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L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:映画( 205 )

覚書から その1 ベルナデッタにキーラ・ナイトレイ

3月中旬ごろから、慌ただしくしていたので予約投稿は準備していたものの、日ごとの覚書はブログにアップする暇がなくてword文書にたまり続けていた。

それを吐き出しておかないと、後からチェックしにくいので、これから6月半ばまで、自分が読み直すためにそれらの断片的な覚書を順番に載せていく。

まず、「女性」が出てくる二つの覚書。

1. 『ベルナデッタ』(2020年公開)


オランダ出身で80歳になるポール・バーホーベン(『氷の微笑』『ロボコップ』などの監督)が『ベルナデッタ』を撮った。ベルナデッタといっても、ルルドで聖母マリアを見た聖女ベルナデットではない。イタリアのトスカナ地方で17世紀に実在したベルナデッタ・カルリーニという「神秘家でレズビアン」という修道女の話。カナダの劇作家が『ベルナデッタ・カルリーニ:ルネサンスイタリアのレズビアン修道女』という戯曲を書いている。映画の原作は1987年に出たジュディット・ブラウンという人の『シスター・ベルナデッタ、聖女とレズビアンの間』という小説だそうだ。

ベルナデッタは聖性の誉れが高かったけれど、あまりに多くの修道女を誘惑したので裁かれ、40年間閉じ込められたのだそうだ。ヨーロッパで記録に残る最初のレスビアンだ。

ベルナデッタを演じるのはバーホーベンの『エルELLE』でも敬虔なカトリックの役を演じた。ヴィルジニー・エフィラだ。シャーロット・ランプリングやランベール・ウィルソンといったちょっと倒錯的、背徳的な名優も起用している。バーホーベンの事故で編集が半年遅れて2020年初め公開となりそうだ。

バーホーベンは、幼い頃から「聖なるもの」に惹かれていたそうで、『イエス・キリスト』をテーマの映画も計画しているという。

2. キーラ・ナイトレイ


キーラ・ナイトレイという美人女優は、祖国のイギリスでは嫌悪されているのだそうだ。道を歩いていても罵倒の言葉を投げかけられ、彼女の悪口で女性たちは盛り上がるのだそうだ。フランスでは大人気だし、ハリウッドでも成功している。どうして?




by mariastella | 2019-06-02 00:05 | 映画

バベル

先日、2006年の映画『バベル』(カンヌ映画祭で監督賞を受けた)をArteで観た。
もともと毀誉褒貶が真っ二つに分かれていた作品だったので今まで興味を持たなかったのだけれど、日本人の女子高校生が出ているということで、それがどうこのモロッコでアメリカの観光客に起きたライフル事故と関係があるのかとあらためて好奇心に駆られた。

モロッコの砂漠はちょうどこの作品の撮影された同時代の2006年に私も観光バスに乗って訪れたことがある。フランスの旧植民地や保護領であったマグレバン三国の一つだから、いろんな意味でなじみもある。

このモロッコでのストーリー、その中には遊牧民の家族、兄弟の確執や父親の気持ちなどのパート(この部分はすべて現地の人の出演で、村々のモスクのスピーカーでオーディションを知らせたのだそうだ。まるでドキュメンタリーのようにリアルだ)と、アメリカ人観光客たち、彼らと対立してしまう犠牲者の夫妻のパートに分かれるる。土埃、羊の群れ、獣医による縫合手術、など迫力あるシーンの連続。
夫妻が、若さにあふれるブラッド・ピットとケイト・ブランシェットが演じているけれど、苦しむ、叫ぶ、怒る、泣くというシーンばかりでもったいないのか贅沢なのか分からない。
モロッコの砂漠地帯の時の流れは緩やかなので、今も同じ光景があると思う。

時間をずらしてパラレルに語られるのがカリフォルニアとメキシコだ。
監督のイニャリトゥはメキシコ人で、移民としてアメリカで活動し、両国の国境の緊張を描かずにはいられなかったというだけあって、二つの国のコントラストは強烈だ。アメリカの国境警察が与える恐ろしさも伝わる。この映画の10年後にもトランプ大統領がメキシコ国境を越えてくる者こそ諸悪の根源みたいなことを叫び続けるのだから、何も変わっていない。
メキシコはメキシコ・バロックとグアダルーペの聖母の国だから一度は行きたいけれど、この映画でリアルに伝わる町や村の感じを見ると、とても私には無理、と思う。
今までメキシコの人と親しく話したのは音楽学者だけで、ちょうどこの映画と同時代の話だ。このサイトのバロック音楽室1の『サラバンドの起源』に詳しく書いてある。
で、私の少ない砂漠体験(サウジアラビアとモロッコ)を振り返っても、安全なグループとの日帰りなら広大な景色を楽しめるけれど、とても私がサバイバルできる環境ではない。メキシコの喧騒も、私には無理。結婚式の賑わい方も、走る雌鶏を捕まえて逆さにして首をひねって引きちぎるシーンも無理。
国境線にこんな不毛な砂漠、荒野が広がっている光景も無理。

で、メキシコにもモロッコにも住めない、やっぱり日本はいいよね、さすがに日本、しかも新宿などの繁華街が出てくるシーンは「ホームグラウンドだよな」と思いたいところだったけれど…。このミニスカートにルーズソックスの女子高生たちやその周りにたむろする青年たちのナンパ、逆ナンパの光景は、まるでひと昔前のアニメの中の世界に紛れ込んだかのようで別のショックを受けた。
私は定期的に日本に帰っているから、こういう姿の女子高生たちをリアルに見たことはある。今はずっとソフトになっているようだけれど、基本的に膝上スカートというのでは、性同一性障害の女性なら耐えられないだろうし実際ズボンを選べる学校もあるようだ。(先日、日本の自衛官募集のアニメキャラのポスター騒ぎでポスターの例を見た時の驚きは忘れられない。自衛官の制服っぽく表現されているのはすべて女子中校生の制服 見間違うほどで、この『バベル』の映画の日本の場面と変わらない。このポスターがセクハラなどと批判されたことより、そんなものが存在できたということ自体で目が点になる。)
地震危険地帯にある東京の「バベルの塔」ともいえる高層マンションの最上階30階に住むこの女子高生が聴覚障害者だという設定がひねりをきかせていて、ディスコの喧騒、音楽が彼女にはまったく聞えていないことのシュールな感じが、孤独と、「見た目」と「関係性」について考えさせてくれる。
でも、フランスでのこの映画の評価では「日本のパート」が弱い、というのがあった。それも分かる。

これだけばらばらの国のばらばらの物語をうまく構成しているテクニックはすごいと思うけれど、評価がどうというより、複雑な気持ちになった。

メキシコよりも、モロッコの砂漠よりも、21世紀初めの日本の東京の若者の世界の方が、はるかに遠く感じられるからだ。直接の暴力もなく貧しさもない環境で未成年の少女をここまで深刻に傷つけることのできる社会って…。

まあ、全体を通して言えるのは、コミュニケーションが成り立たない、ということより、家族の死のトラウマかもしれない。
アメリカの夫婦は3人目の子供が眠っているうちに突然死したらしい。そのことが夫婦の溝をつくった。
日本の父と娘は妻であり母親である女性の銃による自殺(この設定や父親がモロッコで狩という設定も、日本的には不自然ではある)という壮絶な死のトラウマを抱えている。
モロッコ家族の父は、目の前で長男を撃たれてしまう。
メキシコの方は分からないが、おばと子供たちを降ろして逃走した甥が警察に追われて撃たれた可能性は大きい。

最終的にはアメリカ人の妻は一命をとりとめ、子供たちも助かるのだからこの家族の絆は強まったとはいえるのだけれど、3人目の子を失った事実は変わらない。
アメリカ人の夫がモロッコ人ガイドと共に妻のそばにいる時、ガイドの娘がお茶を持ってきてくれる。
「君の娘か」と聞かれて、「5人の子のうち3番目」と答える。
ブラッド・ピットも自分の2人の子の写真を見せるが、「何で2人しかいないんだ」と言われる。まるで彼らの3番目の子供が死んだことが分かるかのようだ。

高齢者の病死や老衰死と違って、赤ん坊や子供の死はつらい。
でも、運命や神を呪うことはできる。
家族に自殺されるのはもっとつらい。関係性を一方的に壊されて愛を拒否されたように感じるだろうからだ。

映画の最後には父と娘が抱き合ったり、国外退去を命じられたメキシコ人の乳母は自分の息子に迎えられて抱き合ったり、アメリカ人夫婦も絆を強めるのだから、一応のハッピーエンドはあるのだけれど、人生はどこでも誰にでもアクシデントや躓きが待っている、という思いだけが沈殿する。






by mariastella | 2019-05-31 00:05 | 映画

帰りの機内で観た映画 その2 ミスター・ガラス、メリー・ポピンズ・リターンズ

『ミスター・ガラスGlass』/M・ナイト・シャマラン

もう年配になったブルース・ウィルスが出ているのに興味を持った。

実際は、アンブレイカブル、スプリットに続く M・ナイト・シャマラン(シックス・センスの監督)の3部作のラストの作品ということで、前二作を見ていない私には分からないことが多すぎだ。多重人格の名演というのもなんだか疲れる。

でも、アメリカン・ヒーローコミックと超能力の関係という面白いテーマで、子供時代のトラウマやそれにともなう多重人格などが出てくるのだ。

アンブレイカブルが2000年ということで、ブルース・ウィルスがしっかり年を取っているのに超能力を発揮する。

私は宗教神秘主義研究の中のさまざまな超常現象の記録を読んでいるので、こういう切り口はある意味で新鮮で、合理的な説明がすぐにできない超能力を前にした時の人々の反応が時代によってどう変遷するのかというテーマを与えられた気がした。

『メリー・ポピンズ リターンズ』


ジュリー・アンドリュースの前作は、リアルタイムで見た。確か「正月映画」であり、正月三日に必ず大スクリーン(シネラマとかシネマスコープとか当時言っていた?)の娯楽映画を毎年家族で観に行っていたのだ。

でもメリーポピンズもサウンド・オブ・ミュージックもフランスでは意外と知られていなかったので、「スーパーカリフラ…」だとか「ドレミの歌」などを生徒たちに教える時も最初はあまり興味を持ってもらえなかった。

DVDが出回ってからいろいろ知られるようになった気がする。

ディズニー映画だけれど、ロンドンが舞台であることでしっかりとイギリスの俳優をそろえているのが今はよくわかる。

ジュリー・アンドリュースもそうだし、今回のエミリー・ブラントもそうだ。バンクス姉弟などもイギリス人。

だからこそ、アメリカ人俳優が異色なアクセントになっている。

メリル・ストリープの演じるメリー・ポピンズのいとこも不条理な感じが満載だし、ガス灯の点灯夫のジャックがアメリカ人なのも、前作の煙突掃除人バートがアメリカ人のディック・ヴァン・ダイク(前回は銀行の頭取との二役だったが今回も同じ銀行の前頭取役で出てくるのも驚きだ。撮影時に91歳だという。)だったことと呼応している。


前作が1910年と第一次世界大戦前の設定、今回が第二次世界大戦前の大恐慌の時代という設定も、二つの大戦間のヨーロッパの歴史に首を突っ込んでいる今では一番興味深く思われた。


ストーリー自体は、「孫を連れて行ったおばあちゃんも、孫といっしょに満足して楽しめる」と評されるようにサプライズはないけれど、「前作を子供の時に見たおばあちゃんが孫といっしょに本気で楽しめる」こと自体がすごいなあと思わずにはいられない。


by mariastella | 2019-05-24 00:05 | 映画

帰りの機内で観た映画 その1 運び屋、七つの会議、一二人の死にたい子供たち

『運び屋』


90歳の麻薬の運び屋を演じるクリント・イーストウッド。

主演した『グラントリノ』から10年目。

老父に一番冷たい娘役がイーストウッドの実の娘という。

麻薬カルテルがメキシコ系でスペイン語を話している。

どう見てもラテン系でないイーストウッドだが、ユリの栽培でメキシコ人のスタッフを使っているのでスペイン語も分かり、ベトナム戦争の退役軍人という設定も歴史を感じさせる。老人の経済的な行き詰まりが、インターネットの普及による事業の悪化であるというのもリアルだ。

でも、「時代についていけない」部分とは別に、人種差別や性差別などについて意外にまっとうな感性を持っていて、「人とのコンタクトを楽しむ陽気でマイペースな男」というベースは変わっていない。

でも、彼の正義感の発揮とオプティミズムはやはり白人であることにルーツを持つので、ポリスに車を止められて職務質問されるたびに死の恐怖を味わう「非白人」の本当の事情を分かち合うことはできない。

アメリカってやはり想像を絶する部分がある。

『七つの会議』


池井戸潤原作など私のタイプではないけれど、野村萬斎、香川照之、北大路欣也、片岡愛之助など、役者の魅力のために見る気になった。

リコール隠し、隠蔽する組織体質、責任のなすり付け合い、過度なノルマなど、業界的には大いにあり得る話だそうで、日本の企業って本当にこんなものなのだろうか。

私にとっては「おじさん向けコミック」のような設定なのだけれど、人気作家の小説で、それなりのリアリティはあるのだろう。

もちろん前回観た『空飛ぶタイヤ』のリコール隠しのことも思い出した。



野村萬斎がなんといっても、個性的で、狂言の舞台も観たことがあるにもかかわらず、最初は『陰陽師』の安倍晴明の姿が重なったけれど、だらっとした背広姿で実は全編を担っていく強靭さが半端ではない。

最後に結局リコール隠しを摘発するのは、『ミスター・ガラス』(後述)の結末と似ていないでもない。

『一二人の死にたい子どもたち』


廃病院に集まって集団安楽死をしようとする未成年たち。

典型的に、今のSNS時代ならではの話だ。

この中の、気が強そうな優等生タイプのメイコ/黒島結菜(くろしまゆいな)がどういうわけか国際政治学者の三浦瑠麗女史と重なって見えた。途中でやめてもいいと思って見始めたのだけれど、それなりの謎解きや人物造形がよくできていて、結局最後まで見てしまった。ここまで「大人」不在という映画が伝えようとするメッセージを考えさせられる。


by mariastella | 2019-05-23 00:05 | 映画

往きの機内で観た映画

色々話題になっていたけれど観る暇がなかったハリウッド映画を中心に観た。
どれも平均点以上ではある。
忘れないようにメモ。

『天才作家の妻 40年目の真実』

グレン・クローズがいかにも年をとった雰囲気なのが、映画の中ではたった34年前の若い日と違いすぎて不自然。

カップルの最初の出会いが1958年とあり、ノーベル文学賞が1992年という設定なのに40年目とはなぜだろう。いやたとえ40年としても老け過ぎの感じだ。

で、妻が1日8時間も机に向かっていたのに子供たちにあまり怪しまれなかったというのも不自然だ。
でも、初めての孫が生まれてはしゃぐシーンはふたりとも可愛すぎるし、愛憎重なり合うの真実があったんだろうなあと思う。

夫がユダヤ系であることも含めて、とてもアメリカ的な気がする。フランスではあり得ないシチュエーションだと思うし、日本でも、別の意味であり得ないのでは…。

『女王陛下のお気に入り』

上の映画と同じように「若くない女」の名演。
彼女は天才作家の妻のように夫の栄光に隠れる不遇の妻ではない。
絶対権力を誇る英国女王だ。それでも、いや、だからこそ、作家の妻が避けた権謀術策や駆け引きの渦から逃れられない。作家の妻が得たような一男一女や孫息子を得る喜びもない。
でも、主演のオリビア・ コールマンはこれでアカデミー女優賞を獲ったほどの名演だけれどなんとまだ40代。エマ・ワトソンだけが若いけれど、歴史上の実際は、アン女王もサラもアビゲイル(これがエマ・ワトソン)もみな40代だったので、いわば働き盛り、女王だけが17回の出産(流産死産を含む)と子供を得られなかったことの遺恨の中で疲弊しきっている。

『シンプル・フェイバー』

エミリーとステファニーという「ママ友」が主役。

ステファニーはママ相手の人気ユーチューバー。未亡人のシングルマザーだ。アメリカの地方都市郊外の小さな世界に住んでいるけれど、ネットで人々とつながっている。

息子の友人であるアジア人とのハーフの子供ニックを迎えにきたママは抜群のプロポーションの別世界からやってきたようなエミリーだった。

アナ・ケンドリックとブレイク・ライブリーという2人の共演。エミリーの夫役はイギリス人とマレーシア人のハーフだから、この人とエミリーの息子がこんなにアジア人っぽいのは不自然な気がする。

原作はサスペンスミステリーということで、アナ・ケンドリックとブレイク・ライブリーの2人が対照的で生き生きしている。

ステファニーが人気ユーチューバーという設定の「今風」と、アメリカの都市郊外のローカルな共同体メンタリティ丸出しの対象がおもしろい。


by mariastella | 2019-05-08 00:05 | 映画

『グリーンブック』ピーター・ファーレリー

この頃はアカデミー賞映画は機内でしか見ないのだけれど、機会があったのでこの話題の「感動映画」を観に行った。今いろいろ問題山積みの日常なので、心温まるストーリーというのが無難かと思ったのだ。


日本のネットでさまざまな批評やコメントが出ていると思うので詳しくは書かない。
ストーリーが予定調和すぎるというのは別に気にならない。

1962年のブロンクスのイタリア系移民家庭のキッチンなどを見るのが興味深かった。私の実家でも、その少し前に、それまでの台所、食堂、女中部屋(と当時は普通に呼んでいた)をリフォームして、「広々としたアメリカ風のダイニングキッチン」になっていたからだ。
キャデラックの大型車も、時代を感じさせる。

主演の2人が名演だというのは納得するけれど、デンマーク系のヴィゴ・モーテンセンがどんなにうまくて好感を持てるといっても、「家族」が実在のヴァレロンガ家の人々に演じられている中で、どこか違う感じもする。
こういうイタリア系、と言えばロバート・デ・ニーロを連想してしまうからだ。

デ・ニーロと言えば彼の『マイ・インターン』とこの作品はある意味で似ている。
つまり、「若い女性」が上司で雇われ人が「大人の男」というように、世間的な差別構造とは逆のシチュエーションがもたらすコミカルさ、不自然さ、上司の孤独、そして最終的には「愛や友情」の普遍価値へと回収されていくところだ。

『グリーンブック』では黒人がスターで金持ちで教養があって、運転手として雇われたのが教育のないガサツな白人という、やはり差別構造の倒錯がある。でも、『マイ・インターン』が女性監督の作品だから救われたのに、『グリーンブック』は白人監督なので白人目線だと批判もされている。こういう「当事者」ファーストレベルの言説がまだ根強いあるということ自体、人種差別も女性差別もまだまだ解消されていないどころか根深いのだなあ、と感慨を覚えずにおれない。

でもデ・ニーロがイタリア系なのに『マイ・インターン』で「アメリカ男」を代表できたのは、少なくとも、イタリア系に関しては、時代が変わったなあと思う。

『グリーンブック』では、黒人への差別はもちろん、イタリア系差別もすごくて、スパゲッティだのマカロニだとか言われている。私が東京のリセ・フランセで教えていたころ、クラスはとても国際色豊かだったけれど、小学生のクラスでは、ベルギー人の男の子が「Frite」(フライドポテトのこと)と言ってからかわれていた。日本やアメリカでは「フレンチ・フライポテト」とフランスが冠されているのだけれど、フランス的には、ベルギーのイメージだからだ。食べ物がからかいのポイントになっているのはフランス人への「カエル喰い」の呼称もそうだけれど、食習慣は共同体をまとめて差別するシンボルだという根っこにあらためて思いをはせる。アイデンティティは連帯にも差別にもなるのだ。

『グリーンブック』ではピアニストが同性愛者で逮捕されるシーンもある。
アーティストと同性愛の親和性も示唆される感じだし、また白人でも同性愛者は差別されるマイノリティだったから逆に人種差別は二次的なものとなり、この映画でも黒人ピアニストの相手が白人だったというのが分かる。性愛は人種を軽く超える。

ドン・シャーリー・トリオの他の2人がロシア人というのも、亡命白系ロシア移民のアーティストならコストが低いのだろうと思わせる。
ニューヨークとニューヨーク以外のアメリカはメンタリティに大きな差があるし、特に中部、南部との差は今でも大きい。
私の知っている20世紀末ごろのアイオワの一般家庭の人は地方のニュースしか見ていなかったし、ロンドンがどこにあるかも知らないというのも珍しくなかった。
今はネットがあるから情報はどこでもつながっているかもしれないけれど「差別」や「憎悪」までつながるから、貧困に加えて、無知も差別も21世紀の問題であり続ける。
私はアメリカに住んでいなくてよかったとつくづく思う。あの巨大な国の特殊な歴史や差別や憎悪の構造と地域の格差と共同体主義を自分と絡めてどう消化していいかさぞや悩むだろうからだ。
昔、アメリカにホームステイした後にフランスに来たイギリスの高校生が「ほっとする、フランスの方がずっとイギリスに似ている」と言っていたのを思い出す。
でも、今はBrexit だし、移民難民問題がポピュリズムを刺激しているように、人間って進歩しているのかしないのか、よく分からない。

この映画、音楽は、どうやってピアノを弾いているのだろうと感心していたら、実演の姿に顔だけを貼り替えたのだそうだ。今はなんでもできる。
ショパンのエチュードで度肝を抜くシーンを見て、ヴィルトゥオジテの力技はいつでもだれに対してでも説得力があるんだなあ、とあらためて思った。
フランス・バロックとは遠い世界だ。

モーテンセンの妻をやるリンダ・カルデリーニが私としては一番気に入った。かわいい。彼女の両親はイタリア系とアイルランド系(どちらもカトリックという典型的な結びつきだ)ということで地中海系ファミリーの妻、母のテイストがある。私と同世代の知り合いのカビール(ベルベル人)でキリスト教信仰宗教に改宗している女性とそっくりなのだ。

私にとっての訴求力はあまりない映画だけれど、忙しい時に観た後悔はしていない。



by mariastella | 2019-03-27 00:05 | 映画

«Qu’est-ce qu’on a encore fait au Bon Dieu ?»『神様にまた何をした』フィリップ・ド・ショヴロン

フィリップ・ド・ショヴロンの大ヒット作『神様に何をした』の続編を先日観に行った。



2014年の前作についての記事。https://spinou.exblog.jp/22246255/

ブルジョワのカトリック夫妻の4人の娘たちが全員フランス人だけれどユダヤ人、アルジェリア人、中国人のルーツの男たちと結婚し、末っ子がようやくカトリックの婚約者を連れてきたら、ブラック・アフリカから来た役者だった。という話。

この監督の作品は2917年には『A bras ouverts』(両腕を広げて=歓待)も見た

そこではブルジョワの庭に住み着くロム(ジプシー)の話が出てきた。ゲイの作家のエピソードも挿入されていた。で、今回の『神さまに‥』の続編には、庭の一角にアフガニスタンの難民を受け入れるとか、同性婚とかも取り入れているので前の二つを合わせたような部分がある。

前作と同様にお笑い全開で、でも、このせいでポリティカル・コレクトネスがすべて無視されて全方位性の偏見が展開される。

観客の誰もが差別する方と差別される方に同時に共感して結局「正しい罪悪感」を払拭してしまうということになり、きびしい批評も見受けられる。

でもよくできている。あまりにも「あるある」なので、フランスでしか通じないと思うけれど。

「罪悪感がなくなる」こと自体に罪悪感を覚えるほどだ。

でも笑いっぱなしなので免疫力アップするかも。

最後に泣かせどころも少し用意してある。

4人の婿たちは互いに偏見を丸出しなのだけれど、「今のフランスには住みにくい」という点で一致してしまう。

フランスとフランス人への悪口が、フランス人の自虐も含めてどんどん出てくる。

フランスとは、神のくれた天国なのに、そこが地獄だと文句を垂れるフランス人が住んでいる国、という言葉の通りだ。その意味で4人の婿たちは典型的なフランス人だともいえる。

ユダヤ人の婿はフランス語しか話せないのに事業がうまくいかず、イスラエルに移住しようという。

アルジェリアにルーツのある弁護士の婿は、自分は酒も飲む普通のフランス人なのに、ブルカだとかブルキニだとか、フランスにいるムスリムの権利を擁護してくれというような依頼人ばかりでうんざりしている。で、いっそアルジェリアに戻って自由化のために戦うムスリムを助ける側に回りたいと決心する。

銀行家の中国人は英語もフランス語も中国語もOKの自分は上海の銀行でステップアップできるという。画家の妻もその気になっている。

アフリカ人の婿はフランスで受けるオーディションはつまらない黒人のチンピラの役ばかりで、いっそインドへ行ってボリウッドでデビューしようと決心する。父権的な父親に干渉される自分の国(象牙海岸)に戻ることは考えない。

ここで、登場人物の誰もが実態を知らず「偏見」しか持っていない「インド」が揶揄の対象になる。「人々が牛の前でひれ伏する国」という具合だ。

おもしろいのは黒人の婿がインドが変な国だという時に「白人の顔をした黒人の国」というところだ。

インドは白人のアーリア人が移住して先住民を支配して上位カーストを形成した歴史がある。だから、多くのインド人の顔立ちは確かにアジア人やアフリカ系黒人の目から見ると「白人」だ。でも、確かに、「ぱっと見」の「色」は黒い。私の子供の頃、「最初の第一歩」とかいう遊びがあって、「オニ」が顔を隠して10数えているうちに、他の子供たちが少しずつオニに近づくというものだった。フランスにもまったく同じ遊びがあって「アン・ドゥ・トロワ、ソレイユ!」という。アン・ドゥ・トロワと目隠しして数えてソレイユ(太陽)で振り向くのだ。

で、昔の日本の子供たち(地域限定なのか今もあるのか調べていない)の遊びで10数える代わりに「だるまさんがころんだ」というのと、「インド人のくろんぼ」という2種類があった。単なる10文字の語呂合わせで差別の意識もないし、「インド人」を見たこともなかった。でも、今思うと、日本はアフリカやアメリカとは離れているから、肌の色が濃い人というのは「インドの人」という先入観がどこかにあったのだろうか。(だるまさんがころんだ」の達磨大師も「インド人」だ。でもだるまさんやお釈迦さまについて「くろんぼ」という表現は聞いたことがない。)

ともかく、この映画で、「インド人」のことを「白人の顔をした黒人」と見るアフリカの黒人がいることが分かった。

で、娘たちや孫たちが遠くへ行ってしまうことに耐えられないブルジョワ夫妻は、フランスの良さを再発見させるために婿4人をロワールの城巡りに招待する。そしていろいろな人に金を払って、アルジェリアやイスラエルがどんなにリスクのあるところかをうまく説得させるのだ。黒人の婿には「オセロ」のオーディションを受けさせて採用させる。先日の映画の『ショコラ』と同じで、シェイクスピア劇の主役を演じるのがヨーロッパの黒人俳優のキャリアの頂点という先入観が100年経っても変わらない感じで使われる。

銀行家の中国人の婿だけは、「中国経済はこれから頭打ちだ」と(舅に頼まれた)銀行の頭取に脅かされても、移住の意志は変わらない。けれども最終的に、姑が中国大使館にこの婿が「チベット解放」のデモに参加していた写真を送りつけたことで、ビザの発給を停止されてしまう。

ブルジョワ夫妻はなんだか「反則」だらけの姑息というかひどいエゴイストたちなのだけれど、この写真によって、この中国人の婿が単に金銭的な成功を目指しているわけではない「人権」擁護派で、とっても「フランス的に正しい」人だと分かるのが救いになっている。

フランスから外に出たいという4人の婿たちが「君たちは全員マクロンに投票したじゃないか、君たちの選んだ大統領がいるじゃないか」みたいなことを舅に言われるのも世相を反映していて面白い。(ブルジョワ夫婦はいかにも共和党のフィヨンに投票しそうな人たちだ。でも、娘婿たちのルーツを見ているから、決選投票では極右のル・ペンにはさすがに投票しなかっただろう。)

結局、全員がフランスに残る。

しかも、パリから離れてブルジョワ夫妻の地域に引っ越した者もいる。

「自分が離れたかったのはフランスじゃなくてパリだったんだ」と気づいたからだ。

気づいたと言えば、彼らは帰りのTGVの中で、舅が金を払って「地方でも差別されずワイン製造業者としてリスペクトされている」男を演じさせた黒人と偶然乗り合わせた。その男が友人にそのバイトの話しているのを偶然聞いたことで、舅がいろいろなことを仕組んだことに気づく。つまり「騙されたままにしない」ことで、舅夫妻の「奸計」の罪悪感も緩和される仕組みになっているわけだ。

そしてそれらがすべて、金をつぎ込んで謀略を張り巡らせても、娘たちや孫たちに同じ国にいてほしい、という親の煩悩、家族の愛情に発しているという前提がある。同様に、婿たちの「移住」計画も結局、子供たちにより良い生活、より安全な生活をさせたいという愛情に発しているのだから、最後は「めでたしめでたし」ということになるわけだ。

もちろんあり得ないようなご都合主義のシナリオなのだけれど、私は、昨年入院していた時の同室者Aさんの話で、このような極端な「多様性」家族がどのように暮らしているのかの実情の一例を知った。


そのAさんにも、実はこの映画(1作目)の話をしたら、彼女も観ていて、彼女のところはもっと大変なのだと言っていた。

そんなこともあって、そしてもちろん私が「フランスにいるアジア人」なのだから、いろいろ考えてしまう。

それにしても、ある意味でこんなきわどいテーマをすべてジョークにしてしまう監督はすごい才能だ。

そして、この映画の軽妙な会話の中の、偏見やらトゲやらカリカチュアやら無責任さやら政治的不公正やらは、一つ一つを批判することはできても、なぜか、「偽善的」な匂いだけはしないのは不思議だ。

これだけ言いたいことを全部吐き出せば偽善ではなくて居直りだからだと言われるかもしれないけれど、どこかに憎めないところがある。


それがアングロサクソン・ピューリタンのベースでないフランスのいいところにつながるのかも知れない。何となく、ほっとする。


by mariastella | 2019-02-18 00:05 | 映画

ショコラ -- 君がいて、僕がいる

『ショコラ --- 君がいて、僕がいる(2015) 監督・脚本:ロシュディ・ゼム

先日TVで放映されたのを見た。

公開当時に予告編を見てもなぜか観に行く気がしなかった微妙な映画だ。



「ショコラ」という芸名の黒人の道化師役のオマール・シーは『最強の2人』で日本でもよく知られている。今もキャリアの絶好調で、カリスマ性はすごいし、舞台シーンの演出をすべて任されたフティット役を演じたジェームス・ティエレ(チャップリンの孫)も名演だ。

映画の中でリュミエール兄弟による撮影シーンが出てくる実物の映像も最後に流れる。



これで見ると、実物のショコラはフティットより背が低い。そして実際は、北の地方サーカスで「人食い人種」を演じていたわけではなくて最初からパリである程度の人気キャラだったそうだ。それに比べてオマール・シーは体格もよく堂々としているから、客を怖がらせる「人食い人種」役だったという設定というのもまあ分かるし、その彼がコンビでは殴られ役に徹するからこそおもしろいし、ある意味で見ている方の罪悪感が軽減される。

「人食い人種」役というのは、「黒人」がアメリカでのような「社会の被差別構成員」ではなく「見世物」として成立していたヨーロッパならではの話だ。

この見世物が「人間動物園」だった。(この記事で書いた)



映画の中で、ショコラもパリの植民地博覧会に訪れて展示されている「原住民」を見るシーンがある。それは「アフリカ」とのはじめての「出会い」でもあった。

でもショコラはキューバの奴隷の息子で、アフリカから来た「原始人」ではない。

遠いアメリカから来た「異種」だった。

だからこそ、「人食い人種」を「演じる」ことができたのだとも言える。


これにはジョセフィン・ベーカーのキャリアのことを想起させられる。

ジョセフィン・ベーカーはアメリカ生まれのユダヤ人と黒人のハーフだが、黒人のレビューグループ、チョコレート・ダンディーズ(これもショコラ!)のメンバーだった。1925年パリのシャンゼリゼ劇場で「レビュー・ネグロ(黒人レビュー)」に出て大成功をおさめた。半裸でバナナを腰の周りにぶら下げただけという衣装も有名だ。「南海の女王」「はだかの女王」そして「タムタム姫」などで「南洋の土人」を主演した「アメリカ人」なのだ。

ショコラと同じようにフランスで大成功したけれど、祖国アメリカでは人種差別に苦しんで、結局1937年にフランスの市民権を取得し、第二次世界大戦ではレジスタンスに関わり、中尉として飛行士になり、戦後は勲章を授与された。その後、日本の孤児2人を含めるさまざまな国の子供たちを養子として古城で暮したことでも有名だけれど、私は『孤児たちの城―ジョセフィン・ベーカーと囚われた13人』というドキュメンタリーが『新潮45』に連載されていた頃ずっと読んだことがあるので、複雑な気分だ。


オマール・シー自身はアメリカではなくカリブ海でもなく西アフリカのセネガルからの移民の子弟でフランス生まれ。

監督のロシュディ・ゼムはモロッコからの移民の二世。

俳優でもあり、いい映画も監督している。

私はこれまでに2作見ていた。その一つ『ボディビルダー』の感想はこのブログにもある。



この『ショコラ』を手掛けたのは、19世紀末のパリを撮りたかったこと、2人の男の友情を語りたかったこと(『最強の2人』と同じプロデューサーらしい。映画ではフティットがゲイを思わせるように描かれているけれど、実際は妻子もいる上に女好きだったという。でも、才能ある二人のプロの結びつきを強調して語る意味はある)、そしてエピキュリアンであるショコラの栄光と転落の人生を描きたかったからだという。


オマール・シーも、ロシュディ・ゼムも、今のフランスの「多様性」のすばらしい例だ。

フティットはイギリス人だったそうで、フティット役のジェームス・ティエレも、スイス生まれでサーカス育ちの国際派だ。

もともと、昔から今に至るまで、「サーカス」というのはインターナショナルな場所だ。言語によらないパフォーマンスの場だからか、サーカスも、オーケストラも、国境がなく、技能さえあれば差別などない世界だ。

その意味では、その中で「黒白」コンビで笑わせるからと言って、それは「演技」であり、金を払って観に来るパリの観客は単なる「差別感」を「満足」させていたのではない。黒人を「異種」と見ていただけだ。(第一次大戦でアメリカの黒人兵たちが大挙してフランスに入ったのを見てはじめてジャズが爆発的に流行ったが、19世紀末の時点では「対等な人間」とは見ていなかった。同時に、個々人をことさら差別するほどの認識もなく、だからこそ、ショコラのように「アイドル」にもなれたわけだ。蝋人形館にも陳列された。もちろんそうなると「嫉妬」もあるし「憎悪」も生まれてくる。)

ショコラ自身も、舞台での役割を屈辱だと感じたことによってではなく、成功した「成り上がり」エピキュリアンとしての暮らしの中ではじめて、キューバで奴隷だった父の姿を見て以来の実存的な被差別感を意識したのかもしれない。


1897年のパリで彼ら「白黒」コンビがデビューしたのは「パントマイム宮殿」と言われていた建物で、今はパラスホテルであるマンダリン・オリエンタルのある場所だ。

2人の芸で、ショコラが「殴られ役」であることを「差別」として見るのかどうかが微妙だ。

漫才などでどちらか一方が殴られっぱなしというキャラはある。

でもショコラが単独でポスターに登場した時は、キャプションにbattu et contentとある。

「殴られてもニコニコ」という感じだけれど、別にマゾヒストだと見られていたわけでもなく観客もサディックな目で見ていたわけではないだろう。

実際は彼らの演し物にはいろいろなヴァリエーションがあったそうだし、白塗りしたフティットも「ゲイシャ」姿で「ありがとう」などというシーンもあるけれど、これもまたサーカスの見世物であってここで「日本人差別」があったとも思えない。ショコラはおおらかでいつも楽しそうで生き生きしているからこそ、殴られるのを見るのがおもしろいので、白塗りで貧相なフティットやゲイシャが殴られるのを誰も見たくない。

それだけに、嫉妬によって不法滞在を密告されて捕まったショコラが拷問されたり、賭博の借金を取り立てるギャングに襲われたりする暴力シーンを見るのはつらい。

実際のショコラは逮捕されたことがなかったし、子供も芸人になったそうだ。映画では人気の頂点から零落していく結末までが誇張されてドラマティックに描かれているわけだ。

「どうして君は笑ったことがないんだ」とショコラに言われるフティットが、最後にはじめて笑い出し、やがて嗚咽するのがラストになる。

この、天才だけれど地味で陰気に見えるフティットを演じるジェームス・ティエレの陰のあるインパクトはすごい。チャップリンの血って濃すぎるのか、祖父の哀愁と可笑しみが2重写しになる。


それにしても、オマール・シーが今圧倒的な人気の役者でなかったなら、そして監督もアフリカ大陸にルーツを持っているロシュディ・ゼムでなかったら、この映画は実現できなかったかもしれない。ジェームス・ティエレの演技と芸のレベルの高さに感心する機会もなかったかもしれない。

フランスでこういう映画を見ると、考えさせられることが多すぎる。


by mariastella | 2019-02-16 00:16 | 映画

ミシェル・ルグランのこと(続き)。『シェルブールの雨傘』

『ロシュフォールの恋人たち』を観た次の日には『シェルブールの雨傘』と、昨年製作されたミシェル・ルグランのドキュメンタリー映画が続けて放映されたので観た。


『シェルブール・・』は映画版では久しぶりに観たわけだが、映画ならではの背景がしみじみと時代を感じさせた。

恋人のギイが兵役のために列車に乗り込む最北端のシェルブールの駅、同じプラットフォームの片側がノルマンディ南にあるクタンス行きで中距離用。反対側が「パリ サン・ラザール」と書いてある。画面手前に大きく「シェルブール」という看板。そのひなびた感じが胸を突く。

時代が1957年末のことでまだ兵役がある上に独立戦争中のアルジェリアに2年も送られる。アルジェリア戦争後には確か1年の兵役ですんだのにその頃は2年だったのだなあと思う。

戦地からの手紙の中で、ギイが強い日差しのことを書き「アルジェリアでは太陽と死とがいっしょに旅している」、というところも、カミュの『異邦人』の「太陽が眩しかったから」という有名な殺人のことを考えてしまう。シェルブールはノルマンディでも突出して肌寒く雨の多い町という印象だ。そんなところから、灼熱のアルジェリア戦争に駆り出される男の心情はいかばかりだったのか。


パリも遠く、アルジェリアはもっと、ずっと、遠く、若者たちの2年は永遠のように長い。


メールもSNSもない時代、どれだけ多くの恋人たちの関係が破綻したかと思うとこれもあらためて感慨深い。


『ロシュフォール…』と同じようにこの映画でもドヌーヴがタバコを吸いだすが、妊娠中なのでさすがに母親にとめられる。「傘」のショップを経営する母が娘の結婚相手に「傘」で守ってくれることを求める、というくだりにも今回初めて注意をひかれた。

ここのカーニヴァルでもコンフェチ(紙吹雪)で通りが埋まっている。


ミッシェル・ルグランのドキュメンタリーでは、ルグランの映画の影響が強い『ラ・ラ・ランド』の音楽との比較が興味深かった。どんな感情を扱っても、アメリカの音楽は単純だけれどルグランの曲はすべて両義的だというのだ。相反する感情が同時進行していると。ルグランは真の意味で音楽のジャンルを超え境界を無化した人だと。

『シェルブール…』や『ロシュフォール…』のジャック・ドゥミももちろんだけれど、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの映画と音楽との関係が画期的だったこともあらためて分かる。

ジャズをはじめて映画音楽に使ったのもルグランだったそうだ。サスペンス映画ではバッハの教会音楽もジャズにアレンジした。

でも、その斬新の価値に気づいたのはハリウッドだった。


フランス映画では『シェルブール…』よりも前に制作上演された『5時から7時までのクレオ』(ジャック・ドゥミの妻だったアニエス・ヴァルダの監督作品)が、ミシェル・ルグランの姿をあまりにもよくとらえている。

あの頃の私には何となく「おフランスの芸術映画」のような見方しかできずに、ピアニスト役のルグランの天才ぶりは目に入らなかった。

『シェルブール…』が日本でも有名な古典だということは知っていたけれど、その映画の吹き替え版の日本人歌手をミシェル・ルグラン自身が指導している場面もあった。私が少女時代に日本で観た『シェルブール…』って、何語だったのだろうと一瞬考えた。

思えば、ラストシーンは1963年のクリスマスで、1962年にアルジェリア戦争がようやく終結した後という設定も興味深い。この映画の製作年代とも重なる。

でも私が同時代の日本ではじめて観た時は、後のイタリア人監督による『アルジェの戦い』もまだ観ていない時だし、頭の中ではフランス語と日本語の違いさえも曖昧で、パリもノルマンディも、アルジェリア戦争も、何もかもが、遠い「外国」の出来事だった。


人は自分の丈に合ったもの、視力にあったものしか見えないらしい。


by mariastella | 2019-01-31 00:05 | 映画

ミシェル・ルグランと『ロシュフォールの恋人たち』

1/26未明にミッシェル・ルグランが87歳で亡くなったので翌日にTVで放映された『ロシュフォールの恋人たち』を観た。



この有名なミュージカルはこれまでにも何度も放映されているけれど私は観たことがなかった。

私が観たのは半世紀以上前の日本の映画館だ。

その時の音楽や踊りや明るい色彩やファッションや港町の様子などよく覚えているけれど、映画としてストーリーも平凡で、「もう一度見たい」という気持ちが起こらなかったのだと思う。


それに比べると『シェルブールの雨傘』の方は、日本でもフランスでも観た。特に印象的だったのはこのブログにも書いた劇場版だ。


その時にもあらためて思ったのだけれど、ミシェル・ルグランは天才だ。

今は彼の音楽の数々を聴いてなおさら、彼の天才ぶりが分かる。

『ロシュフォールの恋人たち』の贅沢さにも今回あらためて驚いた。少女時代に日本で観てから実に半世紀以上が経っている。フランスでは25周年でも話題になったから、さわりの場面はよく目にするし耳にもする。

で、今回まともにもう一度始めから視てみると、ミシェル・ルグランの自由さと即興性、細部と全体の流れの統合に名人芸を感じた。セリフや歌のフランス語が完全に理解できてから観るのも初めてで新鮮だ。すべての脚韻が心地よく耳に入る。これを字幕で見ていた時っていったいどういう受け取り方をしていたのだろう。

音楽に対する教養も昔と今ではまったく違う。

高校生の私はピアノと声楽のレッスンは受けていたけれど、もとより大した才能もなくただお稽古事が好きだっただけだ。ミッシェル・ルグランのように即興もできてオーケストレーションもできて、天性の音楽の才能を持っている人を身近に知ったのはフランスに来てからだ。(私自身は今でも即興もほとんどできないし通奏低音のアレンジもできなく暗譜も苦手で、まだダンスの方が即興や振付ができる。)


トリオのHが、10代の時にオペラ座図書館でミオンのオペラの総譜をその場で観ただけで、うちによってピアノで再現できたり私たちのアンサンブルのためにアレンジを始めたりしたのを見て、こういう人が本当にいるんだなあと思った。これももう四半世紀になるけれど、今東京の新国立劇場の芸術監督である大野和士さんがイタリアにいらした時だったか、パリの私のアソシエーションのアパルトマンに泊まられたことがある。(お兄さまが私の後輩でもあり私のパリのワンルームに当時住んでいらした)

せっかくだからパリのバッハのコンクールで2位になった石山聡さんも呼んでピアノを弾いてもらった。すると大野さんも気軽にピアノの前に座ってオペラの曲を弾きながらいろいろな話をしてくれた。

目の前にピアノさえあれば何でもするすると弾けてしまう人たちって魅力的だ。


フランス・バロック音楽は特に即興の面も多いので、後にはそういう人たちと普通に付き合うようになった。

ジャズも、バロック・ダンス曲のハーモニーとアフリカのリズムが出会ってできた音楽だから、実はバロックと相性がいい。で、ミシェル・ルグランも、そういう「フランス性」をたたえている人だから、『ロシュフォール・・』のようなダンス映画ではその魅力が全開している。

で、当時50歳くらいのダニエル・ダリューが20代半ばのドヌーヴらの母親役で、再開する恋人のミシェル・ピッコリがまだ42歳くらいだったというのは驚きだ。娘役のフランソワーズ・ドルレアックの運命の人となるピアニスト役がなんとジーン・ケリーなのだけれど、当時52歳で、今思うと釣り合わない組み合わせだ。(でもこの映画をはじめて見た頃は、高校生だったから、「大人」はみなざっくりと同じように見えた。)

ドヌーヴを運命の人とするジャック・ぺランには、その後パリで日本映画の上映会があった時に左幸子さんが招かれた時に出会って話したことがある。日本映画なんてめったに見られなかった時代で、何の映画だったかもう覚えていない。なつかしい。


今回の放映を見て、ドヌーヴらが歌って踊る祭りの仮設舞台がHONDAのオートバイの提供のものだというのにもあらためて気づいたが、すごい量のコンフェチ(紙吹雪)が広場の全体に撒かれるのにも驚いた。そういえば、昔のフランスのお祭りってコンフェチの量が半端ではなかったなあ。今でも学年末の催しの後など小学校の前の道にコンフェチが残っている。でも今は祭りを盛り上げるためにレーザーだとかいろいろな便利なものがあるからコンフェチはずいぶん減った。

日本で字幕で観ていた時は「スターたち」はみな「外人」だったけれど、今見ると、それぞれの訛りあり、それぞれの国際的な移動あり、港町というのは、さすがに国際色豊かで世界中に広がっているんだなあ、と分かる。その一方で、インターネットも携帯もない時代、若者たちが一度はパリに「上京」したいという憧れを抱いている「地方性」も活き活きと伝わり、その交差がおもしろい。


これまたなつかしいジョージ・チャキリスらの演じるトラックを運転して企業の広報ショーを担当する2人組は、行く先々でダンサーらをスカウトしてついでに「仲良く」なろうという分かりやすい無責任なプレイボーイなのだけれど、この二人と絶妙の距離を保ちながら実は厳しい美女たちの態度が小気味いい。

一度共通の目的に向かって協力し合った男女が、「ところで僕たち仲良くなったんだから寝ない?」みたいな感じで男から誘われると迷いなく拒否する。だけど、彼らの申し出るサービス(パリに連れていく)自体は拒否するわけではない。彼女らはその才能と美しさ、魅力、「若い女性」であるということだけで、男たちに十分「恵み」を与えてやっているのだから、それ以上の「取引」には応じない。彼女らの選択の琴線に触れるのは「恋」だけだ。


近年、#Metoo運動に対してドヌーヴらが発した 反論に、男たちによる「執拗だったり不器用であったりする口説き」は犯罪ではなく、「言い寄る自由」「ウザがられる自由」が彼らにある、というものがある。

この反論は「一部の女性強者の論理」だとも批判されたけれど、ハリウッドでは大物女優たちもセクハラ糾弾に容赦がない。その目から見ると、『ロシュフォール…』の中の男たちの「言い寄り」ぶりは、セクハラという概念がなかった頃の「不適切」なシーンかもしれない。


でも、この映画でそのような男たちからの「言い寄り」を前にした女たちの態度は、半世紀後のドヌーヴらの態度と変わらない。「男たちとのやり取り」のパターンが「文化」の一部になっていることは他の国でもあるだろうけれど、『ロシュフォール…』(邦題は「ロシュフォールの恋人たち」だが原題は「ロシュフォールの娘たち」だ。この違いにも注目。)以来一貫しているフランスのギャラントリー文化は、ピューリタン文化とのバランスをとる意味でも意味がありそうだ。(セクハラについていろいろ考えている人はそういう視点で『ロシュフォール…』を観返してみるとおもしろいかもしれない。)


ドヌーヴ姉妹がパーティの食事中にそろってタバコを咥えていたり、子供もシャンパーニュだか白ワインだかを飲むというのも一昔前のフランスの「あるある」だった。

ダニエル・ダリューがミシェル・ピッコリとの恋をあきらめるのがDAMEというその姓のせいで、マダム・ダームと呼ばれるのが嫌だったからという理由も、恋の成就と結婚が結びつかず結婚しても別姓が普通の今のフランスでは考えられない。


時代を感じさせるそのようなディティールは別として、とにかくこの映画にはミシェル・ルグランがあらゆる友人たちといつも即興演奏し合っている様子そのものを彷彿とさせる。

「どんな曲がいい ? バッハでも、ストラビンスキーでもミシェル・ルグランでも」というセリフもあるし、はじめて見るピアノコンチェルトの楽譜をやすやすと弾いたり、トランペットやホルンやら何でも手に取って演奏したりと、登場人物の多くが音楽家であり、なんでも自在に楽しめてしまう。

そのノリがとにかくミシェル・ルグランそのものの自由な人生を表しているかのようだ。

彼には他にも有名な映画音楽もたくさんあるし、なぜ『ロシュフォールの恋人たち』の放映かと思ったけれど、この映画の隅々にミシェル・ルグランが活き活きと息づいているのがよく分かった。


by mariastella | 2019-01-30 00:05 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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