L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:映画( 177 )

『ヒロシマ、そしてフクシマ』

小寄道さんのこのブログでフランス人監督によるドキュメンタリー映画『ヒロシマ、そしてフクシマ』紹介されていた。


その最も印象的だと言われる部分が監督のサイトで観ることができる。

福島の女性たちが必死で訴えるこの箇所は、男性の観客にとって映画の印象や、その好き嫌いが別れる場面だったのだそうだ。


確かに、「男性には想像力がない」と決めつけているのはジェンダーバイアスだともいえる。

想像力がない、というよりも、男性には、「想像力を働かせ、行動に反映させる」ことを阻む社会的な構造や圧力がより強く働いているということだろう。


弱者の身になって寄り添うという行動パターンには、次世代を残すという類的な利点があるから男女ともにあるはずだ。

でも「テリトリー」(地位や財産も含む)を守るという行動パターンの方は「オス」に顕著だから、自分のテリトリー外の弱者の立場への想像力を封印してしまうことが多いのかもしれない。


この場面での女性の訴えのインパクトは強烈で、受けて立つ役人がどうしてこんなに無感動をよそおえるのかと感心するほどだ。


けれども「男性には想像力がない」とジェンダー仕様にすることで、「当事者と役人」の構図が、「感情的な女性と冷静な男性」のような構図にすり替えられてしまうリスクが高まった。


それでもこれを見ると、「当事者と傍観者」として、災害に対する想像力の大切さをあらためて考えさせられるので一見の価値はある。


[PR]
by mariastella | 2018-07-18 00:05 | 映画

『La promesse de l’aube』(夜明けの約束)と『Ôtez-moi d'un doute.(疑いを晴らしてください)』

帰りの機内で観た映画 その3


フランス映画『La promesse de laube』(夜明けの約束) エリック・バルビエ監督。


イヴ・サンローラン役がはまっていたピエール・ニネと、シャルロット・ゲンズブールという二人のユニークな性格俳優が母と息子の年代記を演じる。


ピエール・ニネはなんとなくスラブ顔だが、ゲンズブールはポーランド人に見えない。いや、実際は、彼女の演じるニーナ・カツェフはロシア人の元女優で、息子が生まれた頃はポーランド領とされていた地域に住んでいたが、ユダヤ人でロシア正教に改宗しているらしい複雑な背景だ。


1980年に66歳で自殺した人気作家ロマン・ガリーの自伝が原作で、母親は息子を一人で育てているが、何としても息子にフランスで一旗あげてほしい、父親はフランス人であると強調する(実際のロマン・ガリーの父はユダヤ系ロシア人だったらしいが当時のアーティストたちにとってはフランスは憧れの祖国的存在だったようだ)。


で、14歳で母子そろって憧れのフランスのニースに移住するが、母の期待を受けて小説を描き続け、しかし、第二次大戦がはじまって空軍のパイロットとなり、その後でイギリスに逃れて「自由フランス」のレジスタンス戦士として活躍するなど、波乱万丈の生涯を送る。


これも、ヨーロッパの複雑な歴史と地政学的状況、文化、宗教、ロシアとロシア革命、二度の大戦、反ユダヤ主義などの背景が具体的な一組の母子の運命を通して浮きあがってくるのが面白い。


この手の背景は、「昔の話」ではなくて「当事者」が今でもいくらでも「再生産」され、研究も深まるので、「映画的ごまかし」はきかないから、かなり本気で制作されている。

母子関係だけを見るととんでもない「鬼母」で、教育的に絶対「正しくない」圧力のかけぶりで、息子は絶望的なマザコンだけれど、激動の時代に異常なテンションとボルテージ、執念と強迫と才能とが火花を散らしてフランス文学の「天才」作家が生まれた。その何かが足りなくて時代の犠牲になった無数の若者たちがいたことはいうまでもない。

最後がごくシンプルなフランス映画のコメディ『Ôtez-moi d'un doute.(疑いを晴らしてください)』だ。


女性監督のカトリーヌ・タルディュー。


今や名優となりつつあるフランソワ・ダミアンに、すっかり熟女になったセシル・ド・フランスなどが出ている。

バック・ミュージックにヴィヴァルディの二台のマンドリンの協奏曲とか、モーツアルトのオペラとかが効果的に使われているのが印象的だった。


親族間の遺伝子検査で父親と血がつながっていないと知ったブルターニュの不発弾回収者エルヴァンはやもめだが、育ての父親も愛しているし、妊娠中の娘も愛している。母はもういない。


しかし私立探偵をやとって実の父について調査し始める。

それらしいと分かった老人のもとを訪ねてうちとける。その前に偶然出会った女医に惹かれるが、彼女はその老人の娘だった。ということは異母兄妹という関係かもしれない。

他にいろいろな人間関係が絡むのだけれど、お涙頂戴でもなく笑い飛ばすわけでもなく、ぎりぎりのところで知的でエレガントに仕上がっていて、それには主演の二人の「品」が寄与している。


特殊な家族関係のドタバタでありながら、ヒューマンドラマになっているところに好感が持てた。


[PR]
by mariastella | 2018-06-27 00:05 | 映画

『天国でまた会おう』と『若きマルクス』

帰りの機内で観た映画  その2

フランス映画もいくつか観た。


『天国でまた会おう』( Au revoir là-haut


2013年のゴンクール賞を獲得したピエール・ルメートルの原作を映画化したもの。


もとはミステリー作家だけれど、この映画にはまるで『天井桟敷の人々』を観ているような香りと味わいがある。

マルセル・マルソーのピエロの化粧と、顔を失った男の仮面とが重なる。


 第一次大戦後のパリというのは独特の欠落と自由と不安と享楽が混在した独特の雰囲気で、『天井桟敷の人々』の舞台のパリとは一世紀も隔たっているのだけれど、同じ不思議な魅力がある。


「傷痍軍人」が支給されたモルヒネを売って生きのびたり、戦士の記念碑のデザイン詐欺によって金儲けをしたりというそれぞれのサバイバルのエネルギーに圧倒される。

 アートと戦争、アートと金儲けとサバイバル、そして父と息子、見どころ、考えどころがたくさんある。

ルイーズ役の11歳の少女が、あごを失ってうまく発音できない主人公エドゥアールペリクール(これを演じるのはあの『BPMビート・パー・ミニット』「バロック俳優」ナウエル・ペレズ・ビスカヤールで、彼なしにこの映画は成り立たない)の独特の言葉をどうやって通訳できるのか分からないが、彼女の存在もまるでユゴーの世界みたいだ。

『若きマルクス』はフランス・イギリス・ベルギー製作でラウル・ペック監督。でも邦題はなぜか『マルクス・エンゲルス』


パリで若きマルクスが眺めるアナーキストの演説に出てくる標語は「労働、平等、一致」だ。

マルクスはケルンを追われて、1844年にパリに出てくるが、子供が生まれて生活は楽でない上に、不法滞在でもある。

マルクスはプロテスタントに改宗したユダヤ人ラビのの息子だが妻はウェストファリアの貴族の娘だ。

イギリスのマンチェスター工場で出会ったアイルランドの女工であるエンゲルスの連れ合いの方は、何よりも「自由でいたい」ために、子供も欲しくないし、貧乏なままでいたいという。エンゲルス自身はプロテスタントの裕福な紡績事業主の息子だ。

この二組のカップルを見ていると、組み合わせの妙、カップルの力というのは大きいなあ、と思う。


フランスに長年暮らしている身として感慨深いのは、マルクスもエンゲルスも、独仏英の三か国語がペラペラだったんだなあ、ということだ。

マルクス夫妻もマルクスとエンゲルスも、フランスでは他人がいなくても互いにフランスで話してしまうシーンも、「あるある」だ。

ロシア人ももちろん出てくるが、ロシア人もフランス語を話す。


『共産党宣言』の起草にあたって「カトリックに代わって新しい宗教を創る!」 と言っているのもおもしろい。こういう時に反面教師というかモデルになるのは、やはりプロテスタントではなくて教義も組織も盤石で続いてきたカトリックの方らしい。


最近、近刊の資料としていくつかのマルクス伝を読んできたけれど、ヨーロッパの多言語がとびかう映像による再構成というのは追体験として貴重だと改めて思った。


[PR]
by mariastella | 2018-06-26 00:05 | 映画

『シェイプ・オブ・ウォーター』と『神様の思し召し』

帰りの機内で見た映画いろいろ (その1)

5月初めに帰仏した時に機内で観た映画について忘れないうちに記録しておこうと思っているうちにひと月以上も経ってしまった。

まずアメリカ映画

『シェイプ・オブ・ウォーター』サリー・ホーキンスリチャード・ジェンキンス

これについてはすでに少し『亜人』評の中で述べた。


孤独なヒロインに寄り添うのがゲイの黒人の老人などと社会的ハンディをいくつも持っている人物であるのに対して、彼女にセクハラ、パワハラ全開の男は典型的なWASPの白人男で、「全ての人間は神の似姿として創られた」という聖書のセオリーも、「神は私の方によく似ている」などと言う。

そして、「人間」ですらない謎の水中生物は「神の被造物」にも入れてもらえないらしく、人権も生命の尊厳も顧慮されない。


SFとファンタジーとレトロな雰囲気が交錯した不思議な映画だ。

イタリア映画『神様の思し召し』(エドアルド・ファルコーネ 監督)



 まず、このサイトからストーリーをコピー。


>>>完璧主義だが、傲慢で自己中心な辣腕医師トンマーゾを主人公に、将来は医者へと期待を寄せている息子の思わぬ告白から、ある神父と出会い、人生観がひっくり返される様子をコミカルに描いている。トンマーゾと結婚して以来、かつての輝いている自分が消えうせ、子どもが育った今、人知れず孤独を抱えている妻や、トンマーゾらとほぼ同居状態の能天気な娘、トンマーゾからは馬鹿にされながらも、愛嬌のある不動産業の娘婿と、家族のキャラクターも個性的。トンマーゾの態度が変わることで、家族との関係が変化していく様子も丁寧に捉え、トンマーゾと共に家族が再生していく姿も感動を呼ぶヒューマンコメディー<<<

邦題が『神様の思し召し』で原題は『神が望むなら』だそうで、フランス語の題は『それだけは、だめ』だ。つまり、カトリック時代に大罪である同性愛のカミングアウトを受け入れるのは、今ではトレンドで我慢するけれど、医学部にいる一人息子が大学を中退して神学校に入って神父になるなんて、それだけは、絶対受け入れられない、という意味。


イタリアと言うとカトリックのおひざ元という感じだけれど、この映画では教会の壁に落書きがあるし、立小便している者もいる。医師も、キッチンドリンカーの妻も、カトリック教会は世界一意味のない組織だ、神父は煙突掃除人と同じくらい時代遅れの職業だ、と断言する。


若者たちを洗脳している絶対に怪しそうな神父は前科者でもあり、医師は彼の欺瞞を暴こうとするが、神父はどうやら彼よりも人間としての器が大きい。

テーマは結局、宗教がどうとかではなく、「境遇がまったくちがう大人の男の意外な友情」であり、ある意味でラブストーリーだ。


ラストで事故に遭った神父が助かるかどうかという時に、若者たちは病院に駆けつけるが、医師は病院から出て教会に赴く。そこで無神論者の彼がいよいよ「神頼み」で祈るのかと思うと、一心不乱に床掃除をしだすのだ。そのシーンが実にうまい。

(続く)


[PR]
by mariastella | 2018-06-25 00:05 | 映画

ブラッド・アンダーソン『ベイルート』

ブラッド・アンダーソン監督の『ベイルート』

レバノンのベイルートにおける1972年のアメリカ大使館テロから内戦を経て1982年にやはりアメリカ大使館の高官がPLOに誘拐される事件を通して、「人質交換」をめぐるサスペンス映画。

主演はジョン・ハムという人で、最初のテロで外交官として勤務していたメイソン役。大使館で妻を殺され、養子にしようとしていたパレスティナの少年カリムとも別れる。

カリムの兄がばりばりのパレスティナ解放同盟の活動家だった。

メイソンはアメリカに帰り、アル中気味で、中小企業間のネゴシエーターをしていたが、レバノン時代の友人が誘拐され、PLOがメイソンを仲介役に指定したと知って10年ぶりに現地を訪れる。

撮影はモロッコだそうだが、内戦で荒廃したベイルートの町の悲惨な様子は、ついこの前「イスラム国」から奪還されたイラクやシリアの歴史的な美しい町の惨状と重なる。

この映画はアメリカ視線、白人視線で、実際のレバノン人は誰も起用されていない、アラブ人への偏見があるなどとも批判されたそうだが、当時の状況を内側の人間ドラマを通して実感できるという意味で貴重な情報提供だと思う。

前に『アルゴ』を見た時も、ホメイニ革命でのクライシスの裏側を観て興味深かった。この『ベイルート』はスリラーとしては『アルゴ』ほど成功していないのだけれど、イスラエルとパレスティナとアメリカのからみがよく分かる。

レバノンは元フランス語、フランス文化が浸透していた国(中東の多部族の抗争地域で土着のキリスト教徒を守るための緩衝地帯として創られた政治的な国)で、この映画にもフランス語のポスターがちらりと出てくる。でももちろんすべてはアメリカ視線だ。アメリカン・ユニヴァーシティも出てくる。


この期間のテヘランやレバノンやカイロというのは個人的に縁の深い場所なので、当時を回顧して内側から再構成するような映画はどうしても観たくなる。

パキスタン、アフガニスタン、イランやトルコや中近東のその後の展開、冷戦後の軍産コングロマリットのグローバル化と油田の利権、東欧の内戦、イスラエルとパレスティナの戦い、イスラム原理主義とテロリスト、米英軍のイラク派兵、アメリカやヨーロッパでの報復テロなど、この映画の終わった時点から35年以上の月日が経った。

ようやく今になって、自分にとって一番者が見えてくるのに適当な距離感と視座が決まって来た。

この映画は決して「昔の戦争の話」などではなく、エスカレートして再生産される愚行のプロトタイプの一つとして身につまされる。

傲慢と非人間性がいつもセットになっているのも分かる。


車で映画館に行ったのだが、信号待ちの道路の横に「シリアのファミリー」という紙を掲げてのぞき込む中東の男とそばにうずくまる母子がいた。

このような現実は、日本で映画を観る人には想像できないだろう。

こういう時に本当にするべきなのは、「当局」に知らせて家族を保護してもらうことだろう。彼らは本当のシリア難民かもしれない。明らかな未成年の難民なら必ず保護してもらえるはずだ。

フランスには、長い間、子供とセットにして物乞いをさせる組織的なロマ(ジプシー)のネットワークがある。子供は少し大きくなると今度は「ひったくり要員」として放たれる。

いや、中世からずっと、さまざまな「弱者のふり」をして喜捨で生きる人々のたまり場もあった。

メトロの中の物乞いにもさまざまなタイプがあり、当初、何もできないことに罪悪感を抱いていたら、「あれは商売なのだから相手にしてはいけない」と言って罪悪感を解消してくれたフランス人の司祭もいた。

そのような国に何十年も住んでいたら、「シリアのファミリー」と称する人が道路にうずくまっていても、とっさに懐疑と警戒の念が起こる。申し訳ない。


二十世紀のふたつの大戦後に「大国」の恣意的な世界地図の線引きによって起こった数々の悲劇は形を変えて続いている。私にとってはそれは1970年代からずっと身近にあるものだ。


それらのことをいつも考え続けるのはつらいけれど、いろいろなことを想起させてくれる「映画」との出会いには感謝する。


[PR]
by mariastella | 2018-06-20 00:05 | 映画

『ヴィクトリアとアブドゥル』(スティーヴン・フリアーズ監督)

往きの機内で観た最後の映画は
スティーヴン・フリアーズ監督の、『ヴィクトリアとアブドゥル』だ。


81歳というヴィクトリア女王の孤独を名演のジュディ・デンチ。この人は30年前にも『Queen Victoria 至上の恋』という映画で、やはり使用人を優遇してスキャンダルになるストーリーをやったが、ヴィクトリア女王のキャラってある意味これだけわかりやすいともいえる。

優しさを求め、女王でなく「対等」に接してもらいたい、つまり、人間として生きたい、というわけだ。

この「ガラスの壁」は厚く、全くアウトカーストの無邪気なのか単に人間性や共感力が優れているのかわからないような人だけが時にするりと抜けてみせる。

アブドゥルの場合は、植民地インドの有色人種、しかもヒンズー教ではなくムガール帝国のムスリム(だから兵士たちは、イギリス軍が大砲のメンテナンスに豚の脂を使っていることが許せなくて反乱を起こしたのだという。)などと異質性が半端ではない。

当時、世界の四分の一を支配したという大英帝国だが、そこに君臨する首長の「人間性」は誰からもリスペクトされない。

今の民主主義国にも信教の自由や職業選択の自由や選挙権すらない元首や特別な家族たちがいる。

人々のエゴによって犠牲に供されるのは、分かりやすい無産者や弱者だけではないのだなあと気づかされる。

アブドゥルの場合も、『最強のふたり』の、車椅子の大金持ちと使用人の友情のことを思い出してしまった。本質は同じなのだけれど、たとえ何歳の年の差があろうと、ヴィクトリア女王の場合は、よい同性の友情が得られなかったのが残念で、娘との関係はどうだったのだろうとも思うが、それも、姻戚関係などでままならなかったのだろう。

ある意味で「失うものが何もない」無産者の方がハードルを越えてくれる。

でも、それが男と女であるとスキャンダルはどこまでも大きくなる。


テーマの「普遍性」をねらっていない分、物語として飽きずに見ることができた。


[PR]
by mariastella | 2018-06-05 00:05 | 映画

『幼な子われらに生まれる』三島有紀子

 往きの機内で観た三つ目の日本映画は『幼な子われらに生まれる』三島有紀子

再婚同士の夫婦の間に自分たちの子供が生まれるが、他の子供たちとの間にさまざまな葛藤が、というストーリーということで、赤ちゃんをめぐってどう関係が変化するかという話かと思ったら、赤ちゃんは最後の最後にしか生まれない。この赤ちゃんが生まれたこと自体が「結論」であるわけだ。


これは、ドキュメンタリー、というか他人の私生活と内面の動きを内側から「覗く」というタイプの映画として出色だ。監督の三島有紀子という人すごい。


主演の浅野忠信も、仕事と私生活、しかも普通の男が二つのステップファミリーの間で全力、最善を尽くしながらも無力感と怒りの中で揺れ動くという役を等身大に演じられるのがすばらしい。


実の娘の母親が学者のインテリで同業者と再婚し、義理の娘たちの父がDVの末の家庭脱落者という対照的な設定なのも、それぞれのささやかな幸せややりきれない不幸をきっちり描いているのでカリカチュアにはなっていない。自分と自分の周りに命があって、それを大切にすることが生きることなんだというメッセージが最後には自然に浮かび上がる。


でも、『三度目の殺人』でも思ったけれど、どうして「父と娘」とか、ともかく「娘」という設定の方が「お話」が作りやすいのだろう、と思ってしまう。


これらの映画の中では、「男」たちは、自分たち自身が永遠に「息子」の立ち位置に置かれているるともいえる。

「娘」の方は、「母」になるとスタンスが変わり、さらに「女」というだけで周り「男」たちにプレッシャーをかけている、という感じもする。


[PR]
by mariastella | 2018-06-04 00:05 | 映画

『亜人』( 主演:佐藤健×監督:本広克行)

4月に日本へ行った時の機内では日本映画を3作観た。

今年のカンヌ映画祭のパルム・ドールを獲得した是枝裕和監督の2017年の作品「三度目の殺人」については前に少しコメントした。


次に観たのが『亜人』



体も命も瞬時に再生できる新人類の話。

「死なない奴はいくら殺してもOK」というのがベースにあって、それにもてあそばれた「亜人」たちが復讐を企てる。

機内のミニ画面でないと絶対に見ないだろう、ヴァイオレンス満載の映画。

コミックが原作というので、なるほどと思わせる。


 でもこれだけ特撮ぶりがよく分かる大量殺人だと、悪夢に残るほどの実感としては迫ってこない。むしろそれ以外のしっとりしたシーンが際立って見える。特に、吉行和子が人のいい労農婦の役で出ているのがわざとらしくない清涼剤のように見えてくるから不思議だ。

 家族愛もあり、亜人であろうがなかろうが「人種」といっても「個人」は多様であることや、生き方を選択する自由についてなど考えさせられる。


帰りの機内では、アカデミー賞作品となった『シェイプ・オブ・ウォーター』を観たのだけれど、人間よりも優れた身体能力を持つ「怪物」が捕らわれて実験材料にされ苦しむのを、助けられて人間と心を通わせるというテーマでは共通している。


科学の名のもとにまかり通ってしまうエゴイズムや非人間性というのは普遍的だということで、どちらの作品も、特撮やストーリーの展開以外にもそれなりにしみじみ見てしまえたのが意外だった。


[PR]
by mariastella | 2018-06-03 00:05 | 映画

『ボヴァリー夫人とパン屋』アンヌ・フォンテーヌ

最近TVで観た映画その2


『ボヴァリー夫人とパン屋』アンヌ・フォンテーヌ


ついこの前観たルルーシュの映画に出てきたエルザ・ジルベスタンがやはり、彼女にぴったりな軽いインテリまがい、アーティストまがいの女性の役で出ている。

これほど「それらしい」キャラばかりやっていたら、役の幅が広がらないんじゃないかと気になってしまうくらいだ。

パン屋の夫妻と、その向かいに越してきたイギリス人夫妻の話だが、イギリス人の妻がパン屋に買いに来た時に出会うフランス人女性の役だ。

ひまわりの種のパンを説明する時にヒマワリという言葉を英語で言えないパン屋に「sunflower」だと助け舟を出してくれる。彼女はイギリス人と結婚しているのだ。(フランス語ではtournesolで、「陽周り」という感じだからヒマワリに近い)


で、三組の夫妻が食事をするシーンがあって、イギリスとフランスの互いの文化に対する憧れと国民への悪感情の両立を吐露して百年戦争はやめよう、などというジョークが出てくる。

彼らの言葉が英語になったりフランス語になったり、どちらもなまっていたり、少し不自由で仲間外れの気分になったり、という微妙なカルチャー・ショック、国民性や階級差、パリと地方、などのテンションが通奏低音になっているので、日本語版の予告編を見て、全部日本語の字幕を読んでいたらこの映画の言葉の面白さが抜け落ちてしまうなあと思う。


それにしても、ルキーニって、文学好きの妄想男役がはまりすぎていて、いつもは感心するばかりだけれど、この映画を観ていて、本当に大丈夫か、この人、って思ってしまった。

ジェマ役のジェマ・アータートンの魅力で成り立っているのかもしれないけれど、あまりこちらの琴線には触れない。

確かに公開当時は話題になった映画だし、ある種のフランス文学(マリヴォーとか?)にもあるフランス的くどさというか素直でない不自然さがべっとりとしているのが、ノルマンディの美しい風景で救われているという感じだった。


[PR]
by mariastella | 2018-06-01 00:05 | 映画

『サウルの息子』ネメシュ・ ラースロー

最近TV2本の映画を続けて観た。

そのひとつ。

2015年のカンヌでグランプリに輝いて世界中で評価された『サウルの息子』。



もうこういうナチス告発ものは見ていて気が重くなり暗くなるのでスルーしていたkだけれど、アウシュビッツ-ビルケナウの収容所内での出来事という何度も告発されてきた映画とは別のテイストで最後まで見てしまった。


ハンガリー人の監督ネメシュ・ラースローの初の長編映画ということにも驚く。


しかもたった一人の主人公(ゾンダーコマンド=ナチスの側で働かされているユダヤ人)の心の動きと、それが、課せられているルーティーンを超えさせていく僅か一日半の出来事をすごいリアリズムで描いている。


ハンガリーという視点を入れたことで、収容所におけるドイツ語とポーランド語とハンガリー語、ユダヤ教の共通の祈りのことなど、複雑な「ことば」の世界がはっきり分かる。

監督は、少年時代からずっとフランスで暮らし、もちろんバイリンガルで、「映画」文化的には完全にフランス風の人だ。実際この映画もフランス語で撮るフランス映画になるかもしれなかった。

結局、ハンガリー語にこだわり、主役の俳優もアメリカ在住のハンガリー人を起用し た。

存在感がある。

ハンガリー語を通じて、やはりナチスに協力させられているハンガリー人医師が主人公に協力してくれる。

主人公のサウルという名はイスラエル最初の「王」の名で、姓のアウスレンダーというのが「外国人」という意味であることもシンボリックだ。


ゾンダーコマンドは70人ほどいて(時々殺されて入れ替えられる)、頑健で専門技術があり、食事もよく、衛生状況もいい。その現実と、同胞を獣のようにガス室に送りその遺体の始末をすることの落差の中でみなが心を病んでいる。


この映画ではじめて知ったのは、働く女性でレジスタントに関わる人がいてゾンダコマンドのレジスタントの試みと連絡を取っていたということだ。

この女性たちの、はユダヤ人女性から選ばれて収容所で働いているのではなくて、ポーランド人レジスタント女性闘士だと思うのだけれど、その辺ははっきり分からなかった。

ストーリーのディティールはゾンダーコマンドたちが埋めて残した巻物や少数の生存者の証言に依っている。たとえば死体処理の証拠写真を撮るシーンがあるが、それも実在している


この映画、「追体験」を強いられるようで、若い人の感想の中にはロールプレイのようだ、などというものがあった。


ゲーム感覚の追体験ができる世代と「無知であることに罪悪感」を抱える世代の追体験の間には何か超えられない質的なものがあるのではないかとも思ってしまった。


[PR]
by mariastella | 2018-05-31 00:05 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧