L'art de croire             竹下節子ブログ

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『アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲』クロード・ルルーシュ

3年前の映画。相変わらずがんばっているルルーシュの映画はなんだかさすがに新鮮味が感じられなくて最近見ていなかったが、仕事が一段落したのでなんとなくTVで視聴した。


原題は『Un + Une』つまり、有名な『男と女』の原題『Un homme et Une femme』の冠詞だけを残した感じ。


でも実際は、『男と女』の3年後の69年にベルモンドとアニー・ジラルドというキャラの合わない男女が引かれ合うという『あの愛をふたたび Un homme qui me plaît (1969)』(既婚のフランス女優とイタリア人の妻がいる作曲家がアメリカで恋に落ちるストーリー)という映画をどちらも好きだったジャン・デュジャルダンとエルザ・ジルベスタンの二人が、このようなストーリーをやりたいと監督に話して実現したものだそうだ

趣味や感受性やライフスタイルが似ている者同士のマッチングを図るネットの出会い系サイトやパートナー・サービスとは違って、実は違う者ほど惹かれ合うというフランスっぽい愛の定義に合っている。

ルルーシュは男と女の力関係の駆け引きをボクシングの試合のラウンドのように構成したという。

前に『À bras ouvertsで、ブルジョワのアーティスト夫人を演じたのが印象に残ったエルザ・ジルベスタンがインドにいるフランス大使夫人役で、こういうある意味の俗物役がこの人にはよく合っている。

大使は60代になったクリストフ・ランベールで懐かしく、登場場面は少ないのになかなか癖があり凄みもある。

主人公はこの映画を撮った2015年には人気絶頂だったジャン・デュジャルダンだ。


いきなり宝石店の強盗シーンから始まる冒頭のインパクトはなかなかのものだし、

そのエピソードにヒントを得た「インドのヌーヴェル・バーグ」風の監督が白黒写真で「ジュリエットとロメオ」という映画を作るというサイドストーリーもおもしろい。インドが舞台のロード・ムービー風という売りどころも分かるし、色彩豊かでエキゾチックで効果的なのも認める。でも、正直言って、「貧しく見えても人が生きるために生きている」国、「不幸の受容がある」国、正直で寛大で、インドに行くとヨーロッパ人のエゴイズムが叩きのめされる、と感嘆するルルーシュの「上から目線」のヴァリエーションみたいなものが鼻につかないでもない。


ルルーシュと組んできたフランシス・レイやミシェル・ルグランらへのオマージュでもあり、ルルーシュは彼らの音楽を通して神が表現しているのだ、などと言っている。(この映画の音楽もフランシス・レイだ。)

インドの群衆の様子と、実在の女性カリスマであるアンマの話も重要なファクターになっている。このアンマについては前に書いたことがある。

TVでこの映画の放映が終わって、二人の主人公やクロード・ルルーシュがゲストになってインタビューされながらルルーシュ映画を振り返る番組が続いた。ルルーシュの若々しさには驚く。80歳の老巨匠というより、まるで若者のように生き生きしている。この映画も当時78歳の監督がはるばるインドで撮影したのだからすごい体力だし、カメラワークひとつとっても、無邪気なくらいの生き生きした感嘆が伝わってくる。

けれども、映画が、もともとオリエントの霊性を研究していた夢見がちのフランス人女性と、合理的で自分の才能と才覚だけを信じている現世的な男との出会い、となっているのだけれど、そのどちらにも共感できない。

そんな二人を楽しそうに撮っている恋愛映画の名手というルルーシュ(この映画を久々の名作だという評もある)の若さには感心するけれど、全体にフランス人の悪い意味での軽さがインドを通して透けて見える。

主人公が自分のことについて「arrogance à la française」などと認めるシーンがあるが、そう、まさに、フランス人のエレガンスと自虐趣味と微妙にセットになっている独特の傲慢さが、全編を貫く軽さから匂い立つ。

大群衆の中の一人になった後で「たったひとり」としてアンマに抱擁されて「覚醒」するとか「再生」するみたいなスピリチュアル体験にもひいてしまう。

このアンマという人、こんなことを毎日、何年も続けていて、どういう心理状態にいるのだろう。

「先進国で心の病んだ人、疲れた人ご用達」という現実を見るだけで距離を置きたくなる。

アンマに抱擁してもらいたくないし、ルルーシュはすごいけれど、別に友達になりたくない、と思った。


これはフランスに来たアンマとルルーシュの抱擁のyoutube (広告が先に出た場合はskipした後)。



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by mariastella | 2018-05-23 00:05 | 映画

『フランス組曲』2014 ソール・ディッブ監督

『フランス組曲』2014ソール・ディッブ

イギリス人ソール・ディッブが監督で、英仏ベルギー、カナダ合作のいわゆるヨーロッパ映画。


1940年、ドイツ軍占領下のフランスの地方都市で、進駐軍の責任者の一人である中尉に部屋を提供せねばならなかった屋敷に大地主の夫人とその嫁が住んでいる。夫人の息子は消息を絶ち、後に、捕虜になっていることが分かる。

村人は家賃や地代の取り立てに厳しい大地主の夫人に日頃恨みを抱いているので、立派な家に住んでいる人はドイツ軍を住まわさなくてはならないからいい気味だと思っている。

住民たちの日頃の恨みや嫉妬などがさまざまな「中傷」の密告の手紙となって中尉のところに届けられる。

もちろん、若い男たちの消えた町に、若くてたくましいドイツ兵たちが来たのだから、女たちの心も騒ぐ。


町の名士である子爵は金をつかませることで自分の城からもう一人の士官を出ていかせて農場に泊まらせる。その農場には足が悪くて出兵できなかった男と妻と子供たちがいる。士官は妻に言い寄り、いろいろあって男は士官を殺す。


逃げた男を48時間以内に発見できなかったので、「身代わり」「見せしめ」に子爵が公開処刑される。(この子爵が、フランス人役の主要キャストの中で唯一のフランス人俳優ランベール・ウィルソンだ)


男を匿ったのは、息子が捕虜になったことを知った地主夫人だった。


嫁は彼をパリのレジスタンス本部に連れていく。町を出る許可は中尉にもらった。

しかし、検問所で男を隠した車のトランクが開けられようとして…

という展開だ。

金の亡者に見える冷たい地主夫人(私の好きなクリスティン・スコット・トーマス。バイリンガルなのでフランス映画にもよく出る)が、最初は嫁を見下しているが、息子が捕虜になったと知った時に、同年配の農場(彼女に地代を払う小作農)の男を匿ってパリにやる、そのまま嫁を解放することにもなるという心の変化。

多分ユダヤ系の娘で、音楽学校を出て父親から送られたピアノを嫁入り道具に持ってきたが、息子が帰るまで音楽なしと言われてピアノに鍵をかけられてしまう、嫁のリュシール。彼女を演じるのがアメリカ人で、『ブロークバック・マウンテン』でも葛藤する人妻のいい味を出していたミシェル・ウィリアムズ。クリスティン・スコット・トーマスの感情を出さない高慢なブルジョワ夫人と対照的なキャラでその彼女も、抑えた演技で好ましい。

そして中尉はベルギー人俳優で、なんだかプーチンを若くしてハンサムにして背を高くしたようなカリスマと落ち着き、冷静さがある。で、彼は軍人の家系に生まれ、兄弟たちも戦死しているが、本業は作曲家で、自分の作曲した曲をリュシールのピアノで弾く。

これはもう心をつかむ。


「もてるには楽器を一つ自由に弾けるのがてっとりばやいなあ」

と思ってしまう。


で、もうこれだけで、二人は二人の世界。

戦争だろうが何だろうが同類だと気づき、分かり合えるのだ。

しかも中尉のところに来た非難中傷の手紙の中には、リュシールの夫ガストンには町に愛人も子供もいることが書かれていた。中尉はそれを黙っていたが、それを知らされたリュシールにとっては、もう姑さえ怖いものではなくなる。

まあ、その他、戦争中という特殊な状況下におけるいろいろな心理劇や人間模様があるのだけれど、いわゆるプレス評価があまりにも低いのは不当だというほかはない。


多くのメディアでは

「ドイツ占領下の禁断の愛」

「ステレオタイプのロマンス」

「サルでもわかるドイツ占領下のフランス」

などと、もう古臭いテーマであるように切り捨てられていた。

「サルでもわかる」と言われるのは当たっている。

これまでも、確かにドイツ占領下のフランスを舞台にした映画はたくさん見てきた。

もっと複雑な心理劇もいろいろあった。

でも、この映画ほど、なんだか、その場に居合わせるような生活感を感じたものはない。

たとえば、今のフランスは「夏時間」になると太陽時間より2時間ずれる。太陽が一番高くなるのは正午ではなくて午後2時だ。

そのわけは、ドイツ軍占領時代にドイツ時間に合わせて一時間時計を早めたのを維持したまま、さらに夏時間で時計を進めるようになったからだというのは知っていた。それを知った40年以上前は、ネットなどなかったので、どうして、占領下でドイツに押しつけられた時間をフランスはずっと採用したままなのかを不思議に思ったけれど調べなかった。まあ光熱消費の経済的合理性(夏時間もそのために導入された)からだろうとは思ったけれど、どういう「条例」などがあるのかあったのか分からないままだ。

で、この映画で、まさかと思っていた地方都市に突然ドイツの戦闘機がやってきて爆撃し、駐留軍がやってくる。彼らが真っ先にしたことは、広場の時計台に上って、時計の針を一時間進めたことだった。そして、中尉がリュシールの家に来た時も、最初にしたことが、「あ、いいですか、時間に遅れると困るので」と一応断って、リビングの時計の針を自分でさっと一時間進めた。ドイツ兵はドイツ時間で動いている。それだけのことだ。

この「時間の支配」の暴力が、実感を持って、住民たちに彼らの世界はもう彼らのものではない、と分からせる。

今までの占領映画、レジスタンス映画にもそういうシーンはあったのだろうか?

あったのに覚えていないとすれば、私の感受性が変化したのだ。

ここを見ただけで、これはメロドラマではなく反戦映画だと思ってしまう。

「サルでもレジスタンスにしてしまう映画」だと思う。

それは別にドイツ兵が悪くてフランスの住民が被害者だというものではない。

「秩序」が破壊された時には、すべての人が持っているはずの善良な部分も破壊される。

恐怖や憎悪や迎合や保身ばかりが突出するのだ。

リュシールを大切に思う中尉も、自分の権力の及ぶところでは協力できるけれど、いったん上からの命令があれば子爵の銃殺刑の号令をかけなくてはならない。

中尉が残したのはリュシールのために作曲した「フランス組曲」という作品の楽譜だった。

組曲は、前奏曲にさまざまな舞曲を組み合わせたフランス・バロック・スタイルの曲だ。


「フランス組曲」というネーミングに万感の思いがこめられている。

この映画の原作は、1940年にブルゴーニュの村でドイツによる占領を経験したユダヤ系フランス人(ウクライナ生まれで、ロシア革命の時にパリに亡命してきた)のイレーヌ・ネミロフスキーという人のフランス語の小説だ。すでに人気ある小説家だったそうだが、1942年にアウシュヴィッツで歿し、収容所で書き続けた自筆原稿が50年後に娘の手によって発見されて出版された。日記だと思われてしまいこまれていたのだそうだ。

戦争の始まりからつかの間の愛、を経て、「抵抗」、「解放」、「平和」と続く壮大な歴史小説の構想があったようだが、実際の著者は終戦を待たずに殺されてしまったわけだ。

もっと評価されてよい映画だと思った。






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by mariastella | 2018-04-20 00:05 | 映画

『マドモワゼル・パラディ』とメスメルと心霊治療

日本に行く前に片づけることがいろいろあることと、ストの影響などで、多分観に行けないけれど、興味のある映画が先週封切られた。


オーストリアのバルバラ・アルベルト(Barbara Albert,バーバラ・アルバート)監督作品で、『マドモワゼル・パラディ』という、実話をもとにした作品だ。


1777年のウィーンに、2歳の頃から徐々に視力を失った18歳の全盲の女性ピアニストが超絶技巧で社交界をにぎわせていた。この女性が、「動物磁気」による治療で有名なフランツ・アントン・メスメルによって視力を一時的に回復したが、それと共に、ピアノの腕前が落ちたという話だ。

メスメルはドイツの医師でババリアのイエズス会の大学で神学の学位を取り、ウィーンで法学と医学を学んだ。カトリックのハプスブルク家のウィーンと相性がいい。

1768年、ウィーンで裕福な貴族未亡人と結婚して、音楽家たちのメセナになった。ハイドン、グリュック、モーツアルトらが出入りした。


「動物磁気」理論を立ち上げて、体の中に電位差を作って流れを促し病気を治すようになった。はじめは鉄分を服用させた後で体に磁石をあてるという方法をとっていたが、やがて、手をそっとかざしたり、触れたりするだけで治療するようになった。いわゆる催眠術療法の始まりとも言われている。

カトリックのエグゾシスト(悪魔祓師のタイトルを持つ司祭)ヨーゼフ・ガスネールによる治療に関する意見をミュンヘンの科学アカデミーに対して科学的でないと報告し、自分の治療の科学的根拠を主張した。

それでも、後に、メスメルの治療を受けて、回心体験をして信仰に入った人がいるエピソードからも、少なくとも「心身症」に対するメスメルの治療とエグゾシストの悪魔祓いへのリアクションには共通点があるのかもしれない。

このメスメルの生きたウィーンでは、貴族の娘マリア・テレジア・フォン・パラディスが、サロン・コンサートで注目を集めていた。

もちろん、彼女の目が不自由で楽譜も鍵盤も見えないのに驚くべき記憶力と技巧で楽器を弾くという「見世物性」もあったことは想像に難くない。

で、彼女が満17歳だった1876年の末から数ヶ月、メスメルが、何度も彼女に動物磁気治療を施したという。福音書にあるイエスの奇跡の治療と違って、目に手を触れるだけで一気に物が見えるというのではなく、何度も一対一のセッションを重ねたらしい。

そして、一時的に視力が回復したことでマリア・テレジアは動揺し、ピアノの技巧を失い、結局、メスメルの治療を打ち切ったという。

映画はその間のドラマを、バロック後期のウィーンのサロンを華麗に再現しているそうだ。主役のマリア・テレジアはルーマニアの女優で、迫真の演技だそうだ。



メスメルは自分でも楽器演奏ができて、特に、クリスタルのガラスボールを半音ごとに並べたグラスアルモニカという楽器演奏を治療に使ったという。

このクリスタルの独特の音が、脳神経の何かに作用するらしく、赤ん坊が死んだり、精神不安定になったりする人が続出するということで「悪魔の楽器」としてウィーンで禁じられたのにメスメルが使い続けていたということで、彼は追放される。(記事の終わりに視聴できます)


その後、革命前夜のパリの社交界で大成功するのだけれど、その頃にはもう一対一の治療より、集団催眠のようなショーになっていて、いわゆるヒステリー症状も起きた。

メスメルは一応当時の医学の学位も持っていた医師だったが、今では完全にオカルトの分野にカテゴライズされている。

それでも、ユゴー、ゴーチェ、ネルヴァル、ジョルジュ・サンド、バルザックなどというロマン派の大作家たちがこの「メスメリズム」に大きな影響を受けた。

革命とナポレオン戦争を経た19世紀ロマン派文学や音楽において、フランス文化人やブルジョワは「民族性」に向かうことなく秘教的(エゾテリック)なものに向かい、心霊術や心霊治療は一種のサロン・スノビズムの中に一定の位置を占め続けてきたのだ。

いまメスメルについて日本語で検索してみたら、なんと、このメスメリズムについて、

>>>明治時代に日本に伝わり、日本の伝統的テクニックと融合して昭和初期まで大流行した。この一連の民間療法は霊術と呼ばれた。新宗教では「手当て」「手かざし」「浄霊」などと呼ばれる。<<<

と書いてあった。いろいろな「霊能者」の霊力の証ともされる「手かざし」はメスメリズムとのハイブリッドだったのか。

一対一の心霊治療、これを私は8年近く前にフランスでも日本でも渡り歩いた。


ブログ『たかが、肩』20109月から12月にかけて、いろいろな「実験」について報告している。


それをするようになった動機とスタンスはここここ

いろいろあるが、

フランスの手かざしバイオ・エネルギー治療については

一回目二回目

日本の心霊治療の典型はここここ


いやあ、今読み返すと、実にいろんなことを試したけれど、その当時はなぜかメスメリズムのことなど考えもしなかった。

ましてやメスメリズムと日本の心霊治療とがつながっているなどとは。

(続く)

これはメスメルが治療の一環に演奏したというグラスアルモニカの再現。



これを聴くと心身症状が現れる人が続出し、悪魔の楽器として禁止されていたのが復活した。クリスタルの響きも悪くないが、指を濡らしてこするという弾き方が官能的だ。




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by mariastella | 2018-04-14 00:05 | 映画

ガース・ディヴィスの『マグダラのマリア』

先日、ガース・ディヴィスの『マグダラのマリア』を見た。

ガース・ディヴィス作品では、前に『ライオン 25年目のただいま』を機内で見た

ように、オーストラリア出身の監督だが、この『マグダラのマリア』はイギリス映画で、フランスの俳優も重要な役で出ている。フランスの役者と言っても、トルコ人のチェッキー・カリョー(なつかしい。1984年の『年の満月の夜』は、封切後に急逝したパスカル・オジェと若かったファブリス・ルキーニとの三角関係が強烈な印象を残したエリック・ロメール映画だ)やアルジェリア系の若手の名優タアール・アイムなど、癖のある人ばかりだ。

この映画については内容的に突っ込みどころが多すぎるのだけれど、少しずつ書いていく。

まず配役だけコメントすると、監督がそのカリスマ性で彼しかいない、とイチオシだったというホアキン・フェニックスがナザレのイエスを演じているのだけれど、カリスマ性がどうとかいうより、外見がものすごく老けていて、43歳だというが、クローズアップも多くて、しわが深く刻まれた顔はとても33歳のイエスに見えない。体もがっしりし過ぎている。


これまでいろいろなイエス・キリスト受難系の映画を観たけれど、一番違和感があった。

彼もヒロインのマグダラのマリアも青い目だけれど、それは気にならない。


今の時代の中高年は見た目年齢が昔の七掛けだというから、2000年前にパレスチナで紫外線を浴びて暮らしていた男なら33歳でも今の43歳の外見かもしれないけれど、でも、とにかくイメージとかみ合わない。

母の聖母マリアもまだ40代の終わりくらいのはずだけれどえらく老けている。

まあ息子の外見と釣り合っているとはいえるけれど。

ペトロを演じるのが黒人俳優。

ミュージカルや映画の『イエス・キリスト=スーパースター』でユダ役を演じて歌ったカール・アンダーソンが黒人だったのが印象的だったことを思い出した。


で、イエスが、この映画で「特別の使徒」として並べて扱ったのがペトロとマグダラのマリアで、黒人と女性、というわけで、なんだか、その後のキリスト教の白人男性世界の実態を思うと、これも「政治的公正」の配慮なのか、などと思ってしまう。

もっとも、ナザレのイエスがユダヤ人であることさえ認めたくないというヨーロッパ系キリスト教徒だっていつの時代もいたわけで、ヒトラーなどはイエスがアーリア人だと言っていた。


タアール・アイムのユダは悪くない。彼は30歳だが、それこそなんだか七掛けで20歳そこそこに見える。このユダのローマ兵への憎しみは、なんだかISに家族を殺されたシリアのキリスト教徒の痛哭のようで、真に迫る。

でも、このユダの若々しさ、みずみずしさ、と並ぶと、ますますイエスの「渋い濃さ」が際立って、違和感が消えない。

最後まで、ほとんど何の感情移入もできない珍しい「受難」映画だ。


「マグダラのマリア」とされてきた女性は聖書の中に出てくる三人の女性を591年にグレゴリウスが「罪の女」に一括りにしたのが、2016年に「復権」して、「使徒の中の使徒」「復活のイエスに最初に立ち会った人」と宣言されたし、フランスでは遺骨まで崇敬されているユニークな存在だ。


マグダラのマリアの聖書外伝とフェミニズム神学をミックスしたのがこの映画の視点だと言われているのだが…(続く)






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by mariastella | 2018-04-09 00:05 | 映画

セドリック・カーンの『祈り』La Prière (アントニー・バジョン主演)

セドリック・カーンの『祈り』を復活祭の聖週間に観た。


監督は信仰がないと言っているが、まるで修道院のドキュメンタリーか『神々と男たち』2010 みたいな雰囲気だ。


無名の俳優ばかりで撮影された『祈り』で、主人公の麻薬中毒の青年トマを演じた小柄で童顔のアントニー・バジョンがベルリン映画祭で主演男優銀熊賞を受賞した。

22歳だが、高校生くらいに見えるトマが麻薬のオーバードーズで、更生施設にやってくる。

薬物やアルコール中毒者を立ち直させる施設というのはいろいろあるが、宗教的な祈りや瞑想に特化して、修道院のように世間と隔離して祈りと肉体労働だけを何年でも続けることができるというカトリック系の施設がある。それをモデルにした映画だ。

私物を没収されて、一人にはなれず規律を守らなければならないという意味で、刑務所のようでもあるが、実際は、出ていくと言っても、また戻ってきても、黙って迎えてくれる。

新参者には「守護天使」と呼ばれる先輩のメンターというかチューターが同室で同じ仕事でずっとついてくれる。


でもトマは最初は禁断症状で苦しみ、その後も、慣れない労働を投げ出し、みんなが敬虔に祈って助け合い、赦しを請い合い、赦し合う天使のような雰囲気にキレて、悪態をつき、暴力を振るって出ていく。

ここまでの描写がすごくうまい。監督は、ここまでのところで、観客がトマの方に共感できるように作った、と語っているのが成功している。

つまり、せっかくこんなに善意の塊のすばらしい施設に迎えられたのに、反抗している自暴自棄のトマ君は自分の幸運を分かっていない、馬鹿だ、

と思うのではなく、

何だ、この施設は。神学校ですか。ユートピアですか、

みんな若くて健康で助け合って、善意の塊で、嘘っぽくて、カルトっぽくて、偽善者っぽくて、怪しくて、なんだか信じられない、こんなところでだまされちゃいけない、私だって耐えられない、


と「トマ」の側に立ってしまう。


で、トマは、ふもとの村に降りてきたものの、泊る所もなく、ある家のドアを叩くが、そこの人たちは、上の施設からの「脱走者」たちに頼られるのに「慣れている」らしく、まあ好きなだけいてもいいよ、みたいに言ってくれるのだ。

そして翌朝、その家族の娘である考古学の学生と会う。


彼女は、その施設からそうやって脱出する人は必ずもとの中毒地獄に戻る、あそこに戻った方がいい、と忠告してくれる。

反抗心の塊のようなトマ君、若く可愛い娘から軽蔑もされずに対等に話しかけられることで、たちまち心の何かが動かされる。

彼女の車で施設に戻る。


ここまでも、「なんだ、結局、祈りやなんかよりも、女の子の力って偉大だなあ」と思ってしまった。


で、施設に戻ったトマ君にそれからもいろいろな試練や不思議なことが待っていて、天使のように見えていた他の若者たちも、強烈な痛み、苦しみ、絶望を抱えていて、別に神を信じているとか、本気で祈っているとかというわけでもなく、宗教感情とはセラピーの有効なツールだと意識されているのが分かってくる。


それは司祭やカトリック関係者も同じで、彼らは若者たちを改宗させようとか、改心させようとか、信仰に導こうとかを目的にしているわけではない。

では何かというと、ひたすら、若者たちを「生かしたい」と思っているのだ。

実際、思春期から続く深刻な麻薬中毒は若者たちの精神も肉体も蝕みつくして、彼らは死の一歩手前のところを救われた。

これには「更生」と言っても、治療の「終わり」があるわけではない。

特に若い頃からの中毒患者は、脳に決定的なダメージを受けている。

再び奈落に堕ちないための綱渡りのような生き方しかない。


その綱渡りを支えるのは、とりあえず、労働と祈りで頭と体を飽和させ、互いに、助け合い、赦し合い、支え合うという「天使」のような生き方しかないのだ。


彼らが天使のように生きているのは、そうする以外には「死」しかないからなのだ。「善く生きる」か、「死ぬ」か、以外に選択肢がない。

「善く生きる」とは労働と祈り以外には、少しでも誰かの役に立つという実感の積み重ねしかない。

最初に模範的で屈託のないな神学校の生徒たちのように見えた若者たちは、実はサヴァイヴァルの賭けの途上だったのだ。


強制的に収監されているわけではないから、反抗したり規律を乱したりするのは、即「出ていく」ことにつながり、外の世界は「死」なのだ。


実際、この施設で何年も模範的に生活して修道士のような平安さをたたえている若者も、そこを出て、社会復帰できる自信がない。いや、自信をもって出て行って、再び中毒の罠にはまって死ぬ者もいるし、ぼろぼろになってなんとかまたこの施設に戻ってくる者もいる。施設では、何も聞かずにただ扉を開けて仲間との生活に入れてくれる。

これらはカトリック系の寄付によって運営されているので、採算の問題のようなものはない。


祈りや聖書の言葉や典礼や労働や愛や友情は、避難所であり、命綱であり、ぎりぎりのいのちそのものだ。

で、高校も一年で退学して中毒者となり施設でも問題児だった主人公のトマくんは、そこでまた別の形の命の危機に遭遇し、真の「祈り」を体験し、なんと、神学校に入って司祭になる、と宣言するのだ。

そうやって出ていく彼と、残る仲間との別れのシーンは、「死」とは何かを知った若者たちにとってのそれぞれの「選択」を思わせて、胸が熱くなるものだ。


でもそうやってトマ君が向かった先は…。

若者たちの演技がすばらしい。




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by mariastella | 2018-04-03 00:05 | 映画

ダニー・ブーンの 『La Ch'tite famille 』

大ヒットした『シチィにようこそ』の続編をダニー・ブーンが作った。

あれからもう10年になるんだそうだ。


ダニー・ブーンはすっかり「ビッグ」になった。

3人目の妻とロンドンに住んでいるそうだ。


今回の 《La Ch'tite famille》(シチット・ファミリー)は、続編といっても、ノール県の方言、訛りをめぐってのフランス内異文化衝突コメディという共通点はあるものの、話はまったく別のものだ。前作が、マルセイユの男がパリをとばして北の果てに行くというシチュエーションだったのに対して今回は、パリのブルジョワ社会とノール県のプロレタリアのコントラストということで、先行上映されたノール県では、紋切り型にすぎる、馬鹿にしている、と批判の声もあったらしい。


シチィの人たちは、発音がはっきりしない訛りが強くて話が通じない。

主人公は20年前にうちを出てパリで成功し、ミラノで出会った美しいデザイナーと結婚している。世間的には、自分は孤児だと言っている。

立派な回顧展に、家族が突然やってきて、その後で妻の父親の車にはねられて17 歳以降の記憶を失ってしまった。完璧に身につけていた標準語も、ブルジョワのマナーも妻徒の出会いも忘れた。


カリカチュラルだ。

でもやはり、ダニー・ブーンはうまい。


役者もそろっているが、親子兄弟という家族をめぐる人情噺と三組の夫婦(主人公ヴァランタンとコンスタンスという成功したデザイナー夫婦、ヴァランタンの兄夫婦、老いた両親)の愛の絆に説得力があって、笑いと涙のバランスがよくとれている。


最後に父親がジョニー・アリディの歌をシチィ方言で披露する。

そういえば、ジョニー・アリディも父親がベルギー人で「北」フランスと相性がよくダニー・ブーンとも仲が良く、いっしょに映画をやる予定もあったという。




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by mariastella | 2018-03-21 00:05 | 映画

『Apparition(聖母)ご出現』グザヴィエ・ジャノリ/ヴァンサン・ランドンの

グザヴィエ・ジャノリとのヴァンサン・ランドンの『Apparition聖母ご出現』


ヴァティカンにはじめてやって来たジャーナリストに


「教会は、いつも、偽のご出現を認定してしまうよりは、真のご出現をスルーする方を好むのです」


と説明する聖職者。


文書庫には、これまでボツになった無数のご出現、奇跡、超自然現象についての調査記録のファイルが並ぶ。

2年前と1年前にフランスで聖母のご出現を見たというアンナは今は18歳の見習い修道女で、普段は修道院で羽根布団の製造を手伝っている。舞い上がる夥しい量の羽毛が天使の羽根のようでもあり、雪のようでもあり、作業中にアンナが倒れる時に噴きあがる「運命」みたいなものにも見える。


アンナの信用度や精神状態について執拗な調査がなされる。

教会当局は基本的に安易な奇跡が嫌いなのだ。

イエス・キリストがこの世で起こした奇跡や復活以外に、「信じる」ための奇跡を必要としてはならない。


フランス南東部のご出現の場所には、すでに巡礼グループがブラジルなどからも押しかけている。シーツに血のシミのついた妙な「物証」みたいなものも掲げられている。アンナが出席するミサでは人々が彼女に触れたがる。

ご出現の場所における経済効果に関心を持つ者もいるし、アメリカからやってきてインターネットを通してアンナをブランドにしようと企てる男もいる。

160年前のルルドの洞窟での聖母ご出現に立ち会ったベルナデットの身に起こったことと同じ。それを現代に置き換えている感じなのだけれど、別に160年前だから人々が簡単に信じたわけではない。むしろ、社会全体に「無関心」が多い今よりも当時の方が反教権的な雰囲気は強かったし、教育も受けていない貧しい少女ベルナデットに向けられる軽侮や不信も今よりも激しかった。


私はこのルルドについてもう20年以上前だけれど『奇跡の泉ルルドへ』という本を出した。


章立てが巡礼、聖母出現、聖女出現、聖地出現、奇跡出現、と続く。

普段は、自分の本の検索など絶対にしないのだけれど、今この本を検索してみたらコメントに引かれた私の言葉があって、なんだか、その思いは全然変わっていないなあ、と思った。

そして、聖母や聖女や聖地や奇跡の出現が望まれ、生み出されていく過程の人間的なメカニズムも永遠に変わらないなあと思う。


で、聖母ご出現の調査についての優れたドキュメンタリーといえるほど充実したこの映画を今さら見ても、私にはあまり意味がないのではとも思ったが、意外にも、すばらしくおもしろかった。

百件以上のご出現調査の記録をもとにしたというこの映画をすぐれて今日的にしているのは、「信仰」や「宗教」そのものに懐疑的なジャーナリスト役を社会派の名優ヴァンサン・ランドンが演じているところだ。


彼の演じるジャックは、優秀な戦場ジャーナリストだったが、15年コンビを組んできたカメラマンの殉職にショックを受けてフランスに戻ってきて引きこもっている。そこにヴァティカンから電話があり、話を聞きに来てくれと言われ、アンナの審査に加わることを引き受ける。

ヴァティカンで参考文献として読むようにと手渡される本が、私の持っている本ばかりだった。奇跡礼賛の本ではなくてフェイクはいかにして作られるか、というケース・スタディが中心だ。

ジャックは現地で、神学者や精神科医や司教区から派遣されたエクソシストの神父やらからいろいろなレクチャーを受け、独特な用語の飛び交う彼らの話を聞くのだが、ヴァンサン・ランドンは、その「目」、「視線」だけで、ジャックの懐疑や違和感、それが変化していくのを見事に表現している。

ご出現を見たという少女アンナは、模範的で落ち着いていればいるほど、何か怖い。純粋なのか、下心があるのか、犠牲者なのか、挑発者なのかよく分からないインパクトもすごい。彼らをとりまく人々の造形も素晴らしい。


「信仰は自由で明晰な選択なのです。証拠があるところには神秘はなくなります」とジャックに語る女性精神科医もいい味だ。


ヴァティカンから無認可のまま巡礼地になった場所にやってくる人々の中に、病気なのだろう子供を抱いた父親の姿が見える。

聖母出現と奇跡出現を期待してやってくる人々の姿のインパクトは、実在の巡礼地と同じだ。

「信じていない人」がルルドに行った時、病気の人や病気の人のために祈りに来ている人たちの大群を見ると、不思議なことに、


「こんなの、どうせ治らないのに、こいつら、本気で信じているのか ?


などとは思わない。


そもそも、「信じていない人」が聖地に足を踏み入れた時点で、「聖地に呼ばれた」不思議が働くかのようだ。

「人間って悲しい、でも、人間ってすごい」

という感慨にとらわれる。


この映画は、終始、合理主義者であるジャーナリストの目を通して描かれているわけだが、巡礼地にいる間に起こる彼の心の揺れに同調できる。

監督のグザヴィエ・ジャノリは、これまでにも、

『A l’origine』で嘘から本物の活動家になってしまう詐欺師(フランソワ・クリュゼ)や、

『偉大なるマルグリット』で音痴なのに立派な歌手だと思い込む貴婦人(カトリーヌ・フロ)などを通して、虚実をめぐる人間性の不思議を描いてきた人だ。


文学部にいた頃はユイスマンス(自然主義から印象主義へオカルティズムからミスティックなカトリックに転向した小説家)に夢中だったというから、この映画を作った時のテーマへの向かい方も想像できる。

聖地がらみ、奇跡がらみ、聖人伝がらみの映画は、ただただ精神的なもの霊性を喚起するか、あるいは、無神論、合理主義の側から揶揄するか、ひたすら別世界のお話として提供するか、というのがほとんどだけれど、この映画のスタンスはまるでサスペンス映画のように「真実」を探っていく。


主人公ジャック自身のシリアでのトラウマへと回帰していく偶然、シンクロニシティもあって、ご出現の真偽調査とは別の次元での「徴し」を、「意味」を、見出していく過程も、言葉ではあまり説明されないのに説得力がある。


でも、それだけだったら、変な話、私でもシナリオが書けそうだと思うのだけど、実は、それらすべてとは別に、「もう一つの物語」が織り込まれている。

アンナの運命について意外な展開の後、さらに、衝撃の結末があるのだ。


この映画はシリアで始まり、シリアで終わる。


シリアの難民キャンプで夫と赤ん坊と共に救援活動に従事するメリエムは、教会の教義やら奇跡調査の中で不安定になっていく旧友のアンナとは遠く離れたところで、人の命の尊厳に寄り添って生きている。

ジャックがメリエムの夫に見せるために持って行ったものは、ヨルダンとの国境に近い荒野にある修道院にあったカザンのイコンの複製で、そに描かれた聖母(ロシア正教では生神女)の両眼は弾丸に打ち抜かれて闇の穴のようだ。

この映画が日本で公開されることがあるかどうかは分からない。

でも、この映画の「ネタバレ」を含んだコメントはしたくない。

それが「ネタ」であるとともに、そこからまたすべてが別の様相で見えてきて、それは「全体」と深くかかわっているし、人間とか宗教とかのあり方も深く考えさせてくれるからだ。

オリジナルの音楽の宗教的ではない感じも対照的ないい効果を出しているのだけれど、ここぞという時にすごい迫力で流れるバッハの無伴奏チェロ組曲のプレリュードには、やはりこれしかないなあ、と思わせる。モンドンヴィルの曲の使い方もフランス映画だと感じた。


数ある「奇跡」映画の中で、歴史に残る作品となるだろう。


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by mariastella | 2018-02-26 00:05 | 映画

『Les pieds dans le tapis』(ペルシャ絨毯につまづいて)

先日、年末から続いたイランのデモ行進が話題になっている時、Arteでイランとフランス合作映画Les pieds dans le tapis』を観た。les pieds dans le tapisというのは、se prendre les piedsdans le tapis (絨毯に足を取られる、つまづく、うっかり失敗する)という表現と、主人公のモルテザがペルシャ絨毯の製造販売の会社の跡取りだということをかけている。


イラン映画は深刻なものばかり見てきたが、これは珍しくコメディだ。

モルテザは特に中国に向けての販売を受け持っていて中国語も話す。経済封鎖のせいで経営は難しく、従業員がストをするのに、社長である父は毎年恒例の泥スパ保養のために韓国に行っている、はずだったが、フランスの地方都市で急死したと知らせが入る。

モルテザの妻との関係、一人娘の婚約式での両家総出の様子、テヘランの排

気ガス公害などのディティールもおもしろい。

モルテザは母親といっしょにフランスに渡る。地方都市だからテヘランより空気がよい。母親はフランス語ができて、ワインを作る市長の弟から言い寄られ、母が通訳してくれないのでモルテザは中国人女性の通訳を雇う。中国語とフランス語の通訳だ。モルテザはその中国の女性(国に4歳の息子を置いてきているフェミニスト)から言い寄られる。

フランスのお役所仕事で、遺体をイランに返すことが経済封鎖の貿易禁止に引っかかるかどうかを確認しなくてはならないなどと言われて困惑する母と息子。

また、父は、レストランで倒れた時に40がらみの金髪女性とウェディングドレスの写真を見ていたという証言がある。その女性は自閉症患者のセンターを経営していることが分かり、訪ねていく。父はそのセンターのためにずっと寄付を続けていたのだった。

実は、父はフランスで医学生だった時代に出会ったフランス女性との間に子供を二人作っていた。二人目の男の子が自閉症だと分かり、女性と協力して自閉症センターを開設する。

金髪女性は父の最初の娘だった。

でもその後でイランに帰った父は母に恋をして結婚し、フランスでの医学も捨て、母子も捨ててペルシャ絨毯商人となったのだ。しかしその後、時々フランスに来てはセンターで子供たちとも過ごしていたわけだ。父には夭折した自閉症の弟がいた。

モルテザは中国人通訳を介して、「ギャング」に、父の遺体を病院から盗み出す依頼をする。「ギャング」だというから「アラブ人」かと思っていたら、元ボリショイバレーのダンサーや医者や宇宙飛行士やエンジニアからなる亡命者グループなどだったという今のフランスの社会風刺もある。

今風と言えば、スマートフォンでのやりとりが効果的に使われているのがうまい。音楽もいい。

最後はコメディらしいドタバタも少しあるのだが、別に特に「共感」できるわけではなく、カルチュラル・スタディみたいなおもしろさの映画だったが、私にとって特別な縁のあるイランの来し方行く末のことを考えていたところだったので、興味を惹かれた。

こういうすごく国際的な設定なのに地方色全開の映画を作れるのはフランスだからこそだなあ、と思う。


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by mariastella | 2018-01-21 00:05 | 映画

まさかのジョニー・アリディ

「全フランスが泣いている」式のジョニー・アリディの死にまつわる狂騒を冷ややかに見ていた私が、いやでもいろいろ目に入るので考えさせられたことがある。

まず、彼の葬列と葬儀。


下は、マドレーヌ寺院での葬儀。離婚歴のあるピアフが教会での葬儀を断られたのとは隔世の感がある。

事実婚も含めて5人の伴侶がいたジョニーの葬儀を司式したのはパリの補佐司教、事実上のトップ。

ジョニーがちゃんと洗礼を受けていた、つまり神に愛されていたことを強調し、ジョニーがジャーナリストのインタビューに答えて「どう思われてもいいけれど僕はキリスト教徒のままだろう。イエスが僕にはらをたてたりしないのは確かだと思う」と言っていたことを紹介した。外の大スクリーンでミサの様子を見ていた群衆も微動もしないで真剣に聞いていたそうだ。



これ等の画像を見ていて、ショックだったのは、圧倒的に「白人のフランス」だということだ。


もちろんニュースなどでは「全フランスが泣く」のにふさわしく黒人やアラブ人やアジア人の姿も映されてはいたけれど、ジョニーの死を嘆いて実際に集まる人のほとんどは白人だ。


ほとんど、トランプ大統領の就任式の中継を連想した。


トランプ大統領を英雄視する人たちとジョニーを英雄視する人たちは、「白人」が多いということだ。

パリのように普段はとても国際的でいろいろな人種が混在している場所で、圧倒的に白人が集まり、地方からもわざわざ出てきているのだ。


それを思うと、今さらだけれど、2015年の初めにあったシャルリー・エブド事件の後の「表現の自由」を掲げる共和国デモ行進の「白人率」に思い当たる。

あの時は、ねらわれたのがカリカチュアを掲げる週刊新聞の編集会議で、人気のカリカチュア作家たちが特定宗教の「冒涜者」だとされて殺されたのだから、政教分離と信教の自由と表現の自由を国是とするフランスの共和国主義が大反発したのは理解できる。


世界各国の首脳がやってきてオランド大統領と共に行進した。そこにはアラブ諸国の首脳もブラック・アフリカ諸国の首脳も並んでいた。だから、特に「白人」という意識はなかった。「全フランスが思想テロを糾弾する」という言い方は自然だった。


でも、確かにあの時も、移民の子弟の多いリセなどで黙禱を拒否したり、SNSでイスラム過激派を擁護したりするような生徒がいたこともニュースになり批判されていた。

信者数でフランス第二の宗教となっているイスラムの信者のコミュニティは、自分たちもフランスの共和主義を是とし、過激派を弾劾する、と言っていたけれど、それでも、デモ行進に積極的に参加することの心理的ハードルの高さを語った人もいた。


その時は、テロにも屈することのない表現の自由の国フランス、というのに満足していたし一種の高揚感も覚えていたので、全体主義的な同調圧力は感じていなかった。


それから、10ヶ月後に、無差別多発テロが起こり、次の年にはニースのテロがあり、どちらも多くの外国人がいて、ムスリムも犠牲者になった。

それはもはや「表現の自由」ではなくて、サッカーの試合を見たり、音楽を聴いたり、カフェで談笑したり、海岸で花火を見たりという「楽しんで生きる自由」への挑戦だったので、非常事態宣言がなされたせいもあるが、もう1月の大規模デモ行進のようなものはなく、犠牲者への追悼も、災害の犠牲者への追悼のようになった。

テロも、フランスの共和国イデオロギーへの挑戦というよりは、中東のISを掃討しようとする「有志連合」への報復だという文脈で語られるようになったからだ。

「楽しんで生きる自由」を謳歌できるのは新自由主義経済の諸国だから、実は、その弱肉強食のシステムの中で疎外されていく人々の怒りや絶望をどうするかというアプローチももちろんなかったわけではない。けれども、「一般人の無差別殺傷」が絶対悪だという事実と、強化される「安全対策」による縛りとが、論点を見えにくくしてしまった。

その後で、まさかのトランプ大統領の登場。

「アメリカ・ファースト」に熱狂するプア・ホワイトとか中西部のラストベルトの人々の姿。

黒人スポーツ選手たちのレジスタンス。


あれに比べたら、フランスはずっとましだよなあ、共和国ユニヴァーサリズム支持が行き渡っている、と思えた若いマクロン大統領の登場。


で、今回、ジョニー・アリディの死に慟哭し彼を崇める「全フランス」。


その人たちの映像が、すごく「白人」率が高くて、地方から駆け付ける人も多くて、トランプ支持派のイメージと重なった。

ジョニーがサルコジを応援したように政治的に「保守」シンパであることはもちろん誰でも知っていることだけれど。


彼の死とそれについての言説の中で、今まで見えてこなかった何かが見えてくる。

 

もう一つは、特別番組として2005年制作のローラン・チュエル監督の『 Jean-Philippeジャン=フィリップ』という映画がTVで放映されたのを観たことだ。

ジョニーが俳優として悪くないのを知っているし、共演のファブリス・ルキーニが名優だからなんとなく見てしまった。


ジャン=フィリップというのはジョニーの本名だ。(ラモーと同じ名前 !



ストーリーはファブリスという男がジョニーの歌を外でやかましく歌っていて殴られて気を失うことから展開する。

ファブリスは、ジョニーの大ファンで膨大なグッズを持っているコレクターだ。でも、病院で目を覚ましたら、そこはジョニーの存在しないパラレルワールドだった。

他のすべては妻子も含めて同じなのに、ジョニーがいない。ジョニーのいない世界には耐えられない。

で、本名から検索し、ようやく、ボーリング場を経営している60歳のジャン=フィリップを探し当てる。

妻に去られかけていて、息子と二人暮らしの、疲れの見える初老の男だ。

ファブリスは仕事もやめてジャン=フィリップをジョニー・アリディに育て上げる決心をする。

ジョニーの歌は歌詞もメロディもコードも全部覚えている。

ジャン=フィリップは若い時に書いた歌詞をファブリスがすらすらと書くことに驚く。

ジャン=フィリップはジョニーとしてデビューしようとした時に交通事故に遭って、歌手になる人生を40年前にあきらめてすべてを封印していたのだ。

それから、筋トレも含めて、ファブリスが必死にジャン=フィリップをサポートする。

しかしそううまくはいかない。絶望した時にわざと殴られてこの世を終わらせようとするけれど、気を失っても元の世界に戻れない。

でもジャン=フィリップが斃れているファブリスを助けてくれた。二人の間にはいつか友情と信頼が生まれていたのだ。

で、いろいろあって、最終的に、ジャン=フィリップはサッカーの大スタジアムで突然歌って観衆の心をつかむのだけれど、ファブリスは殴られて気を失う。

気が付いたら自分のうちのベッドの上。

会社に行かなくては、と慌てて出社するが、みんなにじろじろと見られる。

おそるおそる、「ファブリス・ルキーニさんですよね」と言われてサインを求められる。

また別のパラレル・ワールドに来てしまったのだ。

携帯が鳴る。

ジョニーからだった。

実際に友人同士である歌手のジョニー・アリディと俳優のファブリス・ルキーニが生きる世界に降り立ったというわけだ。

二人はデュオで歌う。

現実と虚構が重なったり移ろったりとかなり芸の細かい脚本だ。


若い頃の夢を封印した60歳の男に、そのポテンシャルを信じさせて、彼がなるはずだった者に短期間に仕たてあげることができるのかか、自信と自信喪失と信頼と懐疑、情熱と希望と夢。


ファブリス・ルキーニの演技がうまいのは知っているが、若い頃の事故という偶然で人生を棒に振った男の哀愁と尊厳を演じるジョニーはなかなかのものだ。


そうか、この、破天荒な生活を続けたロックンローラーの秘める、ある種の無防備な弱さというものに人々は惹きつけられるのかもしれない。

夢見ていた人生を送ることがかなわずに初老の域に入ったジゃン・フィリップと同年配の「白人」たちに、夢を見続けさせる何かをジョニーは持っているのだ。


ジョニーは最初、この作品を拒否したそうで、ルキーニも断ったという。

でも、友人同士である2人は、互いに、互いの共演ならということで最終的に引き受けたという。

大いなるお遊び、贅沢な遊びといえる映画だが、ジョニー・アリディがフランスの国民的歌手であるという前提を共有していなければ分からない。

ジョニーのファンは確実に動員できるということでフランスでは商業的に成り立ったのだろう。

これからDVDなども売れるだろうな。

やぼなことを言えば、一卵性双生児だって40年も別の環境で別の暮らし方をしていたら外見も含めて違いが出てくるものだから、パラレルワールドで無名の男だったジャン=フィリップが、60歳になって、いきなりロックスターのジョニー・アリディに変身できるのか、あるいはそれをファブリスに確信させる要素を持ち続けているかというのは、説得力が少ない。

ジョニーはジョニーのままだ。

それでも、ジャン=フィリップの悲哀と底に秘める尊厳とやさしさとをにじませる演技はなかなかのものだった。


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by mariastella | 2017-12-16 00:05 | 映画

『外国人』The Foreigner マーティン・カンベル監督/ジャッキー・チェン、ピアース・ブロスナン

『外国人』TheForeigner マーティン・カンベル監督/ジャッキー・チェン、ピアース・ブロスナン

ジャッキー・チェンが政策に加わった英中合作映画。



60代に入ったジャッキー・チェンがまだアクションで活躍する映画は最近『カンフー・ヨガ』を観てそれなりに楽しかったが、こちらは娯楽映画というよりかなり深刻だ。

ジャッキー・チェンの演技がすばらしい。こんなにいい役者だったのだなあと今更発見した感じ。それに、彼のようなアクションスターでいつリタイアしても優雅に暮らしていける財産もあるだろうに、いろいろな作品へのチャレンジが続くのはすごい。このような人が活躍を続けられる「国境のない映画界」は捨てたものではない。


ロンドンのチャイナタウンのレストランの経営者のジャッキーは、高校生の一人娘のショッピングに付き合って、車から降ろして待つことにしたが、店に入った娘は爆弾テロに巻き込まれて死ぬ。「真のIRA」による犯行宣言が出された。

IRA(アイルランド共和軍)はイングランドに対して「武装闘争」を繰り返してきた。その過激だった時代をテーマにした映画に『父の祈りを』があり、前に数回にわたってコメントした

1998年のベルファスト合意以来、IRAのテロは一応終わり、元のメンバーが首相になっているという設定だ。19年も平和を保ってきたというのに、分派した過激派「真のIRA」の無差別テロによって政治的危機に陥るのは過去の闘士であるリアム・ヘネシーで、その役を演じるのが元007役者のピアース・ブロスナンだ。

彼は本当にアイルランド出身だそうだ。そういえば初代007のショーン・コネリーもスコットランド人アイデンティティを掲げているし、「英国紳士」なんてとてもひとくくりにできない。

ともかく、往年の007と往年のクンフーのヒーローが対決するこの映画は、ロンドンという国際都市で、1984年に移民してきた初老の男(だから何の危険もないと最初は見逃されるが実はベトナム戦争でUSに特殊訓練を受けたゲリラだった)と、一見「立派な英国紳士」だがやはり過去にはIRAのゲリラでテロ攻撃にもかかわった歴史的マイノリティの立場にある男、という、国籍があっても「外国人」であり続ける二人を「対決」させた。

亡命の途中でタイの「海賊」に襲われて娘二人を失うというつらい過去を乗り越えた男が、最後に恵まれた末娘、産後に妻も亡くし、たった一人残った家族である末娘の「復讐」を誓う。

IRAのメンバーや旧ゲリラたちも、多くの家族を失ってきた。


それら「過去の闘士」たちの抱く歴史の痛み、運命への怒り、が並び、重なり、うねりとなる。

ふたつのストーリーを同時に見ていると、ジャッキー・チェンがブロスナンに「あんたたちはカトリックなのに」と言うシーンがあるのだけれど、不正や悲しみや恨みや復讐の意志などは、宗教も人種とは実は関係がないと分かる。

宗教や人種や国籍などは排除や憎悪や攻撃の口実だったり、契機であったりしても、本当の理由ではない。ロンドンでのテロと言うと、近頃はもちろんイスラム過激派のテロを思い浮かべてしまうが、この映画でISではなくIRAを使ったのは、その意味で大いに意味がある。

テロの後のシーン、暴力シーン、撃ち合い、殺人など、ヴァイオレンス満載で、プロの警備員たちが復讐劇に巻き込まれていくのは不当だとしか言えないけれど、最後は、一応のカタルシスと一応のハッピーエンドとなる。

黒人の警察リーダーと中国人の移民と政治家という3人の中心人物が、最終的に互いの苦しみや立場の中で「絶望」の淵には落ちていかないし落とさない強さがありそうなのが救いと言えば救いだ。


この映画の上映には不思議な噂があって、その中には宣伝を自粛させているというものがある。

フランスの緊急事態宣言下、カタルーニャの独立騒ぎ、イスラム過激派のテロや、一匹狼のテロリストなどのいろいろな問題があるところに何かピンポイントで「不都合な」部分があるのだろうか、と勘繰ってしまう。警察の特殊部隊が生き残ったテロリストに自白させた後でその場で撃ち殺すシーンも「不都合」だろう。007も「殺しのライセンス」だけれど、軍隊も特殊警察も諜報員も、結局は国家による「司法抜きの殺人装置」として機能しているのが現実なのだ。


考えてみると、私のごく近くにはチベット、中国、ベトナム、イラン、スペイン、アルゼンチンなどからフランスに来た人たちがいる。中国人の友人はカンボジアでクメール・ルージュに銃を突き付けられた、と言っていた。他の人たちもみな大変な目にあってきただろう。アルジェリア戦争後に成人したフランス人や戦後生まれの日本人は、なんだかんだと言っても「戦争」を直接体験しないで生きることができた。

こういう映画を見ると、その僥倖をあらためて感じるし、残された時間で何をすべきかという自問に別の方向から光が差してくる。






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by mariastella | 2017-12-03 00:05 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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