L'art de croire             竹下節子ブログ

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『アフリカの女王』(1951)ジョン・ヒューストン

『アフリカの女王』をArteで観た。

ジョン・ヒューストンの1951年の映画。

ハンフリー・ボガートとキャサリン・ヘプバーン主演の有名な古典だ。


これを観たのは初めてではない。

最初の時もTVの放映だったと思う。


「アフリカの女王」という蒸気船が舞台のエキゾティックなシーンのことはいろいろ覚えている。

でも、主演の2人は私の好きなタイプではない。

今回もう一度見ようと思ったのは、舞台がドイツ領東アフリカだということにあらためて気づいたからだ。

今のアフリカで中国が進出していることや、EUから離脱するイギリスがアフリカとの取引を強化していることなどの昨今の情勢を見ながら、イギリスとフランス、ベルギーなどがアフリカ大陸を「山分け」して来た歴史について近頃あらためて考えていた。

で、少なくとも、ドイツやイタリアは領邦国家だったから植民地政策に「遅れ」をとっていたなあと漠然と思っていた。そして、今はメルケルもレームダック状態だけれど、ドイツがフランスと違って移民や難民を歓待しているのは、人口減少問題など以外にも、中東やアフリカにおける「旧植民地と宗主国」という関係がないからできるのかもしれないとも思っていた。

フランスとアルジェリアのように激しい「独立戦争」という確執もないし。

しかし、ドイツが統一された後、1880年代にしっかりと「東アフリカ」(今のウガンダやタンザニアあたり)を植民地にしたり「領土」にしたりしていたのだ。

19世紀の「西洋列強」帝国主義とは本当に野蛮で、自分たちだけで「合意」して境界線を引いて「取り放題」だった。

1960代に多くの国が独立を勝ち取った時に、ドイツが「宗主国」でなかったのは、第一次大戦ですでに英仏に敗れていたからにすぎない。


で、この映画には、そのドイツ領のある村に、20世紀初頭にやってきて10年「宣教」しているメソジスト教会の牧師とその妹がいる。イギリス人だ。

そこに時々通う唯一の白人が、蒸気船で荷物や郵便などを運んで来るカナダ人のウォルナットだった。

メソジストだから、牧師も結婚できる。

それなのにこの牧師が独身で、妹も(今は死語だけど)オールドミスでオルガンを弾いているのは、宣教の使命感に駆られているだけではなく、要するに生きるのが下手で要領も悪く、自国で成功しないタイプだからだ。

実際、牧師は、自分より45歳ほど若かった仲間の牧師が国教会の主教に任命されたというニュースを新聞でみて嫉妬に駆られる。その牧師は有力者の娘と結婚したからだという。

それでも宣教に専心するのはコンプレックスの裏返しと、なんといってもそこでは文字通り上から目線の優越感に浸れるからだろう。

実際、村人を集めて聖歌の練習をさせている最初の場面では、彼らを除く全員が半裸の黒人で、ほとんど黒光りしていているショッキングな図だ。

「洋服」をきっちり来ているのが「文明」であり、「半裸」は野蛮人、未開人、土人というステレオタイプそのままで、しかもそれが見ている側にも刷り込まれているのに気づくからなおさらショックなのだ。

カナダ人のウォルナットが咥えていた葉巻だかタバコだかを投げ捨てると黒人の男たちがどっと群がって飛びつき、教会の土の床に座っていた男たちまでも次々と座を立つ。

で、戦争さえ起きなければ、ヨーロッパ人同士が合意して領土化していて、イギリス人の牧師が10年住んでいようと、カナダ人の水上運送業者が行き来しようと別に気にしないでやっていたようなのに、1914年に第一次大戦が勃発する。

牧師と妹のローズがウォルナットを通じてそれを知ったのはひと月後でしかなかった。


実際、すぐ後にドイツ軍がやってきて、村を教会ごと焼き払って村人全員を連れ去る。

しかし、ドイツ軍といっても、白人は数名の司令官で、後は全員、動員された黒人だ。

この村人たちも彼らのように兵士や要員とされるために強制徴用されたわけだ。

家は焼き払ったから戻れない。


自分の生きがいだったミッションが灰燼に帰したのを見て、小競り合いでの脳挫傷もあったのか、ドイツ軍が去った後で牧師は死んでしまう。


その後、船に乗り込んだローズたちがドイツ軍の基地の前を通過する時に銃を撃てと命令されるのも黒人兵たちだ。

ローズはただ逃げるつもりはなく、ドイツ軍に復讐するために魚雷を用意するようにウォルナットに頼む。ラストの場面でドイツの軍艦に捕らえられた時も、ドイツの司令官たちはもちろん酷薄な悪人役として描かれている。


要するに、これは、報復や戦争、暴力、そして人種差別などが満載の映画なのだ。


この映画が撮影されたのは第二次大戦後だけれど、ロケ地はまだ独立前のベルギー領コンゴだ。

そこで黒人のエキストラにこういう演技をさせている。

うーん、今の感覚でこういう背景を考えれば、いたたまれないような映画だ。

最初のシーンが音楽なしで、ジャングルの獣や鳥の声が印象的だし、船が進むときに流れる軽快な曲のオーケストレーションもいい。自然の中の動物たちの姿も迫力があるし、スリルに満ちた一種のロードムービーにラブロマンスが絡んでいて、ボガートもキャサリン・ヘップバーンも満身創痍の名演なのは間違いない。

いや、しかも、日本人のように、アフリカがはるか遠く、21世紀の今でもアフリカ支援について「何であんな黒いのが好きなんだ」と発言する現役議員がいるような国の人がこういう映画を観ても、そのシチュエーションはまるでディズニーアニメの架空の国の話と変わらなくスルーできるのだろう。

今回それに初めて気がついて、誰でも、自分の知らないものは見えてこないのだとつくづく思った。


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by mariastella | 2018-09-20 00:05 | 映画

ビリー・ワイルダーの『お熱いのはお好き』 ( 1959)

ビリー・ワイルダーの『お熱いのはお好き』(1959Arteで放映していたのを観た。

Arteだから字幕バージョンかと思ったらフランス語バージョンだった。

このフランス語訳はレイモン・クノーによるものだそうで、納得がいく。


この邦題とマリリン・モンロー主演ということで、単純なラブコメディーという先入観があって、今まで観たことがなかった。

原題の「熱いのを好むものもいる」という感じのタイトルにももちろんセクシーな含意があるのだけれど、ジャズクラブで歌うマリリン・モンローに、大金持ちに化けたトニー・カーチスが「ああいう熱い音楽(ジャズ)を好む人もいるけれどぼくはクラシックの方が好き」というセリフにもかけている。

そして熱くないクラシックを好む大金持ちは「冷感症」で、モンローが、彼の欲望に火をともすためにがんばるという設定だ。


でもこの邦題ではミスリードし過ぎ。

いろいろな含意がありまくりのこの映画が、ただの「お色気」映画だと思われてしまう。(実際、日本語で感想を検索すると、セックス・シンボルとしてのモンローの映画だと思っていた、という感想が少なくなかった。で、モンローは普通にかわいいというか、キュートだと。中には、クラシック映画を観ている若者が、同じワイルダーのオードリー・ヘプバーン映画『麗しのサブリナ』や『昼下がりの情事』も見て、ヘプバーンとモンローが重なってまだ区別がつかない、などとコメントしているものもあったので驚いた。対照的な正反対のキャラなのに。時代の差を感じる。)


あらすじは、今、日本語で検索すると、ネタバレも含めて
があった。

 

(この映画を未見で、でも、このブログを最後まで読みたいという方は先にこれをどうぞ。)


この映画、よく考えると今すごくタイムリーだ。


数年前にフランスの「同性婚」の合法化の時にも取り上げられた。

「女性同士?」のキスや男性同士の結婚について出てくるからだ。

そして今は、「セクハラ」やジェンダーについての議論にぴったり重なる。


考えてみれば、ヘイズ・コードの生きていたピューリタンのアメリカで、ナチス・ドイツから亡命してきた脚本家が、よくこんなストーリーを考えついたなあと思う。(ワイルダーは当時のオーストリア=ハンガリー帝国で今のポーランド内に生まれ、この映画のマリリン・モンローが演じる娘もポーランド系となっている)


男が、「女装」することをテーマにした初のアメリカ映画だった。しかも結局検閲の承認なしで公開されて大ヒットした。

最近のアメリカでの投票による「最も笑えるアメリカ映画」の第一位だそうで、第二位が四半世紀近くも後の1982年の『トッツィー』(ダスティン・ホフマンの女装)だという。前者は命を狙われて、後者は金のため、とどちらも、「仕方なく」女装したので「性的倒錯」ではない、という、「ピューリタン的正当化」が意識下にあるのかもしれないけれど、その二つが「最も笑えるアメリカ映画」のトップに選ばれるなんて、逆に闇が照射される感じがしないでもない。

この作品も、ジャック・レモンの役に最初はフランク・シナトラが候補に挙がったのだけれど、シナトラが女装を拒否したのだそうだ。


1929年が舞台であるセリフのところどころにも反応してしまう。


偽の大金持ちが、ウィーンのフロイトのところに治療を受けに行ったという「ウソ」も、その頃フロイトを取材に言ったというワイルダーの体験の反映だし、金持ちがシェル石油の御曹司かなんかで、急遽仕事のためにベネズエラに行かねばならないという設定も、その後のチャベスや今のマドゥローに至るまでのベネズエラの運命のことを考えさせられるからだ。


女装することになる2人のジャズ奏者は、白人の大人で体格もよく、男として最もアドバンテージのある立場にあった時には普通にやっていた「セクハラ」を、女装しただけで「セクハラを受ける側」になったことに戸惑う。

おもしろいのは、彼らが女装しても当然大柄で逞しいのにかかわらず、化粧、髪、ハイヒール、ドレス、イヤリングなどのアクセサリーに豊かな胸という「見た目」だけで、「男からの欲望の対象」になることで、しかも、その男たちが、彼らよりも「男らしく」ない。

ジョー(トニー・カーチス)を追いかけまわすホテルのボーイは、「若僧」で、ジェリー(ジャック・レモン)を追いかけまわす本物の金持ちは「年より」で、どちらも、ジョーやジェリーらより背も低く、痩せて貧相で、力も弱そうであるという戯画的設定になっている。

金持ちは年とっていても「金」があり、ボーイの方は過去のジョーと同じただの「女好き」で、これらの「鏡効果」が、大金持ちに化けてシュガー(マリリン・モンロー)を口説こうとするジョーの心境にも変化をもたらす。ジョーは、自分からシュガーに迫らずにシュガーから迫られる設定を作り出すのだ。


シュガーがジョーにキスするシーンと、ジェリーと大金持ちがラ・クンパルシータを踊るシーンが交互に移される部分はもっともコミカルな場面だけれど、そこにある込み入った倒錯はシナリオの名人芸だと言えるだろう。


ジェリーが本当の大金持ちから求婚されて、「男が男と結婚する理由」として、生活の保障のため、というのも皮肉だ。実は、ラストシーンで、もう一つ「別の理由」が出てくる。「完全な人間なんていないから」という有名なフレーズだ。


大金持ちが母親の反対で何度も別れたという以前の女たちも実は男だったのか、あるいは、もともと男が好きだったので女たちとうまくいかなかったのか、ジェリーは「男らしい女」として理想だったのか、彼が男だと知っていたのか、などといろいろ想像させる終わり方だ。

ジョーとシュガーの方は、嘘がばれて「しがないサックス奏者」だと分かってもハッピーエンドということで、お話の「軽さ」を維持するのに成功している。


この「完全な人間なんていないから」という最後の言葉は、なかなか思いつかなくて、最初は


SoWhat! (だから、何。 それがどうした?

BigDeal! ( 大したことだ。ここは反語的に大したことじゃないよ、という意味)


などを考えていたそうだけれど、英語が完璧ではなかったワイルダーの共同脚本家が


Nobody'sperfect!


を考えついたのだそうだ。

これは夫婦喧嘩に関するスタンダードなアメリカン・ジョークで

夫に腹を立てた妻が「あんたって、完全なバカね!」と言い、

夫がそれに答えて「完全な人間はいないから」というのがあるので、その後半を転用したのだそうだ。


カツラという「女性コード」をむしりとって「ぼくは男だし!」と告白するジェリーにこう答えてしまう大金持ちの落ち着きぶりは立派な「オチ」になっている。

それまでにも、さまざまな欠点をあげて「結婚ができないこと」を悟らせようとしてかわされているからだ。その中で、「子供ができないし」と言われて、すぐに「養子をもらえばいいから」と答えるところが印象に残った。


この辺も含めて、ジェンダーや性的指向や結婚観や子供を生むとか生まないとか、21世紀にも続く様々な言説が想起されるのだ。


この映画にはそれらのテーマとは別に、禁酒法時代のギャング(冒頭の7人殺しは実際にあった事件)や、いかにもシシリア・マフィアっぽい「イタリア・オペラ友の会」での「制裁」があったりして、とてもコメディとは言えない世界が描かれている。それが「女装」の倒錯や、夜行列車内での「女の世界」の描写と軽重の見事なバランスをとっているわけだ。


ふと気がつくと、ワイルダーも、私が今読んでいる最中のアドルノやアンダースと同世代でドイツ語圏に生まれたユダヤ系の亡命者だ。こういう人たちが、戦後の「文化」の立役者だったんだなあ、と今にして思いが至る。


ワイルダーと同時代のフレッド・ジンネマンも同地域からアメリカに渡った。

私が一時期、カルチエ・ラタンにほとんどの作品を観に通いつめたエルンスト・ルビッチはやや年上だけれど、やはりユダヤ系でドイツから亡命。


彼らヨーロッパ・テイストの監督たちの映画がハリウッドの黄金時代を築いたのだなあと感慨深い。


しかも、ワイルダーもジンネマンもそうだが、ドイツ語圏の多くの知識人やアーティストたちはナチスの時代にまずパリに亡命している。映画をパリで学んだ人も少なくない。フランスがあんなにあっさりとヒトラーと休戦協定を結んで対独協力しなかったら、彼らはアメリカに行かないでフランスのアーティストになっていたかもしれない。


そういうことを考えると、「フランス・ファースト」的には、現在シリアから亡命してくる才能ある人々を積極的に受け入れることの意味も出てくるわけだ。

逆に、今の「近視眼的アメリカ・ファースト」ともいうべきトランプ大統領の政策に失望しているアメリカ人の気持ちもよく理解できる。


一本の映画がいろいろなことに気づきをくれる。


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by mariastella | 2018-08-21 00:05 | 映画

テレビで見たスリラー映画2本 カトリーヌ・フロは相変わらずすごい

先日、めずらしく、というかはじめて「TV映画」というものを2本続けて観た。


いわゆるTVドラマではなく、劇場公開のない映画で再放送だ。


最初の

J'ai épousé un inconnu『私は見知らぬ男と結婚した』


というスリラーの評判が良かったのでなんとなく見始めたのだ。

主演のデボラ・フランソワはダルデンヌ兄弟の『LEnfant』で18歳の母親を演じていたベルギー女優で私の好みだし、彼女の役が未成年相手の精神医というのが気になったのだ。

私のピアノの生徒の1人が中高生専門の心理療法士で、彼女と日ごろいろいろな話をしていることや、別の知人の15歳の息子が問題を抱えていてセラピー代わりにレッスンをしたこともあるからだ。

映画は拒食症その他の問題を抱えた子供たちを扱う療養センターのようなもので働くエマと同僚の紹介で知り合ったフリーライターのダヴィッドとの結婚式から始まる。その後、エマは何者かに命を狙われるのだけれどその度にダヴィッドが不在で、警察はダヴィッドを疑う。エマは妊娠中だが、夫の過去や家族のことをあまりにも知らないことに気づく。

殺人事件の90%は顔見知りによる犯行で、そのうち、男が殺された時の62%が妻による犯行、女が殺された時は93%が夫の手によるものだという統計を持ち出してエマを守ろうとする女性の捜査官が出てくる。

確かに、よくできたサスペンス小説を読んでいるように楽しみはしたけれど、パトリシア・マクドナルドの原作小説も多分同じようにおもしろいのだろう。

で、なんだか拍子抜けしていたら、コマーシャルもなくて突然次のテレビ映画が始まった。


La Tueuse caméléon『カメレオン殺人者』Josée Dayan Catherine Frot, Julie Depardieu, Jeanne Balibar)というものだ。


しかも、のっけから、仲良さそうにしていた女性の二人組のうち一人が相手をあっさりと撃ち殺してしまう。そしてその殺人者があのカトリーヌ・フロなのだ。

この人が主演であるだけで強烈な磁力に捕らわれて最後まで見てしまった。


3ヶ月後の次の犠牲者役がドゥパルデューの娘ジュリーで、この人も独特の持ち味がますます濃縮になり、殺人者の毒牙にかかるまでの2人の辛みが興味深い。


後で調べてみるとシナリオや構成などが結構批判されている映画なのだけれど、全体がリアルなのかシュールなのか分からない独特のリズムと雰囲気で、そこに、女性捜査官の執念のエピソードが何度も挿入されるのも始めは不自然に感じたけれど、後で納得できた。


そして、その捜査官を演じているのが、『バルバラ』の主演だったジャンヌ・バリバールだ。この人は、哲学者の父と物理学者の母を持ち、アンリ四世校からエコール・ノルマルに進学した超エリートなのに、その後もコンセルヴァトワールやコメディ・フランセーズなどでも活躍し、歌手としても活動するという多才な人だ。

倒錯者の役がはまるカトリーヌ・フロと正反対のタイプで、とにかく「かっこいい」に尽きる。最後にこの二人のそれぞれの闇が交錯するのがどきどきさせる。


これは実在の事件がモデルなのだそうだ。

この映画ではフランス人女性がイタリアに渡るのだが、実在の「カメレオン」は、イギリスに渡ったNY生まれのアメリカ人女性のシリアル・キラーで、最後はやはり追い詰められて2003年に60歳で自殺したので、その心の動きの真相は誰にも分らないままだったという。イギリスでは完全にブリティッシュのアクセントを習得し、カメレオンというのも彼女の自称だった。フロリダの女性判事がずっと捜査していたという。

この実話はwikipediaで読むだけでも驚きの展開(日本語では見つからなかった)なので、それに比べると確かに映画の構成は中途半端と言えないでもない。

でもカトリーヌ・フロ―の怖さが半端ではないので、最後までしっかり観てしまった。

結局夜9時すこし前から零時過ぎまで、スリラー映画を2本続けて観たことになる。捜査側の男と女の人間関係や、精神分析や心理療法のシーンなど微妙に似ているシーンもあるので、なんだか妙な気分になった。

これを書いている時点(2018/6/30)では二本ともネットで全編を視聴できることが分かった。フランス語が分かるカトリーヌ・フロのファンは試してみてください。



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by mariastella | 2018-07-24 00:05 | 映画

『ヒロシマ、そしてフクシマ』(追記あり)

小寄道さんのこのブログでフランス人監督によるドキュメンタリー映画『ヒロシマ、そしてフクシマ』紹介されていた。


その最も印象的だと言われる部分を、監督のサイトで観ることができる。

福島の女性たちが必死で訴えるこの箇所は、男性の観客にとって映画の印象や、その好き嫌いが別れる場面だったのだそうだ。


確かに、「男性には想像力が足りない」と決めつけているのはジェンダーバイアスだともいえる。

想像力が足りない、というよりも、男性には、「想像力を働かせ、行動に反映させる」ことを阻む社会的な構造や圧力がより強く働いているということだろう。


弱者の身になって寄り添うという行動パターンには、次世代を残すという類的な利点があるから男女ともにあるはずだ。

でも「テリトリー」(地位や財産も含む)を守るという行動パターンの方は「オス」に顕著だから、自分のテリトリー外の弱者の立場への想像力を封印してしまうことが多いのかもしれない。


この場面での女性の訴えのインパクトは強烈で、受けて立つ役人がどうしてこんなに無感動をよそおえるのかと感心するほどだ。


けれども「男性には想像力が足りない」とジェンダー仕様にすることで、「当事者と役人」の構図が、「感情的な女性と冷静な男性」のような構図にすり替えられてしまうリスクが高まった。


それでもこれを見ると、「当事者と傍観者」として、災害に対する想像力の大切さをあらためて考えさせられるので一見の価値はある。


追記) フクシマの女性による批判の言葉のうちで、「男性には想像力がない」と最初に書いたのは、正確には「男性には想像力が足りない」だったので訂正しました。

足りない?想像力でも、それをどこにどのように働かせるかが問題とされているのは言うまでもない。「お役人の姿」は感情も想像力も封印しているかのようでほとんど気の毒なくらいだ。私は想像力が豊か過ぎるので、もしこの若い方の役人が自分の息子だったら後で何を話し合うだろう、などと考えてしまった。


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by mariastella | 2018-07-18 00:05 | 映画

『La promesse de l’aube』(夜明けの約束)と『Ôtez-moi d'un doute.(疑いを晴らしてください)』

帰りの機内で観た映画 その3


フランス映画『La promesse de laube』(夜明けの約束) エリック・バルビエ監督。


イヴ・サンローラン役がはまっていたピエール・ニネと、シャルロット・ゲンズブールという二人のユニークな性格俳優が母と息子の年代記を演じる。


ピエール・ニネはなんとなくスラブ顔だが、ゲンズブールはポーランド人に見えない。いや、実際は、彼女の演じるニーナ・カツェフはロシア人の元女優で、息子が生まれた頃はポーランド領とされていた地域に住んでいたが、ユダヤ人でロシア正教に改宗しているらしい複雑な背景だ。


1980年に66歳で自殺した人気作家ロマン・ガリーの自伝が原作で、母親は息子を一人で育てているが、何としても息子にフランスで一旗あげてほしい、父親はフランス人であると強調する(実際のロマン・ガリーの父はユダヤ系ロシア人だったらしいが当時のアーティストたちにとってはフランスは憧れの祖国的存在だったようだ)。


で、14歳で母子そろって憧れのフランスのニースに移住するが、母の期待を受けて小説を描き続け、しかし、第二次大戦がはじまって空軍のパイロットとなり、その後でイギリスに逃れて「自由フランス」のレジスタンス戦士として活躍するなど、波乱万丈の生涯を送る。


これも、ヨーロッパの複雑な歴史と地政学的状況、文化、宗教、ロシアとロシア革命、二度の大戦、反ユダヤ主義などの背景が具体的な一組の母子の運命を通して浮きあがってくるのが面白い。


この手の背景は、「昔の話」ではなくて「当事者」が今でもいくらでも「再生産」され、研究も深まるので、「映画的ごまかし」はきかないから、かなり本気で制作されている。

母子関係だけを見るととんでもない「鬼母」で、教育的に絶対「正しくない」圧力のかけぶりで、息子は絶望的なマザコンだけれど、激動の時代に異常なテンションとボルテージ、執念と強迫と才能とが火花を散らしてフランス文学の「天才」作家が生まれた。その何かが足りなくて時代の犠牲になった無数の若者たちがいたことはいうまでもない。

最後がごくシンプルなフランス映画のコメディ『Ôtez-moi d'un doute.(疑いを晴らしてください)』だ。


女性監督のカトリーヌ・タルディュー。


今や名優となりつつあるフランソワ・ダミアンに、すっかり熟女になったセシル・ド・フランスなどが出ている。

バック・ミュージックにヴィヴァルディの二台のマンドリンの協奏曲とか、モーツアルトのオペラとかが効果的に使われているのが印象的だった。


親族間の遺伝子検査で父親と血がつながっていないと知ったブルターニュの不発弾回収者エルヴァンはやもめだが、育ての父親も愛しているし、妊娠中の娘も愛している。母はもういない。


しかし私立探偵をやとって実の父について調査し始める。

それらしいと分かった老人のもとを訪ねてうちとける。その前に偶然出会った女医に惹かれるが、彼女はその老人の娘だった。ということは異母兄妹という関係かもしれない。

他にいろいろな人間関係が絡むのだけれど、お涙頂戴でもなく笑い飛ばすわけでもなく、ぎりぎりのところで知的でエレガントに仕上がっていて、それには主演の二人の「品」が寄与している。


特殊な家族関係のドタバタでありながら、ヒューマンドラマになっているところに好感が持てた。


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by mariastella | 2018-06-27 00:05 | 映画

『天国でまた会おう』と『若きマルクス』

帰りの機内で観た映画  その2

フランス映画もいくつか観た。


『天国でまた会おう』( Au revoir là-haut


2013年のゴンクール賞を獲得したピエール・ルメートルの原作を映画化したもの。


もとはミステリー作家だけれど、この映画にはまるで『天井桟敷の人々』を観ているような香りと味わいがある。

マルセル・マルソーのピエロの化粧と、顔を失った男の仮面とが重なる。


 第一次大戦後のパリというのは独特の欠落と自由と不安と享楽が混在した独特の雰囲気で、『天井桟敷の人々』の舞台のパリとは一世紀も隔たっているのだけれど、同じ不思議な魅力がある。


「傷痍軍人」が支給されたモルヒネを売って生きのびたり、戦士の記念碑のデザイン詐欺によって金儲けをしたりというそれぞれのサバイバルのエネルギーに圧倒される。

 アートと戦争、アートと金儲けとサバイバル、そして父と息子、見どころ、考えどころがたくさんある。

ルイーズ役の11歳の少女が、あごを失ってうまく発音できない主人公エドゥアールペリクール(これを演じるのはあの『BPMビート・パー・ミニット』「バロック俳優」ナウエル・ペレズ・ビスカヤールで、彼なしにこの映画は成り立たない)の独特の言葉をどうやって通訳できるのか分からないが、彼女の存在もまるでユゴーの世界みたいだ。

『若きマルクス』はフランス・イギリス・ベルギー製作でラウル・ペック監督。でも邦題はなぜか『マルクス・エンゲルス』


パリで若きマルクスが眺めるアナーキストの演説に出てくる標語は「労働、平等、一致」だ。

マルクスはケルンを追われて、1844年にパリに出てくるが、子供が生まれて生活は楽でない上に、不法滞在でもある。

マルクスはプロテスタントに改宗したユダヤ人ラビのの息子だが妻はウェストファリアの貴族の娘だ。

イギリスのマンチェスター工場で出会ったアイルランドの女工であるエンゲルスの連れ合いの方は、何よりも「自由でいたい」ために、子供も欲しくないし、貧乏なままでいたいという。エンゲルス自身はプロテスタントの裕福な紡績事業主の息子だ。

この二組のカップルを見ていると、組み合わせの妙、カップルの力というのは大きいなあ、と思う。


フランスに長年暮らしている身として感慨深いのは、マルクスもエンゲルスも、独仏英の三か国語がペラペラだったんだなあ、ということだ。

マルクス夫妻もマルクスとエンゲルスも、フランスでは他人がいなくても互いにフランスで話してしまうシーンも、「あるある」だ。

ロシア人ももちろん出てくるが、ロシア人もフランス語を話す。


『共産党宣言』の起草にあたって「カトリックに代わって新しい宗教を創る!」 と言っているのもおもしろい。こういう時に反面教師というかモデルになるのは、やはりプロテスタントではなくて教義も組織も盤石で続いてきたカトリックの方らしい。


最近、近刊の資料としていくつかのマルクス伝を読んできたけれど、ヨーロッパの多言語がとびかう映像による再構成というのは追体験として貴重だと改めて思った。


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by mariastella | 2018-06-26 00:05 | 映画

『シェイプ・オブ・ウォーター』と『神様の思し召し』

帰りの機内で見た映画いろいろ (その1)

5月初めに帰仏した時に機内で観た映画について忘れないうちに記録しておこうと思っているうちにひと月以上も経ってしまった。

まずアメリカ映画

『シェイプ・オブ・ウォーター』サリー・ホーキンスリチャード・ジェンキンス

これについてはすでに少し『亜人』評の中で述べた。


孤独なヒロインに寄り添うのがゲイの黒人の老人などと社会的ハンディをいくつも持っている人物であるのに対して、彼女にセクハラ、パワハラ全開の男は典型的なWASPの白人男で、「全ての人間は神の似姿として創られた」という聖書のセオリーも、「神は私の方によく似ている」などと言う。

そして、「人間」ですらない謎の水中生物は「神の被造物」にも入れてもらえないらしく、人権も生命の尊厳も顧慮されない。


SFとファンタジーとレトロな雰囲気が交錯した不思議な映画だ。

イタリア映画『神様の思し召し』(エドアルド・ファルコーネ 監督)



 まず、このサイトからストーリーをコピー。


>>>完璧主義だが、傲慢で自己中心な辣腕医師トンマーゾを主人公に、将来は医者へと期待を寄せている息子の思わぬ告白から、ある神父と出会い、人生観がひっくり返される様子をコミカルに描いている。トンマーゾと結婚して以来、かつての輝いている自分が消えうせ、子どもが育った今、人知れず孤独を抱えている妻や、トンマーゾらとほぼ同居状態の能天気な娘、トンマーゾからは馬鹿にされながらも、愛嬌のある不動産業の娘婿と、家族のキャラクターも個性的。トンマーゾの態度が変わることで、家族との関係が変化していく様子も丁寧に捉え、トンマーゾと共に家族が再生していく姿も感動を呼ぶヒューマンコメディー<<<

邦題が『神様の思し召し』で原題は『神が望むなら』だそうで、フランス語の題は『それだけは、だめ』だ。つまり、カトリック時代に大罪である同性愛のカミングアウトを受け入れるのは、今ではトレンドで我慢するけれど、医学部にいる一人息子が大学を中退して神学校に入って神父になるなんて、それだけは、絶対受け入れられない、という意味。


イタリアと言うとカトリックのおひざ元という感じだけれど、この映画では教会の壁に落書きがあるし、立小便している者もいる。医師も、キッチンドリンカーの妻も、カトリック教会は世界一意味のない組織だ、神父は煙突掃除人と同じくらい時代遅れの職業だ、と断言する。


若者たちを洗脳している絶対に怪しそうな神父は前科者でもあり、医師は彼の欺瞞を暴こうとするが、神父はどうやら彼よりも人間としての器が大きい。

テーマは結局、宗教がどうとかではなく、「境遇がまったくちがう大人の男の意外な友情」であり、ある意味でラブストーリーだ。


ラストで事故に遭った神父が助かるかどうかという時に、若者たちは病院に駆けつけるが、医師は病院から出て教会に赴く。そこで無神論者の彼がいよいよ「神頼み」で祈るのかと思うと、一心不乱に床掃除をしだすのだ。そのシーンが実にうまい。

(続く)


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by mariastella | 2018-06-25 00:05 | 映画

ブラッド・アンダーソン『ベイルート』

ブラッド・アンダーソン監督の『ベイルート』

レバノンのベイルートにおける1972年のアメリカ大使館テロから内戦を経て1982年にやはりアメリカ大使館の高官がPLOに誘拐される事件を通して、「人質交換」をめぐるサスペンス映画。

主演はジョン・ハムという人で、最初のテロで外交官として勤務していたメイソン役。大使館で妻を殺され、養子にしようとしていたパレスティナの少年カリムとも別れる。

カリムの兄がばりばりのパレスティナ解放同盟の活動家だった。

メイソンはアメリカに帰り、アル中気味で、中小企業間のネゴシエーターをしていたが、レバノン時代の友人が誘拐され、PLOがメイソンを仲介役に指定したと知って10年ぶりに現地を訪れる。

撮影はモロッコだそうだが、内戦で荒廃したベイルートの町の悲惨な様子は、ついこの前「イスラム国」から奪還されたイラクやシリアの歴史的な美しい町の惨状と重なる。

この映画はアメリカ視線、白人視線で、実際のレバノン人は誰も起用されていない、アラブ人への偏見があるなどとも批判されたそうだが、当時の状況を内側の人間ドラマを通して実感できるという意味で貴重な情報提供だと思う。

前に『アルゴ』を見た時も、ホメイニ革命でのクライシスの裏側を観て興味深かった。この『ベイルート』はスリラーとしては『アルゴ』ほど成功していないのだけれど、イスラエルとパレスティナとアメリカのからみがよく分かる。

レバノンは元フランス語、フランス文化が浸透していた国(中東の多部族の抗争地域で土着のキリスト教徒を守るための緩衝地帯として創られた政治的な国)で、この映画にもフランス語のポスターがちらりと出てくる。でももちろんすべてはアメリカ視線だ。アメリカン・ユニヴァーシティも出てくる。


この期間のテヘランやレバノンやカイロというのは個人的に縁の深い場所なので、当時を回顧して内側から再構成するような映画はどうしても観たくなる。

パキスタン、アフガニスタン、イランやトルコや中近東のその後の展開、冷戦後の軍産コングロマリットのグローバル化と油田の利権、東欧の内戦、イスラエルとパレスティナの戦い、イスラム原理主義とテロリスト、米英軍のイラク派兵、アメリカやヨーロッパでの報復テロなど、この映画の終わった時点から35年以上の月日が経った。

ようやく今になって、自分にとって一番者が見えてくるのに適当な距離感と視座が決まって来た。

この映画は決して「昔の戦争の話」などではなく、エスカレートして再生産される愚行のプロトタイプの一つとして身につまされる。

傲慢と非人間性がいつもセットになっているのも分かる。


車で映画館に行ったのだが、信号待ちの道路の横に「シリアのファミリー」という紙を掲げてのぞき込む中東の男とそばにうずくまる母子がいた。

このような現実は、日本で映画を観る人には想像できないだろう。

こういう時に本当にするべきなのは、「当局」に知らせて家族を保護してもらうことだろう。彼らは本当のシリア難民かもしれない。明らかな未成年の難民なら必ず保護してもらえるはずだ。

フランスには、長い間、子供とセットにして物乞いをさせる組織的なロマ(ジプシー)のネットワークがある。子供は少し大きくなると今度は「ひったくり要員」として放たれる。

いや、中世からずっと、さまざまな「弱者のふり」をして喜捨で生きる人々のたまり場もあった。

メトロの中の物乞いにもさまざまなタイプがあり、当初、何もできないことに罪悪感を抱いていたら、「あれは商売なのだから相手にしてはいけない」と言って罪悪感を解消してくれたフランス人の司祭もいた。

そのような国に何十年も住んでいたら、「シリアのファミリー」と称する人が道路にうずくまっていても、とっさに懐疑と警戒の念が起こる。申し訳ない。


二十世紀のふたつの大戦後に「大国」の恣意的な世界地図の線引きによって起こった数々の悲劇は形を変えて続いている。私にとってはそれは1970年代からずっと身近にあるものだ。


それらのことをいつも考え続けるのはつらいけれど、いろいろなことを想起させてくれる「映画」との出会いには感謝する。


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by mariastella | 2018-06-20 00:05 | 映画

『ヴィクトリアとアブドゥル』(スティーヴン・フリアーズ監督)

往きの機内で観た最後の映画は
スティーヴン・フリアーズ監督の、『ヴィクトリアとアブドゥル』だ。


81歳というヴィクトリア女王の孤独を名演のジュディ・デンチ。この人は30年前にも『Queen Victoria 至上の恋』という映画で、やはり使用人を優遇してスキャンダルになるストーリーをやったが、ヴィクトリア女王のキャラってある意味これだけわかりやすいともいえる。

優しさを求め、女王でなく「対等」に接してもらいたい、つまり、人間として生きたい、というわけだ。

この「ガラスの壁」は厚く、全くアウトカーストの無邪気なのか単に人間性や共感力が優れているのかわからないような人だけが時にするりと抜けてみせる。

アブドゥルの場合は、植民地インドの有色人種、しかもヒンズー教ではなくムガール帝国のムスリム(だから兵士たちは、イギリス軍が大砲のメンテナンスに豚の脂を使っていることが許せなくて反乱を起こしたのだという。)などと異質性が半端ではない。

当時、世界の四分の一を支配したという大英帝国だが、そこに君臨する首長の「人間性」は誰からもリスペクトされない。

今の民主主義国にも信教の自由や職業選択の自由や選挙権すらない元首や特別な家族たちがいる。

人々のエゴによって犠牲に供されるのは、分かりやすい無産者や弱者だけではないのだなあと気づかされる。

アブドゥルの場合も、『最強のふたり』の、車椅子の大金持ちと使用人の友情のことを思い出してしまった。本質は同じなのだけれど、たとえ何歳の年の差があろうと、ヴィクトリア女王の場合は、よい同性の友情が得られなかったのが残念で、娘との関係はどうだったのだろうとも思うが、それも、姻戚関係などでままならなかったのだろう。

ある意味で「失うものが何もない」無産者の方がハードルを越えてくれる。

でも、それが男と女であるとスキャンダルはどこまでも大きくなる。


テーマの「普遍性」をねらっていない分、物語として飽きずに見ることができた。


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by mariastella | 2018-06-05 00:05 | 映画

『幼な子われらに生まれる』三島有紀子

 往きの機内で観た三つ目の日本映画は『幼な子われらに生まれる』三島有紀子

再婚同士の夫婦の間に自分たちの子供が生まれるが、他の子供たちとの間にさまざまな葛藤が、というストーリーということで、赤ちゃんをめぐってどう関係が変化するかという話かと思ったら、赤ちゃんは最後の最後にしか生まれない。この赤ちゃんが生まれたこと自体が「結論」であるわけだ。


これは、ドキュメンタリー、というか他人の私生活と内面の動きを内側から「覗く」というタイプの映画として出色だ。監督の三島有紀子という人すごい。


主演の浅野忠信も、仕事と私生活、しかも普通の男が二つのステップファミリーの間で全力、最善を尽くしながらも無力感と怒りの中で揺れ動くという役を等身大に演じられるのがすばらしい。


実の娘の母親が学者のインテリで同業者と再婚し、義理の娘たちの父がDVの末の家庭脱落者という対照的な設定なのも、それぞれのささやかな幸せややりきれない不幸をきっちり描いているのでカリカチュアにはなっていない。自分と自分の周りに命があって、それを大切にすることが生きることなんだというメッセージが最後には自然に浮かび上がる。


でも、『三度目の殺人』でも思ったけれど、どうして「父と娘」とか、ともかく「娘」という設定の方が「お話」が作りやすいのだろう、と思ってしまう。


これらの映画の中では、「男」たちは、自分たち自身が永遠に「息子」の立ち位置に置かれているるともいえる。

「娘」の方は、「母」になるとスタンスが変わり、さらに「女」というだけで周り「男」たちにプレッシャーをかけている、という感じもする。


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by mariastella | 2018-06-04 00:05 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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