でもこの『プラチナタウン』は、小説としての強度はないのだけれど、あらゆる意味で、ちょうどいいサイズで、町の財政再建のストーリーが進んでいく。明快だし後味もいい。

日本経済において総合商社が占めていた位置についてもノスタルジーと共に考えさせられる。

文庫の解説にもあるように、舞台となるのが宮城県であり、この小説の最初の刊行が東日本大震災以前だったことには感慨を覚える。

考えてみると風光明媚な場所の多くは、火山帯だったり海辺だったりするので、噴火、地震、津波、台風などのリスクが常にある。

折から、裕福なリタイアカップルが老後を過ごすパラダイスのようなイメージのカリブ海だとかマイアミ・ビーチなどがハリケーンによって大きな被害を受けた。

「対話」や外交努力が不可能な自然リスクがたくさんあるのだから、その上に人間同士がわざわざ武器開発をエスカレートしないでほしい、とつくづく思う。

日本の中の「都市」と「田舎」の抱える問題や、知識としては知っていたけれど日本では一戸建てでも50年経てば資産としては土地の値段しか残らず、マンションは古くなると資産価値がなくなるというのもあらためて驚かされる。
この小説でもアメリカでは築100年のビルも立地が良ければ資産価値が上がることもある、ということが紹介されている。パリ市内など一戸建ては例外だからなおさらだ。

日本で快適に年取るのにはお金がかかる、というのはなんとなく感じていた。
でも、お金さえあれば快適さや安全を変えるところだなあとも。
フランスでは大金持ちは知らないが、お金を払ってもなかなか快適さが買えない。
でも、リタイアした人が普通に暮らしていたらあまりお金もかからない。
サルコジが「ぶっ壊す」としたものをマクロンがさらに推し進めているから、これからどうなるかは分からないけれど。

ともかくこの本を読むとリバースモゲージだとか介護の話、公共事業神話、地方再生と福祉、ネットで読む日本の雑誌でもよく取り上げられることがリアリティを持って語られるので、知識が整理できる。
もちろん思いは「国家戦略特区」の今治市の議会のことにまで飛んでいくのだが。

私が日本に行く頃に解散総選挙になるのだろうか。






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by mariastella | 2017-09-19 02:19 |

良寛とアッシジの聖フランチェスコのシンクロニシティ

とても不思議なことがあった。

私は「シンクロニシティ」というのをあまり信じない。

「偶然」に意味をこじつけているような場合が多いからだ。

うまく使うと「おおこれは神のお導き」、「あなたはやっぱりこうなる運命だったのです」のようにいわゆるマインド・コントロールに悪用されそうな気がする。

でも、夕べはあまりにも意外なことがあったので、つい書き留めておきたくなった。

いわゆる共時性という意味のシンクロニシティとは少し違うけれど。

それは、ちょうど、読売日本交響楽団のプログラム誌「月刊オーケストラ」のためにアッシジの聖フランチェスコについての原稿を書き終えた時のことだ。メシアンの同名のオペラのコンサート・ヴァージョンが秋に演奏されるにあたっての企画だそうだ。メシアンについても言いたいことはいくらでもあるけれど私の担当はとりあえず聖フランチェスコの今日性ということで、参加させていただいた。

朝もキリスト教関係のことを読んだり書いたりしていたので、ちょっと気分を変えたくて、わりと近くにあった日本語の本を手に取った。

北川省一著『良寛游戯』(アディン書房刊)という本。

厚紙のケースから取り出して、本体を机の上において、なんとなく、フランス語の本の癖で、右から左に開いてしまった。すると、漢字がたくさん並ぶページの中ですぐ目に飛び込んできたのがそこだけカタカナが目立つ

「聖フランチェスコ」

の文字。

いやあ、目を疑った。

結びの部分であり、聖フランチェスコの晩年と良寛の晩年を重ねている。

さらに読んでみると、「終わりに」の部分に、この本は良寛を、荘子とニーチェを通して解釈したもので、エピクロスや聖フランチェスコも引き合いに出したのは著者が西欧文学を学んだ人だからで、良寛を宗門や郷土史の枠から解き放った人間の一原型として定立したかったからだとある。

それにしても、では本文にどんな風にフランチェスコが出てくるのかとパラパラと繰ってみたけれどそう簡単にはもう目に入ってこなかった。

さらに、40年前に出版されたこの本を書いたときの著者は今の私と同じ年。

wikipediaで調べると、東大の仏文を出た人だった。息子の北川フラムさんは、私の好きな直島の地中美術館の総合ディレクターで、娘婿がフランスのラ・ヴィレットの設計コンペにも入賞した原広司さん(京都駅ビルの設計者でもある)だった。

キリスト教における聖フランチェスコ、仏教における良寛、確かに似ている。

もっと言うと、良寛はナザレのイエスにも似ている。

すごい。いろいろなイメージがわいてきた。

北川省一さんは復員後共産党に入り離脱した人のようで、フラムさんは藝大全共闘で孤軍奮闘して中退したそうだ。宗教、戦争、革命の関係を書いている最中の私の琴線に触れる予感がする。

北川省一さんはもう亡くなっている。イエスもフランチェスコも良寛ももちろんもういない。


でも人は本によって、言葉によって、自分の人生よりずっと広く長く、自分の世界よりずっと大きく広く生きることができる。


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by mariastella | 2017-08-25 01:41 |



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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