L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:映画( 185 )

機内で観た映画 2 『22年目の告白~私が殺人犯です~ 』

『22年目の告白~私が殺人犯です~


これは、殺人者がベストセラーを出し アイドル化するシーンとそのキャラクターが強烈で、見たいなあと思っていたのだけれど、フランスで上映されそうもないので、好奇心に負けて、ネタバレの粗筋や批評をネットですでに読んでいた。

で、オチ?は分かっていたつもりで、それでも機内のプログラムにあったので見てみた。

結果は、流れがわかっていたのに、十分引き込まれるものだった。嫌味な殺人者(藤原竜也)と刑事(伊藤英明)とのタイプの差が対照的で、3人目の男(仲村トオル)も個性的で、ともかくストーリーがよくできている。韓国映画のリメイクだそうだけれど、阪神大震災が伏線の一つになっていたりして、しっかり日本映画っぽく違和感がない。


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by mariastella | 2018-11-12 00:05 | 映画

機内で観た映画1 『終わった人』

日本への往復機内で観た映画のコメントを忘れないうちに記録。


まず日本行きの便で観た邦画2本『終わった人』『22年目の告白』から

『終わった人』


これは原作も映画のことも噂に聞いていて、軽い社会ドラマかと思って見てみたら、意外に説得力があった。

定年後の男が突然居場所を失って生き甲斐を模索するというテーマ。


主人公が東北出身というのが伏線のひとつで、それはすなおに受け入れられたけれど、東大卒でメガバンクに就職できたのに途中で出世から脱落してしまうというのが日本でどのようなリアクションやルサンチマンを生むのかというのがわかるようでわからない。
この夫婦にこの娘という感じは説得力がある。


でも、この設定、まだ62、3歳。私や私の周囲のシニアから見たらいかにも若過ぎる。


舘ひろしってこんなに上手い俳優だったんだ。

でも、その気になればまだ堂々のアクションだってできそうな感じの彼が演じるから救われるので、ほんとうにしょぼくれた生気のない貧相な男がこのシチュエーションならいたたまれない気がするだろうな。


私は周りに職業人として「終わった人」が増える世代なので、身につまされる部分がないとは言えない。

でも、その中には、「終わる」どころか、ほんとうには「始める」こともしないまま年月を重ねてきた人も少なくない、というのが実感でもあるこの頃だ。

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by mariastella | 2018-11-11 00:05 | 映画

『I feel good』KERVEN et DELEPINE(ブノワ・ドゥレピーヌ、ギュスタヴ・ケルヴェン)

最近、わざわざ映画館に行って当たりはずれのない時間を過ごせるのは、アニメも暴力シーンもホラーも避けている私にとってやはり「社会派映画」ということで、『I feel good』(KERVEN et DELEPINE) を観に行った。何よりもジャン・デュジャルダンにヨランド・モローが姉弟というキャスティングに惹かれた。この二人の監督に寄せる役者たちの信頼がうかがえる。

アベ・ピエール神父の始めたエマウス共同体のワークショップでリーダーとして働く姉と、一獲千金を夢見る弟の話。

私はこれまで地方のエマウスに行ったこともあるし、ドキュメンタリーも見たことがあるけれど、この映画の舞台となったピレネーのエマウス共同体は、住居部分が不思議の国みたいなユニークさで、エキストラはみなエマウスで働く人たちだ。アトリエの様子も、あふれるモノのインパクトも、この映画ではじめて知った。

日本にもエマウスがあるけれど、エマウスワークキャンプなどの活動はむしろ縮小しているようだ。フランスのように移民や難民や不法滞在者や失業者が多い国ではなく、見かけが「日本人でない」と目立ってしまうし、ホームレスの非正規雇用が中途半端に機能しているからなのだろうか。また、アベ・ピエールの呼びかけが1954年に厳寒から始まったように、緯度的に言って、関東や関西の大都市がパリなどより温暖だからだろうか。

行き場のない元受刑者に、アベ・ピエールが「私を助けてくれないか」といって始めた活動だけれど、今は、大半がシングルの「失業者」であることが分かる。誰でもエマウスに行けば、出自も過去も問われずに、すぐに何らかの仕事を割り当てられて、わずかな給料、住むところ、食事を保障される。知的や精神的な問題を抱えた者、さまざまな発達障害をのり越えられなかった者も少なくない。けれども、ここで、連帯とは何か、生きるとは何かを見つけて、金に支配されている過酷な外部の社会から隔離された一種のユートピアを形成しているのだ。

とはいっても、カラフルなプラスティックのストローやスティックの山が持ち込まれ仕分けされるのはエコロジーにかなっているし、ずらりと並んだピアノだとか、あらゆる種類の衣服だとか、アンティック家具があふれる様子、それを修復しリサイクルし、デパートのバーゲン会場のように人々が押し寄せる目当てのものを見つけに押し寄せる光景は、たとえば自給自足の修道院だのエコロジストの目指す田園生活などとはかけはなれている。

物量そのものが共同生活を支えるというシュールな不思議の国だ。

その共同体でリーダーとして信頼を得ているのがヨランド・モローの演じるモニックで、そこにある日、タラソテラピーの無銭利用で逃げ出してきたガウンとスリッパ姿の弟ジャックがやってくる。

このジャックが、なんだかもう生まれつきの虚言癖の詐欺師という感じの男で、働かないどころか、「ルーマニアで格安の整形手術をすれば人生が変わる」というキャッチフレーズで「I feel good」というスタートアップを立ち上げて、こともあろうに、エマウスで働く人々を「勧誘」するのだ。騙す才能はありそうなのだけれど、本気でビル・ゲイツになれると信じているところは、知的な問題があるのか現実逃避なのか「病気」なのか区別がつかない。エマウスでならいくらでも調達できるスーツなど着れば、有能なビジネスマンを騙れそうなエリートっぽい外見は、髪を振り乱して働くモニックとは似ても似つかない。

モニックは、そのジャックがエマウスで働く人々の心を乱していることを知っても彼がとても「幸せそう」なのではじめは黙認していたけれど、ついに、「あんたは病気だ」と言って医者に連れていく。でも、彼女の知っている医者というのは彼らが子供の頃に通っていた老小児科医だけだ。

このシーンで、ジャックはもともと「多動症」でリタリンを処方されていたとかモニックは躁うつの傾向があったことが分かる。

彼らの両親が貧しい工場労働者で共産党員として組合活動をしていたことも分かる。

この両親の遺灰を両親から受け継いだ乗用車の中に保存しているモニックはジャックが両親の葬儀にも戻らなかったことを恨んでいる。

誰がどう見ても、ジャックがひどいやつで、モニックがかわいそう、エマウスでそれなりに生き甲斐を見つけていた人々は被害者、という構図で、しかもそれが、カリカチュアになる一歩手前の過激さでカタストロフィに向かってたたみ込まれるので、なんだかもう見ているのが苦しくなる。


けれどもカタストロフィに向かう展開が、突然、これもシュールなロードムービーになっていて、ブルガリアの社会主義時代の大規模施設の廃墟などの映像はインパクトがある。

ところが、モニックが整形手術を受けている最中という最悪の段階になって、あっという間に事態が急転する。

しかも、二転三転する。

「見た目が変わればI feel goodとなって人生が変わる」というテーマが、社会派コメディ、エマウスの精神に見事に合致するラストになる。

でも、すべてがあまりにもスピードがあって破天荒なので、「ああ、もちろん社会派コメディだからこういうハッピーエンドになるよな」というお約束感などない。

こちらもハッピーになれる。しかも、笑える。

笑わせて意思表示するというのは最強だ。(そういえばローマ教皇も大切なのはユーモアと言っていた)

このテーマを描くのにこのようなユニークなシナリオを書き監督したKERVEN DELEPINE(ブノワ・ドゥレピーヌ、ギュスタヴ・ケルヴェン)に感心する。

この2人の作品は、日本では2011年のフランス映画祭で『マムート』が上演されているようだ。(この映画もおもしろかったのでコメントが残っているはずだと思ってブログ内検索をしたのだが、見つからなかった。不思議だ。)


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by mariastella | 2018-10-12 00:05 | 映画

クロード・ルルーシュの『Salaud, on t'aime』 (2014)

もう80歳になるクロード・ルルーシュの『Salaud, on t'aime という映画をTVで観た。


死の3年前のジョニー・アリディと親友のエディ・ミッチェルという70代のロッカーが俳優として出ている。

ジョニー・アリディはリタイアした戦場カメラマンのジャック役で、世界中で知り合った女性たちとの間に娘が4人いる。その他に、20歳でパリマッチの仕事に派遣されてキューバに行った時の出会いで生まれたという50歳の娘(久しぶりに見るヴァレリー・カプリスキー)まで出てくる。

4人の娘の名は春、夏、秋、冬。フランス語だと日本語よりも不自然だ。で、ビバルディの四季の音楽も流れる。

ジャックはパリを離れてアルプスにすばらしい邸宅(敷地内に森や滝もあり、猟師が狩をしている)を購入し、不動産屋の女性ナタリー(15歳の男女の双子の母親で未亡人、サンドリーヌ・ボネール)と暮らすようになる。娘たちを呼び寄せたくて電話するが皆つれない。

作家、演出家、モデル、病院ピエロ(病気の子供たちのためのボランティア)などで忙しい娘たちは自分たちに関心をはらってこなかった父親につめたい。

彼は親友夫婦と娘を招待するが、医師であるフレデリックはジャックのかかえる孤独を哀れに思って、娘の一人に電話し、彼が難病でもう長くないと嘘をつく。

娘たちは慌てて駆けつけて、管理人夫婦も含めた総勢17人が7月半ばのすばらしい気候と自然の中で集まる。

初老の男二人がTVでリオ・ブラボーの映画を観ながらデュオで歌い出すシーンはすてきだ。


俳優としてのジョニー・アリディにはいつも感心する。

アルプスの風景に加えて、白い頭に黄金色のくちばしと脚をもつマスコット鷲の姿も印象的だ。ジョルジュという名をつけられていて、雨が降っても微動だにしない。

犬や猫やキツネも出てくる。なつかしいムスタキの曲も流れる。

4人の娘は、イランのホメイニ革命から逃れてきた母を持つ娘もいて、異母姉妹なので外見もばらばらで、それぞれ個性的だし、初老の男が家族との繋がりを求めるというテーマは世代的にまあ親近感を持てるかなあと思ってみていたら・・・なんと、衝撃の展開になって、最後の15分は完全にサスペンス映画だ。

当時の映画評はなかなかシビアで、このサスペンスをうまく回収できていないとか、金のあるブルジョアの消費ぶりを描くばかりで深みがない、などと言われたようだ。

でも登場人物だけでなく、動物も自然も音楽も含めた群像を扱う手際は見事で、退屈しなかった。

ジャックの埋葬シーンではジョニー・アリディの葬儀のことがどうしても重なって、しみじみとした思いにとらわれた。ルルーシュって、そうだ、こんな監督だったんだ、と腑に落ちる。

これは撮影風景。




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by mariastella | 2018-10-06 00:05 | 映画

ヴィム・ヴェンダース『フランシスコ教皇Pope Francis - A Man of His Word』

先日、今年のカンヌ映画祭で上映されたヴィム・ヴェンダース監督のドキュメンタリー映画『フランシスコ教皇PopeFrancis - A Man of His Word』を観た。


クローズアップのインタビューが主ということでそんなに期待していなかったのだけれど、映画館を出るときには、キリスト教徒に、ではなく、環境保護者になっていた。


ゴミの山やプラスティック廃棄物、また廃品回収のスラム街などの圧倒的な描写を映すドキュメンタリーは他にもあるだろうけれど、それにかぶせて「母なる地球を殺した」と何度も言われると罪悪感と絶望感にとらわれる。それでも、「キリスト教では、未来はひとつの名前を持っています。それは『希望』です」と言われると、「希望を持ってもいいの?」と謙虚な気分にもなる。

ヴェンダースにドキュメンタリー映画の白紙依頼が来たのはフランシスコ教皇が選出された2013年の末だそうだ。ヴァティカンとしての公式の依頼ではなくましてや広報映画ではない。

ヴェンダースはカトリックですらない。

で、「どうして私が?」と聞くと、「ベルリン・天使の詩』です」というのが答えだったそうだ。

映像の美しさなのかとも思ったけれど、天使が単にメッセンジャーとして傍観するのではなく、世界に飛び込んで変革する意志のところなのだろう。

ヴェンダースにとってその映画は宗教映画ではないけれど霊的な映画であることは間違いない。

彼は「多くの面で宗教は信仰の敵になり得る」と思っていたが、この映画の責任を引き受けることは、結果的に自分の信仰告白になったとも語る。

それだけではなく、ヴェンダースは、「キリスト教と社会主義の両方の教養と感性を持っている人」として選ばれたという。すでにフランシスコ教皇の「社会主義的感性」が明らかになっていたからだろう。

ヴェンダースはデュッセルドルフのマジョリティであるカトリック家庭の生まれで、16歳の時には司祭になろうと思っていたそうだ。

その後、ロック・ミュージックやフランスの685月革命の影響を受けて社会主義を信奉する学生となり教会を離れた。ドイツは税金の申告に所属宗教を書かせて「献金」を代理徴収する国だから、教会を離れるというのは足が遠のくというのでなく、はっきりとカトリックから離脱したということだ。

1970年代には精神分析を続けて受けて、仏教に興味を持った。この辺も、この世代のヨーロッパのインテリ左翼の王道でもあるが、「無神論者」にまではなれなかったのは、精神分析を必要としたことからも分かる。その後で父と兄を亡くしたことからまたキリスト教に接近してプロテスタントの信者となった。「死」への通過儀礼における宗教共同体の重要さが分かったのかもしれない。

ヴェンダースが影響を受けたのはオーストリア出身のユダヤ系哲学者マルティン・ブーバーで、「対話の哲学」などの痕跡が彼の映画に感じられる。

カトリックではアメリカのフランチェスコ会士であるリチャード・ロアを愛読しているという。


リチャード・ロアは多作で宗旨を超えた人気作家だけれどなぜかフランス語にはほとんど訳されていない。発想は自由で、「神」を頂点に据えて被造物の傍観者のような図式を作ったのはアリストテレス哲学の影響で、それが神と人間の交わりを阻害してきた。神とはそれ自体が三位一体という関係性であって、創造と恵みと愛は絶えることのない奔流のようなものだという。

ということで、ヴィム・ヴェンダースは、聖フランチェスコの名をはじめて選んだローマ教皇の勇気に感心した。さらに、フランシスコ教皇がアッシジのフランチェスコの精神を忠実に生きていることに驚き、共感して、それをこの映画ですなおに表現した。カトリックの御用映画だと思われないように中立性を求めて距離を置くとか批判的な目を向けるというようなことは一切していない。そもそも自分はカトリックの信徒ですらないのだから。


だから、この映画の中でフランシスコ教皇が、軍事・武器のビジネスを一切廃止せよとか、我々はモノやカネを蓄積するのでなくもっとシンプルに生きていけると言う時、全ての人の友愛や平等を説く時、かえってまっすぐにメッセージが飛び込む。

こういうことを民主主義の建前を掲げている全ての国のトップに立つ人々にぜひ繰り返し聞いてもらいたい。

今の風潮では、他の人が同じことを言っても、「現実を見ないお花畑」などと切り捨てられることが多い。

でも私たちにはいつも、アッシジのフランチェスコが必要だ。

そうしないと、本当に、

この世界から風にそよぐお花畑が消滅してしまう。


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by mariastella | 2018-09-30 01:20 | 映画

『アフリカの女王』(1951)ジョン・ヒューストン

『アフリカの女王』をArteで観た。

ジョン・ヒューストンの1951年の映画。

ハンフリー・ボガートとキャサリン・ヘプバーン主演の有名な古典だ。


これを観たのは初めてではない。

最初の時もTVの放映だったと思う。


「アフリカの女王」という蒸気船が舞台のエキゾティックなシーンのことはいろいろ覚えている。

でも、主演の2人は私の好きなタイプではない。

今回もう一度見ようと思ったのは、舞台がドイツ領東アフリカだということにあらためて気づいたからだ。

今のアフリカで中国が進出していることや、EUから離脱するイギリスがアフリカとの取引を強化していることなどの昨今の情勢を見ながら、イギリスとフランス、ベルギーなどがアフリカ大陸を「山分け」して来た歴史について近頃あらためて考えていた。

で、少なくとも、ドイツやイタリアは領邦国家だったから植民地政策に「遅れ」をとっていたなあと漠然と思っていた。そして、今はメルケルもレームダック状態だけれど、ドイツがフランスと違って移民や難民を歓待しているのは、人口減少問題など以外にも、中東やアフリカにおける「旧植民地と宗主国」という関係がないからできるのかもしれないとも思っていた。

フランスとアルジェリアのように激しい「独立戦争」という確執もないし。

しかし、ドイツが統一された後、1880年代にしっかりと「東アフリカ」(今のウガンダやタンザニアあたり)を植民地にしたり「領土」にしたりしていたのだ。

19世紀の「西洋列強」帝国主義とは本当に野蛮で、自分たちだけで「合意」して境界線を引いて「取り放題」だった。

1960代に多くの国が独立を勝ち取った時に、ドイツが「宗主国」でなかったのは、第一次大戦ですでに英仏に敗れていたからにすぎない。


で、この映画には、そのドイツ領のある村に、20世紀初頭にやってきて10年「宣教」しているメソジスト教会の牧師とその妹がいる。イギリス人だ。

そこに時々通う唯一の白人が、蒸気船で荷物や郵便などを運んで来るカナダ人のウォルナットだった。

メソジストだから、牧師も結婚できる。

それなのにこの牧師が独身で、妹も(今は死語だけど)オールドミスでオルガンを弾いているのは、宣教の使命感に駆られているだけではなく、要するに生きるのが下手で要領も悪く、自国で成功しないタイプだからだ。

実際、牧師は、自分より45歳ほど若かった仲間の牧師が国教会の主教に任命されたというニュースを新聞でみて嫉妬に駆られる。その牧師は有力者の娘と結婚したからだという。

それでも宣教に専心するのはコンプレックスの裏返しと、なんといってもそこでは文字通り上から目線の優越感に浸れるからだろう。

実際、村人を集めて聖歌の練習をさせている最初の場面では、彼らを除く全員が半裸の黒人で、ほとんど黒光りしていているショッキングな図だ。

「洋服」をきっちり来ているのが「文明」であり、「半裸」は野蛮人、未開人、土人というステレオタイプそのままで、しかもそれが見ている側にも刷り込まれているのに気づくからなおさらショックなのだ。

カナダ人のウォルナットが咥えていた葉巻だかタバコだかを投げ捨てると黒人の男たちがどっと群がって飛びつき、教会の土の床に座っていた男たちまでも次々と座を立つ。

で、戦争さえ起きなければ、ヨーロッパ人同士が合意して領土化していて、イギリス人の牧師が10年住んでいようと、カナダ人の水上運送業者が行き来しようと別に気にしないでやっていたようなのに、1914年に第一次大戦が勃発する。

牧師と妹のローズがウォルナットを通じてそれを知ったのはひと月後でしかなかった。


実際、すぐ後にドイツ軍がやってきて、村を教会ごと焼き払って村人全員を連れ去る。

しかし、ドイツ軍といっても、白人は数名の司令官で、後は全員、動員された黒人だ。

この村人たちも彼らのように兵士や要員とされるために強制徴用されたわけだ。

家は焼き払ったから戻れない。


自分の生きがいだったミッションが灰燼に帰したのを見て、小競り合いでの脳挫傷もあったのか、ドイツ軍が去った後で牧師は死んでしまう。


その後、船に乗り込んだローズたちがドイツ軍の基地の前を通過する時に銃を撃てと命令されるのも黒人兵たちだ。

ローズはただ逃げるつもりはなく、ドイツ軍に復讐するために魚雷を用意するようにウォルナットに頼む。ラストの場面でドイツの軍艦に捕らえられた時も、ドイツの司令官たちはもちろん酷薄な悪人役として描かれている。


要するに、これは、報復や戦争、暴力、そして人種差別などが満載の映画なのだ。


この映画が撮影されたのは第二次大戦後だけれど、ロケ地はまだ独立前のベルギー領コンゴだ。

そこで黒人のエキストラにこういう演技をさせている。

うーん、今の感覚でこういう背景を考えれば、いたたまれないような映画だ。

最初のシーンが音楽なしで、ジャングルの獣や鳥の声が印象的だし、船が進むときに流れる軽快な曲のオーケストレーションもいい。自然の中の動物たちの姿も迫力があるし、スリルに満ちた一種のロードムービーにラブロマンスが絡んでいて、ボガートもキャサリン・ヘップバーンも満身創痍の名演なのは間違いない。

いや、しかも、日本人のように、アフリカがはるか遠く、21世紀の今でもアフリカ支援について「何であんな黒いのが好きなんだ」と発言する現役議員がいるような国の人がこういう映画を観ても、そのシチュエーションはまるでディズニーアニメの架空の国の話と変わらなくスルーできるのだろう。

今回それに初めて気がついて、誰でも、自分の知らないものは見えてこないのだとつくづく思った。


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by mariastella | 2018-09-20 00:05 | 映画

ビリー・ワイルダーの『お熱いのはお好き』 ( 1959)

ビリー・ワイルダーの『お熱いのはお好き』(1959Arteで放映していたのを観た。

Arteだから字幕バージョンかと思ったらフランス語バージョンだった。

このフランス語訳はレイモン・クノーによるものだそうで、納得がいく。


この邦題とマリリン・モンロー主演ということで、単純なラブコメディーという先入観があって、今まで観たことがなかった。

原題の「熱いのを好むものもいる」という感じのタイトルにももちろんセクシーな含意があるのだけれど、ジャズクラブで歌うマリリン・モンローに、大金持ちに化けたトニー・カーチスが「ああいう熱い音楽(ジャズ)を好む人もいるけれどぼくはクラシックの方が好き」というセリフにもかけている。

そして熱くないクラシックを好む大金持ちは「冷感症」で、モンローが、彼の欲望に火をともすためにがんばるという設定だ。


でもこの邦題ではミスリードし過ぎ。

いろいろな含意がありまくりのこの映画が、ただの「お色気」映画だと思われてしまう。(実際、日本語で感想を検索すると、セックス・シンボルとしてのモンローの映画だと思っていた、という感想が少なくなかった。で、モンローは普通にかわいいというか、キュートだと。中には、クラシック映画を観ている若者が、同じワイルダーのオードリー・ヘプバーン映画『麗しのサブリナ』や『昼下がりの情事』も見て、ヘプバーンとモンローが重なってまだ区別がつかない、などとコメントしているものもあったので驚いた。対照的な正反対のキャラなのに。時代の差を感じる。)


あらすじは、今、日本語で検索すると、ネタバレも含めて
があった。

 

(この映画を未見で、でも、このブログを最後まで読みたいという方は先にこれをどうぞ。)


この映画、よく考えると今すごくタイムリーだ。


数年前にフランスの「同性婚」の合法化の時にも取り上げられた。

「女性同士?」のキスや男性同士の結婚について出てくるからだ。

そして今は、「セクハラ」やジェンダーについての議論にぴったり重なる。


考えてみれば、ヘイズ・コードの生きていたピューリタンのアメリカで、ナチス・ドイツから亡命してきた脚本家が、よくこんなストーリーを考えついたなあと思う。(ワイルダーは当時のオーストリア=ハンガリー帝国で今のポーランド内に生まれ、この映画のマリリン・モンローが演じる娘もポーランド系となっている)


男が、「女装」することをテーマにした初のアメリカ映画だった。しかも結局検閲の承認なしで公開されて大ヒットした。

最近のアメリカでの投票による「最も笑えるアメリカ映画」の第一位だそうで、第二位が四半世紀近くも後の1982年の『トッツィー』(ダスティン・ホフマンの女装)だという。前者は命を狙われて、後者は金のため、とどちらも、「仕方なく」女装したので「性的倒錯」ではない、という、「ピューリタン的正当化」が意識下にあるのかもしれないけれど、その二つが「最も笑えるアメリカ映画」のトップに選ばれるなんて、逆に闇が照射される感じがしないでもない。

この作品も、ジャック・レモンの役に最初はフランク・シナトラが候補に挙がったのだけれど、シナトラが女装を拒否したのだそうだ。


1929年が舞台であるセリフのところどころにも反応してしまう。


偽の大金持ちが、ウィーンのフロイトのところに治療を受けに行ったという「ウソ」も、その頃フロイトを取材に言ったというワイルダーの体験の反映だし、金持ちがシェル石油の御曹司かなんかで、急遽仕事のためにベネズエラに行かねばならないという設定も、その後のチャベスや今のマドゥローに至るまでのベネズエラの運命のことを考えさせられるからだ。


女装することになる2人のジャズ奏者は、白人の大人で体格もよく、男として最もアドバンテージのある立場にあった時には普通にやっていた「セクハラ」を、女装しただけで「セクハラを受ける側」になったことに戸惑う。

おもしろいのは、彼らが女装しても当然大柄で逞しいのにかかわらず、化粧、髪、ハイヒール、ドレス、イヤリングなどのアクセサリーに豊かな胸という「見た目」だけで、「男からの欲望の対象」になることで、しかも、その男たちが、彼らよりも「男らしく」ない。

ジョー(トニー・カーチス)を追いかけまわすホテルのボーイは、「若僧」で、ジェリー(ジャック・レモン)を追いかけまわす本物の金持ちは「年より」で、どちらも、ジョーやジェリーらより背も低く、痩せて貧相で、力も弱そうであるという戯画的設定になっている。

金持ちは年とっていても「金」があり、ボーイの方は過去のジョーと同じただの「女好き」で、これらの「鏡効果」が、大金持ちに化けてシュガー(マリリン・モンロー)を口説こうとするジョーの心境にも変化をもたらす。ジョーは、自分からシュガーに迫らずにシュガーから迫られる設定を作り出すのだ。


シュガーがジョーにキスするシーンと、ジェリーと大金持ちがラ・クンパルシータを踊るシーンが交互に移される部分はもっともコミカルな場面だけれど、そこにある込み入った倒錯はシナリオの名人芸だと言えるだろう。


ジェリーが本当の大金持ちから求婚されて、「男が男と結婚する理由」として、生活の保障のため、というのも皮肉だ。実は、ラストシーンで、もう一つ「別の理由」が出てくる。「完全な人間なんていないから」という有名なフレーズだ。


大金持ちが母親の反対で何度も別れたという以前の女たちも実は男だったのか、あるいは、もともと男が好きだったので女たちとうまくいかなかったのか、ジェリーは「男らしい女」として理想だったのか、彼が男だと知っていたのか、などといろいろ想像させる終わり方だ。

ジョーとシュガーの方は、嘘がばれて「しがないサックス奏者」だと分かってもハッピーエンドということで、お話の「軽さ」を維持するのに成功している。


この「完全な人間なんていないから」という最後の言葉は、なかなか思いつかなくて、最初は


SoWhat! (だから、何。 それがどうした?

BigDeal! ( 大したことだ。ここは反語的に大したことじゃないよ、という意味)


などを考えていたそうだけれど、英語が完璧ではなかったワイルダーの共同脚本家が


Nobody'sperfect!


を考えついたのだそうだ。

これは夫婦喧嘩に関するスタンダードなアメリカン・ジョークで

夫に腹を立てた妻が「あんたって、完全なバカね!」と言い、

夫がそれに答えて「完全な人間はいないから」というのがあるので、その後半を転用したのだそうだ。


カツラという「女性コード」をむしりとって「ぼくは男だし!」と告白するジェリーにこう答えてしまう大金持ちの落ち着きぶりは立派な「オチ」になっている。

それまでにも、さまざまな欠点をあげて「結婚ができないこと」を悟らせようとしてかわされているからだ。その中で、「子供ができないし」と言われて、すぐに「養子をもらえばいいから」と答えるところが印象に残った。


この辺も含めて、ジェンダーや性的指向や結婚観や子供を生むとか生まないとか、21世紀にも続く様々な言説が想起されるのだ。


この映画にはそれらのテーマとは別に、禁酒法時代のギャング(冒頭の7人殺しは実際にあった事件)や、いかにもシシリア・マフィアっぽい「イタリア・オペラ友の会」での「制裁」があったりして、とてもコメディとは言えない世界が描かれている。それが「女装」の倒錯や、夜行列車内での「女の世界」の描写と軽重の見事なバランスをとっているわけだ。


ふと気がつくと、ワイルダーも、私が今読んでいる最中のアドルノやアンダースと同世代でドイツ語圏に生まれたユダヤ系の亡命者だ。こういう人たちが、戦後の「文化」の立役者だったんだなあ、と今にして思いが至る。


ワイルダーと同時代のフレッド・ジンネマンも同地域からアメリカに渡った。

私が一時期、カルチエ・ラタンにほとんどの作品を観に通いつめたエルンスト・ルビッチはやや年上だけれど、やはりユダヤ系でドイツから亡命。


彼らヨーロッパ・テイストの監督たちの映画がハリウッドの黄金時代を築いたのだなあと感慨深い。


しかも、ワイルダーもジンネマンもそうだが、ドイツ語圏の多くの知識人やアーティストたちはナチスの時代にまずパリに亡命している。映画をパリで学んだ人も少なくない。フランスがあんなにあっさりとヒトラーと休戦協定を結んで対独協力しなかったら、彼らはアメリカに行かないでフランスのアーティストになっていたかもしれない。


そういうことを考えると、「フランス・ファースト」的には、現在シリアから亡命してくる才能ある人々を積極的に受け入れることの意味も出てくるわけだ。

逆に、今の「近視眼的アメリカ・ファースト」ともいうべきトランプ大統領の政策に失望しているアメリカ人の気持ちもよく理解できる。


一本の映画がいろいろなことに気づきをくれる。


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by mariastella | 2018-08-21 00:05 | 映画

テレビで見たスリラー映画2本 カトリーヌ・フロは相変わらずすごい

先日、めずらしく、というかはじめて「TV映画」というものを2本続けて観た。


いわゆるTVドラマではなく、劇場公開のない映画で再放送だ。


最初の

J'ai épousé un inconnu『私は見知らぬ男と結婚した』


というスリラーの評判が良かったのでなんとなく見始めたのだ。

主演のデボラ・フランソワはダルデンヌ兄弟の『LEnfant』で18歳の母親を演じていたベルギー女優で私の好みだし、彼女の役が未成年相手の精神医というのが気になったのだ。

私のピアノの生徒の1人が中高生専門の心理療法士で、彼女と日ごろいろいろな話をしていることや、別の知人の15歳の息子が問題を抱えていてセラピー代わりにレッスンをしたこともあるからだ。

映画は拒食症その他の問題を抱えた子供たちを扱う療養センターのようなもので働くエマと同僚の紹介で知り合ったフリーライターのダヴィッドとの結婚式から始まる。その後、エマは何者かに命を狙われるのだけれどその度にダヴィッドが不在で、警察はダヴィッドを疑う。エマは妊娠中だが、夫の過去や家族のことをあまりにも知らないことに気づく。

殺人事件の90%は顔見知りによる犯行で、そのうち、男が殺された時の62%が妻による犯行、女が殺された時は93%が夫の手によるものだという統計を持ち出してエマを守ろうとする女性の捜査官が出てくる。

確かに、よくできたサスペンス小説を読んでいるように楽しみはしたけれど、パトリシア・マクドナルドの原作小説も多分同じようにおもしろいのだろう。

で、なんだか拍子抜けしていたら、コマーシャルもなくて突然次のテレビ映画が始まった。


La Tueuse caméléon『カメレオン殺人者』Josée Dayan Catherine Frot, Julie Depardieu, Jeanne Balibar)というものだ。


しかも、のっけから、仲良さそうにしていた女性の二人組のうち一人が相手をあっさりと撃ち殺してしまう。そしてその殺人者があのカトリーヌ・フロなのだ。

この人が主演であるだけで強烈な磁力に捕らわれて最後まで見てしまった。


3ヶ月後の次の犠牲者役がドゥパルデューの娘ジュリーで、この人も独特の持ち味がますます濃縮になり、殺人者の毒牙にかかるまでの2人の辛みが興味深い。


後で調べてみるとシナリオや構成などが結構批判されている映画なのだけれど、全体がリアルなのかシュールなのか分からない独特のリズムと雰囲気で、そこに、女性捜査官の執念のエピソードが何度も挿入されるのも始めは不自然に感じたけれど、後で納得できた。


そして、その捜査官を演じているのが、『バルバラ』の主演だったジャンヌ・バリバールだ。この人は、哲学者の父と物理学者の母を持ち、アンリ四世校からエコール・ノルマルに進学した超エリートなのに、その後もコンセルヴァトワールやコメディ・フランセーズなどでも活躍し、歌手としても活動するという多才な人だ。

倒錯者の役がはまるカトリーヌ・フロと正反対のタイプで、とにかく「かっこいい」に尽きる。最後にこの二人のそれぞれの闇が交錯するのがどきどきさせる。


これは実在の事件がモデルなのだそうだ。

この映画ではフランス人女性がイタリアに渡るのだが、実在の「カメレオン」は、イギリスに渡ったNY生まれのアメリカ人女性のシリアル・キラーで、最後はやはり追い詰められて2003年に60歳で自殺したので、その心の動きの真相は誰にも分らないままだったという。イギリスでは完全にブリティッシュのアクセントを習得し、カメレオンというのも彼女の自称だった。フロリダの女性判事がずっと捜査していたという。

この実話はwikipediaで読むだけでも驚きの展開(日本語では見つからなかった)なので、それに比べると確かに映画の構成は中途半端と言えないでもない。

でもカトリーヌ・フロ―の怖さが半端ではないので、最後までしっかり観てしまった。

結局夜9時すこし前から零時過ぎまで、スリラー映画を2本続けて観たことになる。捜査側の男と女の人間関係や、精神分析や心理療法のシーンなど微妙に似ているシーンもあるので、なんだか妙な気分になった。

これを書いている時点(2018/6/30)では二本ともネットで全編を視聴できることが分かった。フランス語が分かるカトリーヌ・フロのファンは試してみてください。



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by mariastella | 2018-07-24 00:05 | 映画

『ヒロシマ、そしてフクシマ』(追記あり)

小寄道さんのこのブログでフランス人監督によるドキュメンタリー映画『ヒロシマ、そしてフクシマ』紹介されていた。


その最も印象的だと言われる部分を、監督のサイトで観ることができる。

福島の女性たちが必死で訴えるこの箇所は、男性の観客にとって映画の印象や、その好き嫌いが別れる場面だったのだそうだ。


確かに、「男性には想像力が足りない」と決めつけているのはジェンダーバイアスだともいえる。

想像力が足りない、というよりも、男性には、「想像力を働かせ、行動に反映させる」ことを阻む社会的な構造や圧力がより強く働いているということだろう。


弱者の身になって寄り添うという行動パターンには、次世代を残すという類的な利点があるから男女ともにあるはずだ。

でも「テリトリー」(地位や財産も含む)を守るという行動パターンの方は「オス」に顕著だから、自分のテリトリー外の弱者の立場への想像力を封印してしまうことが多いのかもしれない。


この場面での女性の訴えのインパクトは強烈で、受けて立つ役人がどうしてこんなに無感動をよそおえるのかと感心するほどだ。


けれども「男性には想像力が足りない」とジェンダー仕様にすることで、「当事者と役人」の構図が、「感情的な女性と冷静な男性」のような構図にすり替えられてしまうリスクが高まった。


それでもこれを見ると、「当事者と傍観者」として、災害に対する想像力の大切さをあらためて考えさせられるので一見の価値はある。


追記) フクシマの女性による批判の言葉のうちで、「男性には想像力がない」と最初に書いたのは、正確には「男性には想像力が足りない」だったので訂正しました。

足りない?想像力でも、それをどこにどのように働かせるかが問題とされているのは言うまでもない。「お役人の姿」は感情も想像力も封印しているかのようでほとんど気の毒なくらいだ。私は想像力が豊か過ぎるので、もしこの若い方の役人が自分の息子だったら後で何を話し合うだろう、などと考えてしまった。


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by mariastella | 2018-07-18 00:05 | 映画

『La promesse de l’aube』(夜明けの約束)と『Ôtez-moi d'un doute.(疑いを晴らしてください)』

帰りの機内で観た映画 その3


フランス映画『La promesse de laube』(夜明けの約束) エリック・バルビエ監督。


イヴ・サンローラン役がはまっていたピエール・ニネと、シャルロット・ゲンズブールという二人のユニークな性格俳優が母と息子の年代記を演じる。


ピエール・ニネはなんとなくスラブ顔だが、ゲンズブールはポーランド人に見えない。いや、実際は、彼女の演じるニーナ・カツェフはロシア人の元女優で、息子が生まれた頃はポーランド領とされていた地域に住んでいたが、ユダヤ人でロシア正教に改宗しているらしい複雑な背景だ。


1980年に66歳で自殺した人気作家ロマン・ガリーの自伝が原作で、母親は息子を一人で育てているが、何としても息子にフランスで一旗あげてほしい、父親はフランス人であると強調する(実際のロマン・ガリーの父はユダヤ系ロシア人だったらしいが当時のアーティストたちにとってはフランスは憧れの祖国的存在だったようだ)。


で、14歳で母子そろって憧れのフランスのニースに移住するが、母の期待を受けて小説を描き続け、しかし、第二次大戦がはじまって空軍のパイロットとなり、その後でイギリスに逃れて「自由フランス」のレジスタンス戦士として活躍するなど、波乱万丈の生涯を送る。


これも、ヨーロッパの複雑な歴史と地政学的状況、文化、宗教、ロシアとロシア革命、二度の大戦、反ユダヤ主義などの背景が具体的な一組の母子の運命を通して浮きあがってくるのが面白い。


この手の背景は、「昔の話」ではなくて「当事者」が今でもいくらでも「再生産」され、研究も深まるので、「映画的ごまかし」はきかないから、かなり本気で制作されている。

母子関係だけを見るととんでもない「鬼母」で、教育的に絶対「正しくない」圧力のかけぶりで、息子は絶望的なマザコンだけれど、激動の時代に異常なテンションとボルテージ、執念と強迫と才能とが火花を散らしてフランス文学の「天才」作家が生まれた。その何かが足りなくて時代の犠牲になった無数の若者たちがいたことはいうまでもない。

最後がごくシンプルなフランス映画のコメディ『Ôtez-moi d'un doute.(疑いを晴らしてください)』だ。


女性監督のカトリーヌ・タルディュー。


今や名優となりつつあるフランソワ・ダミアンに、すっかり熟女になったセシル・ド・フランスなどが出ている。

バック・ミュージックにヴィヴァルディの二台のマンドリンの協奏曲とか、モーツアルトのオペラとかが効果的に使われているのが印象的だった。


親族間の遺伝子検査で父親と血がつながっていないと知ったブルターニュの不発弾回収者エルヴァンはやもめだが、育ての父親も愛しているし、妊娠中の娘も愛している。母はもういない。


しかし私立探偵をやとって実の父について調査し始める。

それらしいと分かった老人のもとを訪ねてうちとける。その前に偶然出会った女医に惹かれるが、彼女はその老人の娘だった。ということは異母兄妹という関係かもしれない。

他にいろいろな人間関係が絡むのだけれど、お涙頂戴でもなく笑い飛ばすわけでもなく、ぎりぎりのところで知的でエレガントに仕上がっていて、それには主演の二人の「品」が寄与している。


特殊な家族関係のドタバタでありながら、ヒューマンドラマになっているところに好感が持てた。


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by mariastella | 2018-06-27 00:05 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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